ノエリア編エピローグ 選定の終わり
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やがて静寂。
そこに、小柄な少女がぺたりと座り込んでいた。
「いたた……なのです」
ぽわん、とした声。
緑の瞳がきょとんと三人を見上げる。
「さようなら、裁定者の私」
「こんにちは、ただのノエリアです」
誰も理解できなかった。
だが、理解など後回しでよかった。
レックスが駆け寄り、ガロードが抱え上げ、アウラがまとめて抱き締める。
「むぎゅ……くるしいです」
抗議の声とは裏腹に、ノエリアは嬉しそうに笑った。
それはこの世界へ来てから、いちばん人間らしい笑顔だった。
荒野に残る風は、戦いの余熱をまだ孕んでいた。
「な、何で?」
確かに消えたはずの少女が、そこに立っている。
長い蒼髪が、ゆるやかに揺れる。
その姿は同じだが、どこか違う。
緑の瞳は、遠くではなく、目の前を見ていた。
「帰ってしまったのは、裁定者の私なのです」
ノエリアは、柔らかく微笑む。
もう“裁定者”ではない。
ただの感情だった。
「今の私は、何者でもない存在になってしまいました」
小さな声。
けれど、確かに揺れている。
レックスは即座に首を振った。
「そんなことない」
間髪入れず、否定する。
「ノエリアはノエリアだよ」
「変な肩書きがなくなっただけだろ」
言葉は飾らない。
だが、真っ直ぐだった。
「なくなったなら、これから決めればいい」
赤い瞳が、逸れない。
「ここにいる。それで十分だ」
ノエリアの目が見開かれる。
次の瞬間。
涙が、頬を伝った。
「……レックスは、ずるいです」
「え?」
「そういう言葉を、何も考えずに言えるのですから」
困ったように笑いながら、涙を拭う。
そこに、乱暴な手が乗った。
「しけた顔すんなっての」
ガロードが、ぐしゃぐしゃと頭を撫でる。
「ノエリアはノエリアだ」
「何者でもねえ? 上等じゃねえか」
ぶっきらぼうだが、否定の余地を与えない声音。
「俺の妹分に変わりねえんだからな」
「髪が……乱れます……」
「気にすんな」
少しだけ、ノエリアは笑った。
続いて、静かな足音。
アウラが膝をつく。
「私は、役目に従っていたのではありません」
その声音は、いつもよりわずかに柔らかい。
「ノエリア様」
「あなたという存在に、仕えていたのです」
手を取る。
逃がさないように。
「ですから、これからもお側に」
一拍置く。
「拒否権はありません」
ほんの僅かな冗談。
ノエリアは吹き出した。
「ふふ……強引なのです」
荒野に、穏やかな空気が戻る。
戦いは終わった。
多くを失った。
だが、それでも。
残ったものが、確かにある。
ノエリアは胸に手を当てる。
鼓動がある。
温もりがある。
「……不思議なのです」
小さく呟く。
「一つを失ったのに、こんなにも満たされているなんて」
視線を上げる。
レックス。
ガロード。
アウラ。
そこにいる三人。
「ありがとう、なのです」
その言葉には、もう“裁定”の意味はない。
ただの感謝。
ただの想い。
そして、もう一つ。
ノエリアは、少しだけ遠くを見る。
倒れていたシンとルーナも、静かに立ち上がっていた。
互いに支え合いながら。
その姿に、ノエリアは微笑む。
ノエリアの選定は終わった。
だが、ノエリアの本来の使命は終わっていない。
だから、残されたにすぎないことを自覚していた。
(だから、もう少しだけ、ノエリアのままで)
”選定者”ではない彼らが愛おしい。
そして、尊い。
風が吹く。
荒野を抜けていく風は、もう冷たくなかった。
新しい物語が、静かに動き始めていた。
そして。
シンが一歩、前に出る。
その瞳には、迷いが残っている。
だが、それでも。
「……俺は」
言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
戦いの終わりは、終わりではない。
それぞれの“選択”が、これから始まる。
その最初の一歩が、今、踏み出されようとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「俺たちは王国へ戻る」
シンが言い、隣でルーナが静かに頷いた。
荒野に立つその姿は、まだ戦いの余韻を残している。
だが、その表情は澄んでいた。
迷いを乗り越えた者の顔だった。
「勇者選定は終わった。エリオスもセラフィナも姿を消した。俺たちが見たことを、そのまま伝える」
言葉は短い。
だが、重い。
それは報告ではない。
責任だった。
かつて“勇者”に憧れた少年は、もういない。
現実を見て。
理不尽を知って。
それでも前に進むことを選んだ者が、そこにいる。
「そして……俺たちも、“勇者”って肩書は終わりになるだろうな」
静かな断言。
聖剣が消えた今、その制度もまた意味を失う。
王国は混乱する。
だが、それでも。
「だからこそ、俺たちがやるべきことは変わらない」
シンは言う。
「守ることだ」
「肩書きじゃなく、自分の意思で」
ルーナが小さく笑う。
「うん。それが、本当の意味での“勇者”なんだと思う」
二人は、もう同じ場所を見ていた。
レックスは手を差し出す。
「また会えるよね」
「ああ」
短い言葉。
だが、それで十分だった。
固く握られた手に、迷いはない。
ガロードが腕を組み、鼻を鳴らす。
「王国がちゃんとやるなら、俺は魔王国側を締めとく」
「魔王国の連中も、そろそろ変わる時期だろう」
言葉の裏に、決意がある。
世界は分断されたままでは終わらない。
その予感があった。
ノエリアは、二人をじっと見つめる。
そして、ぽわりと微笑んだ。
「シン様とルーナ様は、仲良しなのですね」
「ま、まあな」
「“いっぱいチュチュ”してくださいね」
「言うなぁ!?」
顔を真っ赤にするシン。
ルーナは、くすりと笑う。
「ねえ、シン。照れるってことは、やっぱり私のこと好きなんだ?」
