これから、すべてが始まります
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
部屋の中には、重苦しい沈黙が満ちていた。
窓から差し込む夕陽が、白いシーツを赤く染めている。
その中央で、フィデリアは静かに横たわっていた。
まるで眠っているだけのように、美しい寝顔。
だが、どれだけ呼びかけても反応はない。
アウレリアはベッドの横に立ったまま、苛立ちを隠せずにいた。
診察を終えた医者が、額の汗を拭いながら口を開く。
「おそらく、儀式の後遺症のようなものでしょう」
その瞬間。
空気が凍った。
「……おそらくって何よ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、明確な怒気が含まれていた。
「憶測で言うんじゃない!」
アウレリアが一歩踏み出す。
医者の肩がびくりと跳ねた。
その目は、本気で怯えている。
今のアウレリアは、闘技場にいた時以上に危険な気配を放っていた。
「やめるんだ、アウレリア、彼は悪くない!」
慌てて間に入るレオニス。
医者は何度も頷きながら後退し、そのまま逃げるように部屋を出て行った。
扉が閉まる。
直後。
「……ちっ」
アウレリアが舌打ちした。
レオニスは思わず肩をすくめる。
(現状、どうしようもない)
それが事実だった。
外傷はない。
毒でもない。
呪いの反応も確認できない。
だが、目覚めない。
そして何より――フィデリアは、人間ではない。
見た目は人と変わらなくとも、その本質は神に近い存在。
人間の医術でどうにかできる領域ではなかった。
(むしろ、儀式の後遺症という医者の言葉は存外的を得ている気もする)
レオニスは慎重に言葉を選ぶ。
「アウレリアには、何かわからない?」
「何が?」
「どちらかと言えば、勇者になった君の方が、姫巫女様のことを理解できるんじゃないの?」
アウレリアは答えなかった。
しばらく黙り込む。
やがて、不機嫌そうに顔を逸らした。
「……わかるわけないでしょ、そんなの」
吐き捨てるような声。
だが、その奥には焦りが滲んでいた。
「……そうだよね」
レオニスも、それ以上は言えなかった。
二人とも無力だった。
勇者。
選定者。
神器。
そんな大層な言葉を与えられても、今この瞬間、目の前の少女一人救えない。
沈黙が落ちる。
その時だった。
「……これから、すべてが始まります」
不意に声が響いた。
アウレリアが勢いよく顔を上げる。
「フィデリア!?」
ベッドへ身を乗り出す。
だが、途中で動きが止まった。
違和感。
何かが決定的に違う。
目を開けたフィデリアは、確かにフィデリアの顔をしていた。
だが、その瞳には感情がなかった。
深い水底のような、無機質な光。
アウレリアの表情が険しくなる。
「……あんた、誰?」
「何を言っているんだ、アウレリア。フィデリア様だろ?」
レオニスには意味が分からなかった。
どう見てもフィデリア本人にしか見えない。
しかし、アウレリアは警戒を解かない。
まるで別人を見ているようだった。
フィデリアはゆっくりと口を開く。
「“選定者”――“巡礼の地”へ向かいなさい」
淡々とした声。
感情の揺らぎが一切ない。
「三人の“聖者”と共に」
聞き慣れない単語。
選定者。
巡礼の地。
聖者。
そのどれもが、王国の一般常識には存在しない言葉だった。
そして次の瞬間。
「……っ、ごほっ!」
フィデリアが激しく咳き込む。
体が小さく震えた。
瞳に色が戻る。
「……アウレリア、どうして?」
弱々しい声。
今度こそ、いつものフィデリアだった。
アウレリアの表情が一気に緩む。
「気が付いたの、フィデリア!良かった!」
安堵したように肩の力を抜く。
一方で、レオニスだけが立ち尽くしていた。
(何が起きたんだ……?)
