まずは食事を済ましてからだ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
帝國魔導研究所。
戦闘種族の製造、管理、運用。
帝國最大の秘匿施設のひとつ。
その所長室には、重苦しい空気が満ちていた。
受話器の向こうから聞こえる落ち着いた声に、魔導研究所の所長は安堵と恐怖を同時に覚えていた。
安堵は、まだ切り札が残っていること。
恐怖は、その切り札を使わなければならない状況になったことだ。
「……お目覚めでしょうか?」
――君は、誰だね? 名乗りたまえ。
静かな声だった。
だが、それだけで背筋が伸びる。
研究所所長は慌てて姿勢を正した。
「失礼しました。私は魔導研究所第二十代所長です」
しばし沈黙。
やがて受話器の向こうから、感慨深げな声が返ってきた。
――二十代目か。
――儂が記憶しているのは十七代目であったはずだがな。
――それほど時間が経過したか。
「はい。現在は正式な引継ぎを受けております」
――そうか。
短い返答。
しかし、その一言には妙な重みがあった。
数十年という歳月を、ただ事実として受け止める声。
人間でありながら、人間離れした時間を生きてきた存在。
研究所所長は改めて認識する。
この男は、自分たちとは違う。
帝國が生み出した最高傑作。
超戦闘種族。
その第一位。
――前置きはよい。
――要件は分かっている。
――王国の勇者だろう。
「ご察しの通りです」
所長は息を呑んだ。
そして、最も伝えたくない報告を口にする。
「ゼータが戦死しました」
沈黙。
室内の時計の音だけが妙に大きく聞こえた。
やがて返ってきたのは怒声でも驚愕でもない。
ただ一つの確認だった。
――確認はしたのかね?
「はい」
――そうか。
それだけだった。
研究所所長は逆に寒気を覚えた。
ゼータは勇者殺し。
帝國の英雄。
だが、この男にとっては感情を乱す理由にはならない。
「勇者は、そちらへ向かったと情報を得ています」
「程なく閣下の守護地へ到着するかと」
――ゼータが敗れたのであれば。
――相当な相手であろうな。
声はあくまで静かだった。
だが、その静けさこそが不気味だった。
――では、枷を外してくれ。
――それと儂の装備を送っておいてほしい。
「はい、承知しました」
――では。
――同胞ゼータの弔い合戦といこう。
「閣下のご武運を願っております」
すると即座に返答が来た。
――儂は勝つ。
――すべては帝國のために。
通信が途絶える。
研究所所長はゆっくりと受話器を置いた。
そして両手を組み、深く息を吐く。
まるで処刑執行書に署名した後のようだった。
「これで彼が敗れたら、もう……」
言葉は続かなかった。
続きなど誰も聞きたくない。
帝國が持つ最強のカード。
最後の切り札。
それを今、戦場へ送り出した。
後は結果を待つしかない。
一方。
覚醒室では、一人の男が鏡の前に立っていた。
濡れた黒髪を整える。
口髭を撫でる。
皺一つない軍服に袖を通す。
その動作は実に丁寧だった。
戦いへ向かう戦士というより、晩餐会へ向かう紳士のようである。
やがて棚へ視線を向ける。
そこに置かれていた酒瓶は空だった。
男は少しだけ眉を上げた。
「まだ開戦には時間があるな」
懐中時計を取り出す。
蓋を開き、時刻を確認する。
そして小さく笑った。
「仕入れにいくか」
帝國最強の戦闘種族。
ファイ。
その男は、まるで散歩にでも出かけるような気軽さで歩き出した。
だが、その一歩が。
帝國と王国の運命を大きく動かそうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオニスは今日も胃が痛くなりそうだった。
原因は明確である。
アウレリア。
最近では、その名前を聞くだけで胃の辺りが重くなる気さえしていた。
もっとも本人に悪意はない。
ないのだが、結果として毎回問題の中心にいる。
今回もそうだった。
先日の帝國軍との激戦。
戦闘種族ゼータとの死闘。
王国軍は大きく消耗していた。
そのため巡礼団は行軍速度を落とし、巡礼の地を望む小さな村へ立ち寄っていた。
あと一日も進めば目的地へ到着する。
レオニスは宿の机で日誌を書きながら言った。
「明日には巡礼の地へ着きそうだね」
「そうね」
返ってきた声は妙に気の抜けたものだった。
アウレリアは窓際の椅子に座り、外を眺めている。
珍しく平和な時間だった。
だからこそレオニスは余計なことを口にした。
「トラブルだけはやめてくださいね」
その時は軽い冗談のつもりだった。
後になって、自分で立てた死亡フラグだったと後悔する。
アウレリアは何もしていない。
本当に何もしていなかった。
だが、トラブルの方からやって来た。
村の酒場で騒ぎが起きたのだ。
