裁定者
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「聖剣解放」
振り下ろされた刃から、純白の奔流が解き放たれた。
大地が裂ける。
一直線の閃光が荒野を奔り、黒く焼けた地層ごと抉り飛ばした。
遅れて轟音。
空気そのものが悲鳴を上げ、熱風が石片を巻き上げる。
それを、レックスは見ていた。
恐怖ではなく、集中で。
エリオスの身体から力が抜け、聖剣へとすべてが流れ込む瞬間。
防御の光膜が消え、世界がわずかに開く一拍。
その一瞬だけが、勝機だった。
――兄貴!
叫ばない。
視線だけで伝える。
ガロードの琥珀の瞳が獣の光を帯びる。
――わからいでか!
巨大な狼は、真正面から光の奔流へ突っ込んだ。
白銀の毛並みが焼ける。
皮膚が裂ける。
それでも止まらない。
左へ跳ぶように軌道をずらし、閃光を紙一重で躱す。
焦げた肉の臭いを撒き散らしながら、その勢いのままエリオスへ肉薄した。
「小賢しい」
エリオスが聖剣を横薙ぎに振り抜く。
必殺の斬撃。
だが次の瞬間、狼の顎がその刃へ食らいついた。
金属と牙がぶつかり、火花が散る。
「……なに?」
初めて、エリオスの声に揺らぎが混じる。
ガロードは四肢で地面を抉りながら、聖剣を噛み止めていた。
牙は砕け、口元から血が滴る。
それでも離さない。
エリオスは即座に周囲を見渡す。
背にいたはずのレックスがいない。
気配。
頭上。
見上げた先、逆光の空に少年の影があった。
ガロードが突進の直前、背中を踏み台に跳ばせていたのだ。
空中で身体を捻り、両手で棍棒を握るレックス。
赤い瞳だけが、まっすぐエリオスを射抜いている。
「エリオス!」
振り下ろされる一撃。
鈍く、重い音が荒野に響いた。
白金の総面甲が砕け散る。
兜の破片が光を反射しながら舞った。
露わになった銀髪と、美貌。
そして初めて剥き出しになった驚愕の表情。
続けざまに、返す一打。
手首を打ち抜かれ、エリオスの指が開く。
聖剣が宙へ放り出された。
誰もが息を呑む。
天を舞う神鋼の刃は、弧を描き――
戦場へ駆け込んできた二人の前へ突き立った。
セラフィナ。
そしてルーナ。
白き刃は地面に刺さり、なお神々しい光を放っている。
勇者の象徴。
世界を裁く力。
その所有者を失った剣。
レックスは着地し、膝をついた。
腕は痺れ、呼吸は乱れている。
ガロードも血まみれの口で笑った。
「やったな……レックス」
勇者ではない少年たちが。
選ばれなかった者たちが。
絶対であった勇者エリオスを、ついに凌駕した瞬間だった。
そして――
聖剣の柄へ、震える手が伸びる。
セラフィナの瞳に、迷いと決意が同時に宿る。
戦いは、まだ終わっていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
巡礼の大地を吹き抜けていた熱風が、ふいに止んだ。
戦いの余韻だけが残り、砕けた岩と焼け焦げた土が、静かに煙を上げている。
その中心で、勇者エリオスは立ち尽くしていた。
砕かれた兜。
素顔を晒した銀髪の青年は、先ほどまでの絶対者とは思えぬほど、虚ろだった。
蒼と金のオッドアイは焦点を失い、己の空いた手だけを見つめている。
聖剣を失った現実を、まだ理解できていないようでもあった。
「シン!」
ルーナが駆け出す。
倒れていた少年の傍らに膝をつき、その肩を抱き起こした。
「……ったく、無茶して」
「うるさい……助かったんだから、いいだろ」
ぶっきらぼうな声。
だが、そのやり取りには確かな安堵があった。
ルーナが額の汗を拭い、シンが照れ隠しに顔を背ける。
互いを当然のように支える姿だった。
その光景を、少し離れた場所からセラフィナは見ていた。
胸の奥が、軋む。
――羨ましい。
その感情を認めた瞬間、長く閉ざしていた何かが裂けた。
もし、あのように笑い合えていたなら。
もし、役割ではなく、ただ一人の人間として隣に立てていたなら。
自分も変われたのだろうか。
視線が、地に落ちた聖剣へ吸い寄せられる。
白銀の柄。
神意を宿す刃。
無意識のまま、手が伸びた。
触れた瞬間、心臓が大きく跳ねる。
どくん、と。
体の奥で眠っていた傷口が、無理やりこじ開けられるように。
耳元で、誰かが囁いた。
――君が望むなら、願いを叶えてあげよう。
――彼の隣に立ちたいのだろう。
――愛されたいのだろう。
――ならば、すべてを捧げればいい。
声は甘く、優しかった。
だが、その温度は墓穴の底のように冷たい。
セラフィナの瞳から光が消える。
「私は……全部、捨てたのです」
誰に語るでもなく、唇が動く。
「名前も。人生も。心も……」
震えた声は、やがて熱を帯びた。
「それでようやく、あの方の隣に立てた……!」