「ば、馬鹿! 今それ言うな!」
言いながらも、否定しきれていない。
「そうね、後でゆっくりと語ればいいものね」
ルーナはその腕に自分の腕を絡めた。
「進展、ですね」
アウラが淡々と言う。
「冷静に分析するな!」と、シン。
笑いが広がる。
戦いの空気は、もうそこにはない。
ルーナは、ふと振り返る。
その視線は、レックスへ向けられていた。
「レックス、好きなら、好きって伝えないと」
「え?」
「ノエリア様を待たせたらダメでしょ?」
「だから違うって!」
思わず叫ぶ。
だが、その声もどこか軽い。
それが、今の空気だった。
シンとルーナは、歩き出す。
王国へと続く道を。
背中は遠ざかる。
だが、別れではない。
これは、それぞれの道の始まりだ。
レックスは、その背を見送る。
静かに。
確かなものが、そこにあった。
「……大丈夫だよな」
ぽつりと、零れる。
シンとルーナなら。
きっと。
だが。
胸の奥に、引っかかるものがある。
消えない違和感。
エリオスとセラフィナ。
あの二人は、本当に“消えた”のか。
あまりにも、都合が良すぎる終わり方。
あの時の光景が、脳裏に蘇る。
救済のような表情を浮かべたエリオス。
あれは――
「……嫌な感じがする」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声。
だが、その直感は確かだった。
“悪意”。
レックスたちは、その存在を知っている。
正体はわからない。
直接は干渉しない。
だが、人の想いに触れる。
歪める。
増幅させる。
そして――使い捨てる。
前は魔王国の魔王。
今回は王国の勇者。
力ある者を選び、動かし、壊す。
まるで、この世界そのものを試すかのように。
「……また来る」
確信に近い感覚。
あれは終わりではない。
ただの一幕だ。
レックスは無意識に、棍棒へと手を伸ばす。
黒いそれは、静かにそこにある。
ただの武器。
だが、あの時。
ノエリアはこれを聖剣にした。
(この聖剣は何なんだ?)
だが、関係がないとは思えなかった。
「……僕は」
言葉が、続かない。
何をすべきかは、まだわからない。
だが、一つだけ。
はっきりしていることがある。
あれとは、相容れない。
絶対に。
風が吹く。
穏やかなはずの風が、わずかに冷たい。
見えない何かが、まだ動いている。
静かに。
確実に。
レックスは空を見上げる。
青空は、どこまでも澄んでいた。
それが、かえって不気味だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
荒野の風は、戦いの熱をすべて攫っていくように静かだった。
崩れ落ちた秩序の残骸の中で、二人だけが取り残されている。
セラフィナは、勇者と聖剣に叛いた。
それは、彼女自身を縛っていた“役割”の否定でもあった。
見えない鎖は、確かに砕けている。
「……私には……」
エリオスの声は、掠れていた。
これまで一度も存在しなかった種類の沈黙。
論理でも、正義でも埋められない空白。
自らを支えていた“絶対”が崩れた時、人は言葉を失う。
セラフィナは、迷わず彼を抱き寄せた。
「もう、いいのです……エリオス様」
震えているのは声だけではない。
だが、その腕は決して離れない。
「……セラフィナ」
エリオスの瞳が揺れる。
それは初めて、“個人”として他者を認識した目だった。
「あなたは……正しかったのだと思います」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「世界を救おうとした。その意思は、誰よりも純粋でした」
否定しない。
否定すれば、彼の存在そのものが消えてしまうから。
「ですが……」
わずかに息を詰める。
「貴方の理想は、本当に欲しかったものは、違うものなのです」
その言葉は、静かに突き刺さる。
エリオスの肩が、かすかに震えた。
怒りではない。
否定でもない。
ただ、理解しきれない感情の揺らぎ。
セラフィナは目を閉じる。
役割ではなく。
命令でもなく。
――ただ、愛している。
それだけを選んだ。
「これからは……一緒に、迷いましょう」
正解のない世界で。
選び続けるために。
エリオスは答えない。
だが、その指先が、セラフィナの衣をわずかに掴んだ。
それだけで、十分だった。
◆
空の上でも、地の下でもない場所。
世界の外縁。
そこでは、すべてが数値として扱われていた。
「
【個体識別:勇者】
【名称:エリオス】
【区分:現地調達兵器】
――――――――――
【脅威:82%】
【有用性:80%】
――――――――――
【再計算】
」
一瞬。
「
【脅威:0.2%】
【有用性:0.01%】
――――――――――
【評価】不良
」
切り捨て。
続く。
「
【個体識別:姫巫女】
【名称:セラフィナ】
【区分:現地調達兵器】
――――――――――
【再計算】
」
数値は、即座に落ちる。
「
【評価】不要
」
淡々と。
意味もなく。
ただ、処理される。
そして。
「
【個体識別:裁定者】
【名称:ノエリア】
【区分:排除対象】
――――――――――
【結果】排除完了
」
完了。
――のはずだった。
「
【例外検知】
」
わずかな揺らぎ。
「
【未定義因子:聖剣】
【継続観測】
」
本来、存在しないはずの誤差。
計算にない“意思”。
それは、静かに残っていた。
誰にも知られず。
確実に。
次の歪みの種として。
◆
世界は終わらない。
終わらせる者がいないからではない。
終わらせられない何かが、そこにあるからだ。
そして、“悪意”もまた。
静かに、次を選び始めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ノエリア編終了
思ったより長くなりました。
次回からは、レックスたちの話である現在編の前の過去編になります。