王国軍の兵士数名が酒に酔い、店主や客と揉めた。
そこまではよくある話だった。
問題は、その場を収めた人物だった。
帝國軍の軍服を着た初老を過ぎた男。
ただそれだけで話は面倒になる。
酒場に駆けつけた時、騒動は既に終わっていた。
酔った兵士たちは床に転がされている。
しかし誰も大怪我はしていない。
男は腕を組み、静かに立っていた。
軍人らしい姿勢。
無駄のない所作。
派手さはない。
だが妙な威圧感があった。
「儂は、その若造たちが悪さをしたので注意しただけだが」
落ち着いた声だった。
怒りもない。
見下しもない。
ただ事実を述べているだけ。
店主への聞き取りでも結果は同じだった。
全面的に王国軍側が悪い。
レオニスは頭を抱えた。
謝るしかない。
するとアウレリアは迷うことなく頭を下げた。
「ごめんなさい」
「店主さんも、ご迷惑をおかけしました」
男は少し目を細める。
予想外だったのだろう。
帝国と敵対する王国の人間が即座に謝罪したのだから。
「気にしておらんよ」
「儂は酒を仕入れに来ただけだからな」
男はそう言って立ち去ろうとした。
ここで終わる。
普通なら終わる。
だがアウレリアは終わらせなかった。
「あ、待って」
男が足を止める。
レオニスの胃が嫌な予感を覚える。
「お詫びに食事でも一緒にどうですか?」
その場の空気が止まった。
レオニスも止まった。
店主も止まった。
周囲の兵士たちも止まった。
帝國軍人を。
食事に。
誘った。
「あのなぁぁぁ……」
レオニスは思わず頭を抱えた。
王国と帝國は戦争中である。
つい先日まで殺し合っていた。
常識で考えればあり得ない。
しかしアウレリアは本気だった。
純粋に謝罪のつもりだった。
男はしばらく無言だった。
やがて軍服のポケットから懐中時計を取り出す。
蓋を開く。
時刻を確認する。
その仕草は妙に様になっていた。
「そうだな」
男は静かに笑った。
「良かろう」
「やった!」
アウレリアの顔が明るくなる。
レオニスは天を仰いだ。
もう何も言うまい。
どうせ止まらない。
こうして。
王国の勇者アウレリアと。
帝國最強の戦闘種族ファイは。
数奇な運命に導かれるように出会いを果たした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
村で唯一の酒場兼食事処は、夕刻の柔らかな喧騒に包まれていた。
木造の店内には香ばしい肉の匂いが漂い、旅人たちの笑い声が響いている。
そんな中。
王国の勇者と帝國軍人が同じ卓を囲んでいた。
事情を知らない者が見れば、ただの旅の一幕にしか見えないだろう。
「出来るもので良いから、三人前お願いね!」
アウレリアは元気よく店主へ手を振った。
まるで今日知り合った友人を食事へ誘ったかのような気軽さだった。
「ごめん、僕は飲み物だけでいい」
レオニスが慌てて訂正する。
するとアウレリアは首を傾げた。
「あ、叔父さんも別のにする?お酒とかのがよかった?」
「構わんよ。酒は後で飲むつもりだったしな」
ファイは落ち着いた声で答えた。
まるで昔からの知人と会話しているような自然さだった。
「あ、叔父さんじゃ悪いか。名前を教えて?あたしはアウレリア」
「ファイだ」
「ファイさんだね。覚えた!」
アウレリアは満面の笑みを浮かべた。
警戒という言葉が存在しないような笑顔だった。
「ははは。元気なお嬢さんだ」
ファイもまた愉快そうに笑う。
その笑みには余裕があった。
戦場で見せる威圧感ではない。
長い人生を歩んできた男の穏やかさだった。
しかし。
レオニスだけは落ち着かなかった。
(何なんだ、この展開は)
心臓が妙にうるさい。
王国と帝國は戦争状態にある。
数日前には大量の死者が出た。
ゼータという化け物じみた戦闘種族とも戦った。
それなのに。
今、自分は帝國軍人と同じ席についている。
(敵……なんだよね、この人は)
視線を向ける。
ファイは背筋を伸ばし、静かに座っていた。
軍服はよく手入れされている。
髭も整っている。
粗野で暴力的な兵士という印象はない。
むしろ品がある。
将校。
あるいは貴族。
そんな雰囲気さえ感じる。
(人間だよな……)
妙な感想だった。
だが正直な感想でもあった。
帝國軍という言葉だけを聞けば、恐ろしい敵を想像してしまう。
しかし目の前にいるのは普通の男だった。
穏やかに笑い。
礼儀を守り。
酒を楽しみにしている。
どこにでもいそうな人間だった。
「そちらの若いの、名前は?」
「えっ!?」
突然声をかけられ、レオニスは肩を跳ねさせた。
本気で心臓が飛び出るかと思った。
ファイは少しだけ目を細める。
「そう緊張することはない」
落ち着いた声だった。
「ここは戦場ではない」
その言葉に嘘は感じられなかった。
少なくとも今この瞬間だけは。