愛。
献身。
幸福。
人を満たすはずのそれらが、別の形へ捻じ曲げられていく。
それこそが、『悪意』の歯車だった。
本来なら噛み合わぬ想いを利用し、回ってはならぬものを回す。
セラフィナは歩き出す。
ゆっくりと。
しかし迷いなく。
聖剣を抱え、エリオスのもとへ。
「……なっ」
いち早く異変に気づいたのはガロードだった。
五感ではない本能が、場に満ちる腐った気配を嗅ぎ取っていた。
かつて己を狂わせ、多くを壊したもの。
根絶すると誓ったもの。
「やべぇ……!」
全身の毛が逆立つ。
「レックス! そいつを止めろ!!」
叫びは風を裂いた。
レックスが振り向く。
だが、一歩遅い。
セラフィナはエリオスの前に膝をつき、恭しく剣を差し出した。
その姿は、勇者と供にある姫巫女。
同時に、奈落へ供物を捧げる信徒にも見えた。
「エリオス……」
熱に浮かされたような声だった。
「貴方だけを、愛しております」
虚ろだった勇者の瞳が、ゆっくりと動く。
「貴方の御心の、ままに」
差し出された柄を、エリオスの手が掴んだ。
「……セラフィナ」
その瞬間。
聖剣が脈打つように発光し、白き奔流が天へ噴き上がる。
大地が震えた。
空が軋んだ。
絶望は、終わっていなかった。
勇者の手に、聖剣が戻る。
そして、誰もが悟った。
本当の絶望は、ここからだと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
巡礼の大地に、白い静寂が降りた。
焦土と化した荒野。
砕けた岩。
倒れ伏す者たち。
その中心で、勇者エリオスは聖剣を握っていた。
「ああ……やっと届いた」
吐息のような声だった。
歓喜とも狂気とも違う。
かつて最も欲したもの。
誰より優れ、誰より正しく、誰より選ばれた自分なら当然手に入ると信じていたもの。
”愛”。
だが少年の日、その願いは拒まれた。
選ばれたのは、自分より弱く、未熟で、取るに足らぬ少年だった。
純粋であるため理解できなかった。
正しき者が選ばれず、劣る者が愛される理由など。
だから彼は理解できない理不尽な世界を呪ってしまった。
世界の仕組みそのものを、正し直そうと決めた。
そして今。
聖剣を取り戻した瞬間、胸の空洞が満たされていた。
誰かに愛されたわけではない。
だが、世界そのものに認められたと感じたのだ。
その顔を見て、誰もが息を呑む。
先ほどまでの冷酷な支配者の貌ではない。
怒りも、執着も、飢えも消えていた。
ただ静かで。
ただ穏やかで。
あまりにも澄み切った、救済者の顔。
まるで、この世の苦しみをすべて理解した聖者のように。
「皆、ようやく救われます」
優しい声だった。
ぞくり、とレックスの背筋が凍る。
怒りを向けられる方がまだ分かりやすい。
この男は本気で、善意のまま殺そうとしている。
「聖剣抜刀」
切っ先がわずかに揺れた。
次の瞬間、一条の白光が走る。
「が……っ!」
ガロードの胸を貫き、吹き飛んだ。
血飛沫すら焼き消され、荒野に転がる。
「兄貴!」
レックスの叫びも届かない。
「苦しみから解放して差し上げます」
エリオスは慈しむように告げる。
その姿は、死こそ最大の救済と信じる僧にも見えた。
寄り添い合う番の姿へ、視線が移る。
「聖剣抜刀」
二条目の光。
「っ……!」
シンが咄嗟にルーナを庇う。
だが二人まとめて貫かれ、折り重なるように倒れた。
赤い髪が土に広がる。
伸ばされた手は、互いに届いたまま止まっていた。
残されたのは、レックス一人。
熱風が吹く。
焦げた匂いと、血の匂いだけが残る。
「……駄目か」
棍棒を握る手に、力が入らない。
勝ち筋は尽きた。
仲間は倒れた。
自分一人では届かない。
今度こそ、詰みだ。
「君だけは少し惜しいですね、レックス」
エリオスが歩み寄る。
「ですが、未熟な善意は世界を乱す」
聖剣が掲げられる。
「ここで終わるべきです」
終わる。
そう思った、その時だった。
風が止んだ。
エリオスの足が止まる。
視線が、レックスの背後へ向けられる。
つられて振り向いたレックスは、目を見開いた。
「……ノエリア?」
赤い衣をまとった少女が、静かに立っていた。
眠っていたはずの瞳は澄み切り、風に青髪が揺れている。
その場にいるだけで、空気が張り詰めた。
まるで、世界そのものが彼女の到着を待っていたかのように。
ノエリアはレックスを見る。
「力を貸してください」
震えも迷いもない声だった。
「この選定を、終わらせるために」
エリオスの微笑みが、初めて揺らぐ。
裁定者ノエリア。
すべてを終わらせる少女が、勇者たちの前に立ち塞がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




