旅人の名は
過去編のはじまり
レックスたちの話に出きた謎部分の追憶編の扱いになります
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
王都は熱狂に包まれていた。
通りには色鮮やかな旗が掲げられ、露店には人が溢れている。
酒場では酔った男たちが勇者の噂を叫び、子供たちは木剣を振り回して遊んでいた。
皆、笑っていた。
皆、期待していた。
王国に姫巫女が降臨した。
間もなく勇者が選ばれる。
長きに渡り、帝國と魔王国の脅威に晒され続けた王国にとって、それは救いそのものだった。
誰もが待ち望んでいる。
戦争を終わらせる英雄を。
その中心となる場所。
王都中央大聖堂。
白亜の巨大建築の内部は、荘厳な静寂に満ちていた。
高い天井。
幾重にも連なる巨大な柱。
色硝子から差し込む夕光が、床を赤く染めている。
その最奥。
無駄なほど豪奢に装飾された中央台座。
そこに置かれた椅子へ、フィデリアは静かに腰掛けていた。
赤い外套。
黒い衣装。
腰まで流れる淡い金髪。
青緑の瞳は、澄み切った湖のように静かだった。
人々は、その姿を見た瞬間に息を呑む。
まるで神話から現れた聖女。
神秘的という言葉すら、生ぬるい。
だからこそ、人々は祈った。
手を合わせ。
涙を浮かべ。
縋るように。
―― お願いします、勇者様。私たちに平和を与えてください。
―― もう疲れた。早く戦争を終わらせてくれ。
―― お願い。この子の命を救って。
―― お父さんの敵を取って。
―― あの人の敵を取って。
その願いの奔流を、フィデリアは無表情に見下ろしていた。
感情を消したような瞳だった。
だが、その奥には微かな揺らぎがある。
(……この方たちは、何を期待しているのでしょうか)
静かに思う。
(……私が世界を平和へ導くとでも考えているのでしょうか)
隣へ視線を向ける。
そこには、“神鋼”があった。
虹色の輝きを放つ金属塊。
まるで生きているように脈動している。
王国の人々が、“聖剣の核”と呼ぶもの。
フィデリアがこの世界へ顕現させた、“選定の道具”。
(……それとも)
瞳がわずかに伏せられる。
(……これが、自分たちを救うとでも思っているのでしょうか)
指先が僅かに震える。
誰も気付かない。
気付けるはずもない。
なぜなら、この場で“選定”の本当の意味を知っているのは、彼女だけなのだから。
(……これが本当は何なのかを知れば)
そこで思考を止める。
言えない。
言葉にすることすら許されない。
彼女は裁定者。
ただ、人々が望むものを顕現する存在。
それ以上でも、それ以下でもない。
(私は、彼らの欲するものを与える力など持っていないのだから)
視線の先では、小さな子供が必死に祈っていた。
痩せ細った母親が、その肩を抱いている。
おそらく戦争で家族を失ったのだろう。
そんな人々が、ここには大勢いた。
だからこそ、フィデリアは胸が痛む。
この願いを、“それは違う”と教えられないことが。
だが。
別の熱量を向ける者たちもいる。
勇者選定会へ参加する者たちだ。
――勇者という名に憧れる若者。
――家名の箔付けにしたい貴族。
――出世へ利用しようとする者。
――聖剣を換金できるか考える者。
欲望。
虚栄。
打算。
それらが、神聖な空気の下で渦巻いている。
フィデリアは静かに目を閉じた。
(……自分が、この世界へ来た意味が分からない)
(……人は、こんなにも愚かなものなのですか)
その瞬間。
ほんの僅かに、思ってしまう。
(いっそ、これを蹴飛ばして……当たった人を選んでも変わらないでしょう)
神鋼を見る。
虹色の輝きが、無機質に揺れていた。
(……どのみち、このような者たちは“選定者”にはなれないのだから)
やがて昼の公開儀式が終わる。
だが休息はない。
今度は神官たちに連れられ、王族と貴族たちの夜会へ向かわされる。
フィデリアの意思など、誰も気にしていない。
そこでも同じだった。
賛美。
期待。
欲望。
笑顔の裏に隠された打算。
人々は、救世主を求めている。
あるいは。
救世主という“都合の良い力”を。
そして。
全てから解放された時には、すでに夜も深かった。
王都の喧騒だけが、遠くから響いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
王都の喧騒から逃げるように、フィデリアは大聖堂の裏口を抜け出した。
