俺を昂らせろ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦場は静まり返っていた。
王国軍と帝國軍。
両軍の間に刻まれた二本の巨大な亀裂。
その中央に立つのは、一人の少女だった。
白銀の勇者。
アウレリア。
誰もが動けない。
誰もが見ている。
その均衡を崩したのは、王国軍だった。
「勇者様! いったい何を――」
若い兵士が叫ぶ。
怒りと困惑が入り混じった声。
彼は一歩を踏み出した。
デッドラインを越えようとする。
次の瞬間。
銀光が走った。
音すら遅れて聞こえる。
兵士は何が起きたのか理解できなかった。
兜が真っ二つに割れる。
胸当てが裂ける。
金属片が地面へ落ちた。
さらに。
首筋に細い赤線が浮かぶ。
血が一筋だけ流れ落ちた。
兵士の顔から血の気が引く。
あと数ミリ深ければ。
命はなかった。
アウレリアは振り返らない。
ただ静かに言った。
「あたしの言葉、聞こえていなかった?」
冷たい声だった。
感情がないわけではない。
むしろ逆だった。
感情を押し殺した結果の声。
その場の全員が理解する。
彼女は本気だ。
王国兵たちは後ずさる。
帝國兵たちも同じだった。
戦慄が伝播していく。
警告ではない。
見せしめでもない。
実行だった。
しかも味方に対して。
誰もが息を呑む。
王国軍も。
帝國軍も。
アウレリアが本当に両方へ刃を向けていることを理解した。
そして。
両軍は退いた。
誰一人として境界線へ近づこうとしない。
だが。
たった一人だけ。
そんな空気を意に介さない存在がいた。
「あんたも聞いてなかったの?」
アウレリアが視線を向ける。
そこには銀白色の髪を持つ男。
ゼータがいた。
「ああ、聞こえていた」
返答は平然としていた。
躊躇もない。
恐怖もない。
そして。
そのまま一歩を踏み出す。
デッドラインを越える。
まるで散歩でもするかのような自然さだった。
瞬間。
金属同士が激突する轟音が響いた。
ギィン――!!
アウレリアの剣。
ゼータの剣。
二つの刃がぶつかり合う。
衝撃波が地面の砂を吹き飛ばした。
誰も近寄れない。
ただ見守るしかない。
ゼータは細い瞳を僅かに細めた。
まるで宝石でも見つけたように。
「貴様が、今回の勇者か」
「あたしはアウレリア」
アウレリアは答える。
即座に。
迷いなく。
「勇者じゃない」
ゼータは数秒黙った。
そして口元を歪める。
「私はゼータだ」
その声音が少しだけ変わる。
冷たいまま。
だが確かに熱を帯びていた。
「お前が勇者であることを認識した」
その言葉と共に。
ゼータは笑った。
戦場で初めて見せる笑みだった。
帝國軍から歓声が上がる。
勇者殺しが来た。
帝國最強の戦士がいる。
そう信じているからだ。
だが。
ゼータには聞こえていない。
味方の声など。
戦争も。
使命も。
命令も。
何も。
彼の意識には存在しない。
視界に映るのは一人だけ。
アウレリア。
その存在だけだった。
胸の奥で本能が叫んでいる。
違う。
今までの相手とは違う。
戦闘種族としての理性が告げる。
この少女は危険だ。
だが。
獣の本能は歓喜していた。
狩りたい。
試したい。
ぶつかりたい。
それは敵意ではない。
殺意だけでもない。
自らを高揚させる存在への執着。
強者への渇望。
戦うために生まれた生命の歓喜だった。
「他はどうでもいい」
ゼータの瞳が獣のように細くなる。
「貴様だけだ!」
空気が震えた。
王国軍も帝國軍も動けない。
三聖者ですら口を挟めない。
今、この場にいる誰もが理解した。
始まるのだと。
勇者と勇者殺し。
そんな単純な構図ではない。
アウレリア。
そしてゼータ。
二つの異質な存在による戦いが。
今、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦場は静まり返っていた。
王国軍も。
帝國軍も。
誰一人として声を出せない。
目の前で起きているものが、もはや理解できなかったからだ。
ゼータは一人のはずだった。
確かにそうだった。
だが、今は違う。
二人いる。
三人いる。
四人いる。
五人いる。
否。
もっとだ。
白銀の残像が幾重にも重なり、戦場を埋め尽くしていた。
誰も本体を捉えられない。
右から現れたと思えば左へ。
正面から迫ったと思えば背後にいる。
空気そのものが引き裂かれ、無数の銀閃が世界を切り刻んでいく。
兵士たちはただ呆然と見上げていた。
まるで神話だ。
人間が戦っているようには見えない。
怪物同士の衝突。
それ以外の表現が思いつかなかった。
だが。
その暴風の中心に立つ少女は、一歩も動かない。
アウレリアは聖剣を握ったまま静止していた。
逃げない。
追わない。
焦らない。
ただ剣を振るう。
キィン!
鋭い金属音。
キィン!
さらに一撃。
キィィィン!!