彼は敵意を持っていない。
レオニスにもそれは分かった。
「……レオニスです」
何とか答える。
「うむ。良い名だ」
ファイは頷いた。
それだけだった。
威圧もない。
探るような視線もない。
ただ名前を聞き、覚えただけ。
その自然さが逆にレオニスを戸惑わせる。
敵ならもっと敵らしくあってほしかった。
そうすれば警戒もできる。
割り切ることもできる。
だが目の前の男は違う。
人として接してくる。
だからこそ困る。
一方でアウレリアはそんな葛藤など微塵もない。
「ファイさん、絶対強いよね」
「ほう?」
「雰囲気で分かる」
アウレリアは真顔だった。
「それに、お酒買いに来たついでで王国軍を全員倒しちゃうし」
「全員ではないぞ」
「似たようなものだよ」
ケラケラと笑う。
ファイもまた笑った。
店内には穏やかな空気が流れていた。
まるで戦争など存在しないかのように。
王国の勇者。
帝國軍人。
そして従者の少年。
三人は同じ卓を囲みながら、静かに夕食を待っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
料理を乗せた木製の盆を抱え、店主がテーブルへ近づいてきた。
焼いた肉の香り。
野菜の煮込み。
焼き立ての黒パン。
決して豪華ではない。
だが旅人には十分なご馳走だった。
しかし店主の表情は硬い。
料理を置いてもなお、その場を離れようとしなかった。
「……あの、軍人様……」
おずおずとした声。
視線の先にいるのはファイだった。
店主は言葉を選ぶように続ける。
「できれば、村の中や、近くでの戦争は……」
店内の空気が少しだけ静まる。
王国人にとって帝國軍は恐怖の対象だ。
それはこの小さな村でも変わらない。
だがファイは不快そうな顔一つ見せなかった。
「心配するな」
静かな声だった。
「戦争は他でやる」
その言葉には妙な説得力があった。
店主も安心したように頭を下げる。
「はい、ありがとうございます」
その瞬間だけ。
ファイの顔に軍人としての厳格さが浮かんだ。
今までの穏やかな男ではない。
国家を背負う軍人の顔だった。
「……あの、ファイさんは帝國軍の軍人なんですよね」
レオニスが意を決して口を開く。
「見たままだ」
ファイは即答した。
「偽ることなく帝國軍人だ」
落ち着いた声。
しかし目だけが僅かに鋭くなる。
その視線を受けても、不思議と恐怖は感じない。
むしろ試されているような感覚だった。
「質問があります」
「ほう」
「なぜ帝國軍は王国と戦争をしているんでしょうか?」
店内の空気が再び張り詰めた。
あまりにも直接的な問いだった。
アウレリアも思わず目を丸くする。
だがレオニスは引かなかった。
「知ってどうするのだ、レオニス」
低い問い返し。
それでも少年は答える。
「知ってから考えます!」
迷いはなかった。
ファイはしばらく黙り込む。
やがて――
「はははははっ!」
豪快な笑い声が酒場に響いた。
周囲の客まで驚くほどの大声だった。
「見た目に反して、中々の胆力ではないか」
ファイは愉快そうに笑う。
「お前たちのような夫婦は今時珍しいな」
「ふ、夫婦!?」
レオニスが素っ頓狂な声を上げる。
「そ、そんなわけあるかー!」
アウレリアも顔を真っ赤にして立ち上がった。
店内の客が思わず吹き出す。
先ほどまでの緊張が一気に霧散した。
「ははは、冗談だ」
ファイは楽しそうに肩を揺らした。
「ファイさん、からかわないでください! 僕は真剣なんです!」
「ああ、分かっている」
笑みが消える。
ファイは静かにレオニスを見据えた。
先ほどまでの柔らかな空気が少しだけ変わる。
「儂が真実を言う保証などどこにもないんだぞ」
「それでも構いません」
「なぜ、それを求める」
レオニスは一度だけ息を吸った。
そして答える。
「帝国と和平を結ぶためです……」
その言葉に嘘はなかった。
敵を知る。
理由を知る。
その先に和平があるかもしれない。
そんな希望をレオニスは捨てていなかった。
ファイはしばらく無言だった。
やがてゆっくり頷く。
「よかろう」
「では!」
レオニスの表情が明るくなる。
だがファイは皿の上の料理へ視線を向けた。
「しかし、まずは食事を済ましてからだ」
「あ……」
思わず間の抜けた声が漏れる。
ファイは口髭を撫でながら笑った。
「戦も話も、空腹は始まらん」
その言葉にアウレリアが大きく頷く。
「それは正しい!」
「お前は少し黙って食え」
「ひどい!」
再び笑いが起こった。
だがレオニスはまだ知らない。
これからファイの口から語られる帝國の戦争理由が。
自分の想像とはまったく違うものであることを。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