神官たちは大騒ぎだった。
姫巫女が姿を消した、と。
だが、フィデリアにとっては知ったことではない。
一日中、人々の願いを向けられ続けた。
平和をください。
勇者を。
救済を。
それなのに、その願いの先にあるものを、誰も理解していない。
赤い外套を脱ぎ、活動的な衣装へと着替えたフィデリアは、人混みの中に紛れ込む。
白いヘッドバンドの下で、金髪が静かに揺れた。
王都の夜は賑やかだった。
酒場からは笑い声。
屋台からは焼いた肉の匂い。
子供たちは走り回り、恋人たちは寄り添って歩く。
地方では魔物被害で村が消え、北では帝國との戦争で兵が死んでいるというのに、この街だけを見れば平和そのものだった。
(……平和を望むなら、何故戦争をするのでしょうか)
フィデリアは小さく目を伏せる。
(……戦争なんて、やめてしまえば良いのに)
広場の屋台で買ったパンは、まだ温かかった。
人の作る食べ物には、不思議な温もりがある。
選定の儀に必要なものではない。
けれど、嫌いではなかった。
静かな場所で食べようと広場へ向かった時だった。
「……何だ、こんなもので金が払えるか!」
怒鳴り声が響く。
「まったく、ひどい商品だぜ」
男たちが屋台を囲み、乱暴に商品を蹴り飛ばしていた。
果物が転がる。
籠が割れる。
店番の少女は、今にも泣き出しそうだった。
フィデリアは立ち止まる。
(……どうして、こんな意味もない争いをするのか)
男たちは、ただ憂さ晴らしをしたいだけなのだろう。
そこに正義も理念もない。
ただ弱い者を踏みにじる快楽だけがある。
男の一人が商品棚を蹴り飛ばした瞬間だった。
「ねぇ、君。手を貸そうか?」
場違いなほど軽い声が割り込んだ。
全員の視線が向く。
そこにいたのは、小柄な旅人だった。
砂色のクローク。
頭を包むターバン。
年頃はフィデリアと変わらない少女に見える。
「ただで助けると恩着せがましいから、報酬もらうけどね」
店番の少女は怯えながら何度も頷いた。
「交渉成立」
旅人は少女を庇うように前へ出る。
男たちは顔を見合わせ、下卑た笑い声を上げた。
どう見ても強そうには見えない。
むしろ、殴れば簡単に吹き飛びそうな細身だった。
(物好きな……)
フィデリアは静かに眉を寄せる。
(何故わざわざ争いに介入するのですか)
「怪我しないうちに、逃げるのをお勧めするよ」
旅人は肩を竦めた。
「その方が、楽なんだ」
火に油を注ぐ言葉だった。
「やっちま――」
男が最後まで言い切ることはなかった。
鈍い音。
次の瞬間、男の身体が崩れ落ちる。
「……え?」
フィデリアは目を見開いた。
フィデリアの目には、何も映らなかった。
ただ次の瞬間。
男が地面に倒れていた。
何をしたのか。
残る二人も、一瞬だった。
拳。
踏み込み。
体重移動。
無駄のない動作だけで、男たちは意識を刈り取られていた。
「ミッション、コンプリート」
旅人は平然と言った。
そのまま近くにあった縄を拾い、男たちを手際よく縛り上げていく。
まるで慣れている。
「さて、約束の報酬なんだけどさぁ」
少女はびくりと肩を震わせる。
旅人は屋台の下に転がっていた割れた果物を拾った。
「これ貰ってくね」
そして、銅貨を数枚投げる。
「経費は差し引いたから、ごめんね」
少女は呆然としていた。
旅人は気にも留めず、果物を大きく齧る。
瑞々しい果汁が零れた。
「うん、美味しい」
その姿は妙に無防備だった。
つい先ほどまで暴漢を制圧していた人物とは思えないほど。
(……なに、この人は?)
フィデリアは理解できなかった。
戦う理由が。
笑う理由が。
どうして、そんな自然に人を助けられるのか。
その時だった。
旅人がふと振り返る。
二人の目が合った。
黒曜石のような瞳。
どこか楽しげで。
どこまでも自由だった。
「ん?」
旅人は首を傾げる。
「誰、君? 果物が欲しいの?」
フィデリアは答えられなかった。
ただ、不思議だった。
この少女だけが。
この世界の歪みを知らないように見えた。
あるいは――知った上で、笑っているように見えた。
旅人の名はアウレリア。
姫巫女フィデリアと、後に勇者と呼ばれる少女は、この夜、偶然のように出会った。
フィデリアはまだ知らない。
この少女が、自分の価値観を根底から壊す存在になることを。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