連続する衝突音が空気を震わせる。
ゼータの斬撃が迫る。
そのすべてを。
アウレリアは正確に迎撃していた。
右。
左。
上。
背後。
死角から放たれる斬撃さえも。
まるで未来を知っているかのように打ち落としていく。
剣の結界。
誰かがそう錯覚した。
アウレリアを中心に、見えない壁が存在しているようだった。
そして。
ゼータの口元が歪む。
「いい……!」
初めて感情が滲んだ。
冷静だった瞳が獣の色へ変わる。
「そうでなくてはな!」
歓喜。
純粋な歓喜だった。
今までも勇者を屠ったことはあった。
だが。
ここまで自分を高揚させる相手はいなかった。
「貴様は面白い!」
銀閃がさらに加速する。
常人なら視認すらできない速度。
それでもアウレリアは崩れない。
表情も変わらない。
瞳に宿るのは氷のような静けさ。
激情はない。
怒りもない。
恐怖もない。
ただ冷静。
ただ観察。
ただ迎撃。
そして。
一瞬。
ゼータの斬撃の隙間を縫うように聖剣が走った。
シュッ――。
鋭い音。
ゼータの頬が浅く裂ける。
赤い血が飛んだ。
だが。
ゼータは笑った。
「いいぞ!」
さらに踏み込む。
また傷が増える。
肩。
腕。
胸元。
浅いが確実な傷。
それでも。
ゼータは止まらない。
むしろ歓喜は増していた。
「もっとだ」
獣の瞳が細められる。
「もっと俺を楽しませろ!」
血を流しながら笑う姿に、王国兵たちは寒気を覚えた。
恐怖ではない。
理解不能への嫌悪だった。
この男は戦っているのではない。
狩りを楽しんでいる。
強敵と出会えたことを心から喜んでいる。
それは兵士でも騎士でもない。
もっと原始的な何かだった。
だが。
アウレリアは反応しない。
深く息を吐く。
呼吸を整える。
感情を沈める。
ただ静かに。
ただ淡々と。
目の前の敵を見つめていた。
一方でゼータは学習していた。
回避の癖。
重心移動。
剣筋。
呼吸。
視線。
すべてを観察する。
すべてを記憶する。
強敵を狩るために。
戦闘種族として刻まれた本能が、歓喜とともに加速していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦場を吹き荒れる衝撃波が、兵士たちの髪や旗を激しく揺らしていた。
「なんて戦いをしてやがる」
ゼルハインは奥歯を噛み締める。
目の前で繰り広げられているのは、自分が知る武の領域ではなかった。
槍を極めた。
鍛えた。
戦場を駆け抜けてきた。
だが、それでも届かない。
あの戦闘種族ゼータと互角以上に渡り合っているアウレリアの姿は、同じ人間とは思えなかった。
同じ姫巫女の加護を受けている。
同じ力を与えられている。
それなのに。
埋めようのない差が、そこにはあった。
その時だった。
ゼータが空中で身を翻す。
四方に展開していた金属翼が呼び戻される。
白銀の軌跡を描きながら、主の背へと吸い込まれていく。
それを見たグラーディスは目を細めた。
今まで三聖者を牽制していた武装を捨てた。
つまり。
全力でアウレリアだけを狩る。
そう決めたということだった。
「俺を昂らせろ!!」
ゼータの咆哮が響く。
鎧が軋む。
金属が悲鳴を上げる。
四枚の翼がさらに巨大化した。
両手の剣も伸びる。
白銀の刀身が獣の牙のように湾曲し、異様な威圧感を放った。
そして鎧の隙間から蒸気にも似た白煙が噴き出す。
低く重い駆動音。
まるで生物の唸り声だった。
「俺を昂らせるのは、お前だけだ!!」
次の瞬間。
翼が爆ぜる。
轟音すら置き去りにして。
白銀の猛禽が空間を貫いた。
誰も見えなかった。
見えた時には、既に目の前にいた。
だが。
アウレリアも動く。
黒髪が翻る。
聖剣を構えたまま、真正面から突撃した。
回避はしない。
迎撃でもない。
真正面からの衝突。
両者が雄叫びを上げる。
激突。
大気が弾けた。
衝撃波が地面を削り飛ばす。
「アウレリア!」
思わずレオニスが叫ぶ。
衝突の結果。
吹き飛ばされたのはアウレリアだった。
身体が大きく弾かれる。
地面を削りながら後方へ流されていく。
帝國軍から歓声が上がりかける。
ゼータも追撃へ移った。
獲物を仕留めるために。
一直線に。
迷いなく。
だが。
「何!」
驚愕の声が漏れた。
アウレリアが聖剣を地面へ突き立てたのだ。
剣先が大地を抉る。
土砂が噴き上がる。
無理やり速度を殺す。
強引な急制動。
常人なら腕ごと引き千切れていてもおかしくない。
だがアウレリアは止まった。
そして。
反応が遅れたのはゼータだった。
追撃の勢いが強すぎる。
わずかに前へ出る。
「ゼータの勢いを逆利用したのか!?」
レオニスが驚愕する。
その一瞬。
アウレリアの身体が空中で捻られた。
全身の筋肉が連動する。
腰。
肩。
腕。
そして剣。
極限まで溜められた力が一点へ収束する。
交錯。
金属が硬い何かを削る音が響いた。
ギャリィッ――!
真下から放たれた突き。
聖剣の切っ先がゼータの腹部を深く抉った。
白銀の装甲が裂ける。
肉が裂ける。
鮮血が宙へ舞った。
「やった!」
レオニスが拳を握る。
勝利を確信した。
人間なら即死。
立っていることすら不可能な致命傷。
誰もがそう思った。
だが。
ゼータは倒れない。
後退もしない。
その瞳は死んでいなかった。
むしろ。
獣のような輝きがさらに増していた。
そして口元がゆっくりと吊り上がる。
負けた者の顔ではない。
自分を倒した戦士を認める顔だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