頭の中で、先ほどの言葉が何度も反響する。
――これから、すべてが始まります。
もし、あの言葉通りなら。
勇者の儀は終わっていない。
聖剣が生まれた時点ですら、始まりに過ぎない。
つまり。
本当の儀式は――これから始まるのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオニスは膝をついたまま、ひたすら床を見つめていた。
いや、正確には“見ないようにしていた”。
視線を少しでも上げようものなら、この場に並ぶ存在たちと目が合ってしまう。
それだけは避けたかった。
(勘弁して欲しいよ……)
胃が痛い。
喉が張りつく。
冷や汗が背中を流れ落ちていく。
左右には、王国上位貴族たち。
高位神官。
騎士団幹部。
さらに王族まで列席している。
本来、下級貴族に過ぎないレオニスが直接言葉を交わせるような相手ではない。
そんな者たちが、一斉に自分へ意識を向けている。
逃げ出したい衝動が何度も込み上げた。
「面を上げよ、レオニス」
低い声が響く。
レオニスは恐る恐る顔を上げた。
「……はい」
その瞬間、心臓が止まりそうになった。
玉座に座る二人。
国王。
そして教皇。
王国における二大権力者が並んでいる。
それだけで空気が重い。
呼吸すら許されないような圧迫感だった。
教皇が静かに口を開く。
「これより、一度でも嘘を述べたら死罪とする」
淡々とした口調。
だが、その言葉は冗談ではない。
この場にいる誰もが理解していた。
「君から報告された内容は、一字一句違わぬ真実か」
「……はい、間違いありません」
何とか声を絞り出す。
自分でも情けないほど震えていた。
レオニスは先ほど起きた出来事を、すべて報告した。
巡礼の地。
三人の聖者。
フィデリアが口にした謎の言葉。
もちろん、軽い気持ちではない。
だが、報告しないという選択肢も存在しなかった。
「『“選定者”、”巡礼の地”へ向かいなさい、三人の“聖者”と共に』――姫巫女様は、そう仰いました」
声が掠れる。
ほんの数日前まで、こんな場に立つ人生など想像もしていなかった。
今の気分は、死刑台の前に立たされた罪人そのものだ。
国王と教皇が小声で何かを話し合う。
その間すら、レオニスには永遠のように感じられた。
やがて。
国王が玉座から声を響かせる。
「皆、心して聞け」
レオニスの背筋が凍った。
(国王様、待ってください)
(それ、僕が聞いていい内容じゃないでしょ!?)
当然、心の叫びなど届かない。
王は厳かに宣言する。
「勇者の儀は、開闢以来、初めて真の姿となった」
場の空気が変わる。
誰も息をしない。
「本来の儀式に存在する、“勇者”と“三人の聖者”が、初めて揃ったのだ」
ざわめきが広がる。
高位貴族たちですら驚愕を隠せない。
つまり、これまで王国が行っていた勇者選定は“不完全”だったという意味になる。
「我々は彼らへ最大限の援助を行う」
「勇者の儀を成就させねばならぬ」
「彼らを“巡礼の地”へ届け、悲願を果たすのだ!」
王の宣言が大広間へ木霊した。
それは、国家意思そのものだった。
こうして、アウレリアたちは“巡礼の地”へ向かうことになる。
勇者として。
選定者として。
そして、歴史を動かす存在として。
一方その頃。
王国より遥か北方。
大国家帝國。
巨大な玉座の間で、一人の男が報告を受けていた。
「王国に勇者が誕生しました」
沈黙。
やがて、玉座の奥。
黒いヴェールの向こうから、低い声が漏れる。
「……“また”、あれを生み出したのか」
その声音には、露骨な嫌悪が滲んでいた。
臣下が頭を垂れる。
「いかがいたしましょうか、皇帝陛下」
「決まっている」
即答だった。
「――奴らを討つべし」
空気が冷える。
臣下は静かに頷いた。
「はっ。それでは、“勇者殺し”の戦闘種族を解放します」
勇者が生まれた。
それは同時に。
勇者を殺す存在たちも、動き出すということだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レックスたちの時代にでてきた巡礼の地と戦闘種族とのリンク
過去の出来事が、レックスたちの現代を作ってきます




