第9話:由緒正しい品
その男は、六月の、よく晴れた午後に来た。
私は、受付の当番を代わってもらって、寄贈受付の窓口に座っていた。もう二週間、そうしていた。いつ来るか分からない相手を、ただ待つのは、記録の仕事に似ていた。来るまで、何度でも、同じ椅子に座り直す。
そして、来た。
仕立てのよい、灰色のコート。四十くらいの、品のいい紳士。にこやかな笑みを浮かべて、風呂敷包みを抱えている。防犯カメラで、何度も見た顔だった。
「寄贈を、お願いしたいのですが」男は、柔らかく言った。
「承ります」私は、声が震えないように、ゆっくり言った。「お品を、拝見します」
風呂敷が解かれた。中から出てきたのは、古い、螺鈿の小箱だった。男は、折り目正しい寄贈経緯書を、そっと差し出した。
「これは、由緒正しい品でしてね」
来た、と思った。あの、合図の言葉。
「祖父の代から、蔵にありました。ええ、来歴ははっきりしております」男は、よどみなく語った。江戸後期、さる大名家の姫の嫁入り道具。伝来の経緯、修復の記録、真贋の根拠。すべてが、完璧だった。完璧すぎた。「どうか、そちらで大切に、記録していただけますか」
私は、経緯書を受け取った。そして、顔を上げて、男の目を、まっすぐ見た。
「各務さん、ですね」
男の笑みは、崩れなかった。ほんの少しだけ、目の奥が、面白がるように光った。
「はて。私は、田代と申しますが」
「今日は、田代さん」私は言った。「手鏡のときは田辺さん。古写真は安田さん。糸車は森田さん。掛軸は大高さん。……署名は、毎回、お上手に変えていらっしゃいます。でも、経緯書の文章の癖は、変わっていません。撮影地を先に、続柄を後に、『と伝わる』で締める。四枚とも、同じ手でした」
各務は、しばらく私を見ていた。それから、心底愉快そうに、小さく笑った。
「……よく、調べていらっしゃる。前の方と、同じだ」
心臓が、跳ねた。前の方。桐谷さんだ。
「あの方も、私の経緯書を、一枚ずつ綴じて、突き合わせてね」各務は、懐かしむように言った。「熱心な、いい記録係でした。熱心すぎた。私の品の、本当の来歴を、全部、書こうとなさった。……全部、ですよ。書ききれるはずが、ないのに」
「あなたは」私は、乾いた喉で言った。「これを、"手放し"に来ているんですね。所有したいんじゃない。憑いた品を、博物館という正規の記録機関に押し付けて、自分から、切り離している」
「人聞きの悪い」各務は、螺鈿の小箱を、指先で愛おしそうに撫でた。「私はただ、しかるべき場所に、しかるべき品を、寄贈しているだけです。来歴を添えて。ご丁寧に。……それを、どう記録なさるかは、そちらの、お仕事でしょう?」
そうだ。そこが、この男の、いちばん狡いところだった。
各務は、嘘の来歴を、書類にして、置いていく。それを台帳に写せば、私は"嘘を正しい記録として"載せることになる。載せた瞬間、品は封じられず、私のほうへ憑く。かといって、突き返せば、品は野に放たれ、また別の誰かのところへ、憑いて回る。
正しく書けば、封じられる。けれど、この男が差し出すのは、いつも、正しくない来歴だ。だから、正しく書くには、私が、この男の嘘の下にある、本当の来歴を、自分で掘り当てるしかない。
各務は、それを、面白がっている。記録係と、鬼ごっこをしている。
「では、よろしく」各務は、螺鈿の小箱を残して、立ち上がった。「ああ、そうだ。一つ、いいことを」
去り際、男は、にこやかなまま、こう言った。
「前の記録係が、最後に手をつけた品は――まだ、区分外の、いちばん奥にありますよ。彼女が、書ききれなかった、あれが」
そして、灰色のコートは、明るい博物館の光の中へ、消えていった。
私は、螺鈿の小箱と、完璧な嘘の経緯書を、両手で持っていた。
桐谷さんが、最後に手をつけた品。書ききれなかった、あれ。区分外の、いちばん奥。
私は、まだ、そこを見ていなかった。
各務との初対面でした。嘘の来歴を"寄贈"し、記録係にその下の真実を掘らせて楽しむ男。そして、桐谷さんが最後に触れた品が、区分外の奥に残されている――。次回、各務が置いていった螺鈿の小箱の"完璧な嘘"を、ナナミが崩します。第二章の山、「その来歴、確認が取れません」。ブックマークで、対決の続きを。




