勇者が降臨した日
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
フィデリアの歌は、なおも続いていた。
誰も意味を理解できない言葉。
それなのに、聞いているだけで胸の奥を掴まれるような感覚がある。
古い祈り。
あるいは、人の言葉よりもっと原始的な何か。
神官たちは蒼白な顔で筆を走らせていた。
一音たりとも逃すまいと、紙へ文字を書き殴る。
同時に、記録用の魔法陣が幾重にも展開され、歌声そのものを保存しようとしていた。
だが。
それらは本当に、記録できているのか。
誰にも分からない。
神鋼の周囲に、ゆっくりと闇が広がる。
それは“黒”ではなかった。
深淵。
夜空。
底知れぬ宇宙そのもの。
「……星空、なのか?」
レオニスは思わず息を呑む。
闇の中に、小さな光が瞬いていた。
無数の星々。
あり得ない。
大聖堂の中心に、夜空が出現している。
次の瞬間。
その星空の奥から、一筋の流星が落ちた。
真っ直ぐ。
アウレリアへ向かって。
だが、アウレリアは動かない。
いや。
動けない。
レオニスには、そう見えた。
歯を食いしばり、全身に力を込めている。
それでも指一本、動かせない。
「……っ!」
レオニスもまた、身体が硬直していることに気づいた。
足が動かない。
息苦しい。
まるで、空間そのものが巨大な手となって押さえつけてくるようだった。
強力な拘束魔法。
だが、こんな規模の魔法など聞いたことがない。
流星が落ちる。
光が弾ける。
そして、その輝きはアウレリアの身体へ吸い込まれていった。
空気が震える。
フィデリアの歌声が、突然聞こえなくなった。
しかし。
唇は確かに動いている。
歌は続いているのだ。
なのに、“聞こえない”。
異常だった。
アウレリアの表情が歪む。
額から汗が噴き出した。
一滴。
二滴。
そんな量ではない。
滝のような汗。
床へ落ち、水たまりを作るほどだった。
呼吸が荒い。
まるで体内へ無理やり何かを押し込まれているような苦悶。
それでも、アウレリアは倒れない。
神鋼が脈動する。
どくん。
どくん。
鼓動のような音が、大聖堂全体へ響き始める。
やがて、その輝きは限界を超えた。
太陽。
誰もがそう錯覚するほどの閃光。
目を開けていられない。
神官たちが悲鳴を上げ、騎士たちが顔を覆う。
その中心で、神鋼は形を変えていく。
溶ける。
伸びる。
収束する。
まるで意思を持つ生物のように。
そして。
フィデリアが崩れ落ちた。
糸の切れた人形のように。
力なく。
静かに。
「フィデリア!」
アウレリアが叫ぶ。
その瞬間。
彼女の手の中へ、“それ”が現れた。
黄金にも白銀にも見える刀身。
内側から太陽光を放つような剣。
神々しい。
だが同時に、不気味だった。
剣が鳴いている。
そんな錯覚すら覚える。
「うっさい!静かにしろ!」
アウレリアが怒鳴った。
すると。
まるで命令に従うように、刀身を包み込む鞘が形成されていく。
光が収束し、音が止む。
大聖堂に静寂が落ちた。
だが、アウレリアは剣など見ていなかった。
即座にそれを床へ放り投げ、フィデリアへ駆け寄る。
「おい、フィデリア!しっかりしろ!」
抱き起こされたフィデリアは、ぴくりとも動かない。
レオニスは床に落ちた剣を見つめた。
あれが。
勇者へ与えられる聖剣。
王国の象徴。
神話の武器。
なのに。
どうしてだろう。
歓喜より先に、寒気が走る。
これで終わりではない。
直感がそう告げていた。
本来の“神炎鍛成の儀”なら、ここで完了する。
聖剣が生まれ、勇者へ与えられる。
それで終わるはずだった。
だが。
誰も知らない異変が、まだ終わっていなかった。
いや。
ここから先こそが、本番だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
儀式の間に、異様な静寂が落ちていた。
先ほどまで響いていたざわめきが、まるで喉を潰されたかのように消えている。
理由は単純だった。
誰も、この光景を理解できなかったからだ。
“神炎鍛成の儀”とは、勇者へ聖剣を授けるための神聖儀式。
王国の歴史書にも、そう記されている。
だが今、彼らの目の前で起きている現象は、その記録から完全に逸脱していた。
最初に声を上げたのはレオニスだった。
「何だって!?」
普段は冷静な青年の叫びが、式典会場に反響する。
その視線の先。
フィデリアと同じように、床へ崩れ落ちている三人の姿があった。
グラーディス。
ゼルハイン。
イシュリアン。
勇者候補として戦った三人が、まるで糸を切られた人形のように倒れている。
そして。
その傍らに、“何か”が存在していた。
グラーディスの横には、巨大な盾。
白銀の表面には獅子の紋章が浮かび上がり、淡い黄金光を放っている。
ゼルハインの隣には、漆黒の槍。
ただ置かれているだけなのに、空気を裂くような鋭さが感じられた。
イシュリアンの近くには、紫紺の杖。
先端の宝珠は脈動するように輝き、周囲の魔力を吸い込んでいる。
「これも、姫巫女様が呼んだ神器だというのか……」
誰かが呆然と呟いた。
それ以外に説明のしようがない。
神々しさ。
神秘。
威圧感。
どれを取っても、アウレリアの手から生まれた聖剣に匹敵していた。
「聖盾……」
「聖槍……」
「聖杖……」
自然と、そんな呼び名が口にされる。
誰かが名付けたわけではない。
だが、全員が同じ感覚を抱いていた。
これは、人の武器ではない。
神話の領域に存在するものだと。
「彼らも勇者となったというのか?」
「いや……そうかもしれん」
「俺も見たぞ、聖剣と同時に現れた!」
「私にもそう見えました……!」
困惑が連鎖する。
貴族たちは顔を見合わせ。
神官たちは青ざめ。
騎士団の面々ですら言葉を失っていた。
勇者は一人。
それが、この国の常識だった。
姫巫女が選び。
聖剣が応え。
神に認められた存在だけが勇者になる。
だが今、その前提そのものが崩れ去ろうとしている。
レオニスは、恐る恐るアウレリアへ視線を向けた。
(アウレリア……まさか、これも君がやったのか)
だが当の本人は、そんな周囲の騒動など一切見えていなかった。
アウレリアは床に膝をつき、フィデリアを抱きかかえている。
「おい、大丈夫か?」
「フィデリア、しっかりしろって」
その声にあるのは純粋な心配だけだった。
神器にも。
勇者にも。
王国の大騒ぎにも。
まるで興味を示していない。
レオニスは頭を抱えたくなった。
(勘弁してほしい……)
(これは最大のイレギュラーだろ……)
勇者が四人。
いや、正確には“勇者に匹敵する存在”が四人同時に生まれた。
そんな前例など聞いたことがない。
もしこれが事実なら。
王国の秩序そのものが変わる。
勇者を中心として築かれてきた権威。
教会の正統性。
王族の統治。
そのすべてが揺らぎかねない。
だが、この場で答えを持つ者はいなかった。
唯一、その真実を知っている可能性があるのは――倒れているフィデリアだけ。
誰も知らない。
誰も理解していない。
それでも、確かに始まってしまった。
人の歴史から外れた、“本当の勇者の儀”が。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




