それぞれの思惑
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……すごい」
誰かが小さく呟いた。
気づけば、みんなの視線が僕に集まっていた。
ミレーネさん。
ルシアンさん。
エルディナ様。
侍女さんたちも、驚いた顔で僕の手を見ている。
さっきまで光っていた刻印は、もう落ち着いている。
でも、隠しきれない。
僕は少しだけ困った顔になった。
……そんなに驚くことなのかな。
いや、驚くよね。
普通はこんなの、持ってない。
でも。
僕自身は、この力がそんな大層なものだと思ったことがあまりない。
というか、手に入った理由が、どうにも締まらないというか。
思い出すのは、ガロード兄貴と出会ったばかりの頃だ。
あの頃の兄貴は、正直ひどかった。
手加減が、全然できなかった。
「……あの頃はボロボロだったもんな」
思わず小さく呟く。
訓練だと言われて、僕も普通に受けていた。
先生――オルグラード先生の弟子なら、それくらい当たり前だと思っていたし。
でも。
それを見て、ぶちぎれた人がいた。
僕の母さんだ。
母さんは行動が早い。
本当に早い。
ある日、兄貴にこう言った。
「うちの息子、壊す気?」
ものすごく笑顔だったけど、目が全然笑ってなかった。
兄貴は当然のように言った。
「訓練だ」
……うん。
それがいけなかった。
次の瞬間。
母さんの拳が飛んだ。
結果。
ガロード兄貴は、完膚なきまでにボコボコになった。
あれは本当にすごかった。
兄貴、途中から反撃しようとしてたけど、全部叩き落されてた。
たぶん、兄貴にとっては黒歴史だと思う。
ちなみに母さんは、街の自警団が逃げるレベルで強い。
本当に逃げる。
冗談じゃなくて、実際に逃げた。
……そして。
話はそれで終わらなかった。
母さんの矛先は、次に向かった。
オルグラード先生。
兄貴の師匠で、僕の鍛冶の先生でもある。
「弟子の管理、どうなってるの?」
母さんは静かにそう言った。
先生は黙っていた。
珍しく、すごく困った顔をしていた。
結果。
先生は謝った。
そして、僕にこう言った。
「……お前に回復魔法を与える」
施されたのが、刻印魔法だった。
しかも、治癒。
肉体刻印。
僕の左手の甲に刻まれた魔法紋。
当然だけど。
これは、めちゃくちゃ高い。
普通の騎士なら、一生働いても買えない。
しかも、先生のポケットマネー。
あとで聞いたとき、僕はちょっと青くなった。
「……そんな高いの、僕に?」
って聞いたら。
先生はため息をついた。
「お前の母親をこれ以上怒らせる方が高くつく」
……だそうだ。
それ以来。
兄貴との訓練で怪我しても、ある程度はなんとかなるようになった。
便利と言えば便利。
でも。
あまり人に見せるものじゃない。
だから僕は、普段はグローブで隠して生活していた。
刻印が見えないように。
なるべく、目立たないように。
……なのに。
今日は、思いっきり使ってしまった。
僕はちょっとだけ苦笑する。
まあ。
しょうがないよね。
だって。
「……助かってよかった」
僕の前では、さっき助けた侍女さんが、ちゃんと呼吸している。
それだけで。
この刻印を使った意味は、十分あったと思うんだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レックスは、人差し指をそっと唇の前に立てた。
「……内緒で」
言葉にはしない。
だが、その仕草だけで十分だった。
エルディナ、ルシアン、ミレーネは顔を見合わせる。
そして、ほぼ同時に小さく頷いた。
追及はしない。
あの刻印魔法。
明らかに普通の代物ではない。
だが、それ以上にレックスの様子が「触れてほしくない」
と語っていた。
貴族社会には、事情というものがある。
それを無理に暴くほど、三人も無粋ではない。
ただ一人。
事情を知っている人物がいた。
ガロードである。
だが彼は、腕を組んだまま空を見上げていた。
視線は完全に別方向。
沈黙。
触れたくない。
その態度が、逆にすべてを物語っていた。
ミレーネが小さく息をつく。
(……これは、面白い事情がありそうですね)
だが彼女も、何も言わない。
空気は、そこで静かに流れた。
そして。
「出立を急ぎましょう」
口を開いたのはエルディナだった。
空はまだ薄暗い。
森の奥には夜の気配が残っている。
だが、それでも彼女は決断した。
「ここに留まるのは危険です」
誰も異論はなかった。
今回の襲撃。
野盗にしては統率が取れすぎている。
しかも、あの豹仮面の存在。
偶然とは思えない。
つまり――。
第二波が来る可能性がある。
「現状の戦力では、長く持ちません」
ルシアンが冷静に言った。
事実だった。
護衛兵はほぼ壊滅している。
死者四名。
重傷者四名。
軽傷者三名。
戦える者は、もはや限られていた。
「……急ごう」
ガロードも短く言う。
全員が動き始めた。
まず、ルシアンが倒れた護衛兵たちの元へ向かう。
静かに膝をついた。
「すまない」
短い祈り。
それから、遺品を回収する。
剣。
指輪。
家族に返すべきもの。
すべて布に包み、丁寧にまとめた。
遺体は、その場に簡易の墓を作る。
深くは掘れない。
だが、野に晒すよりはましだ。
「必ず、報告します」
土をかぶせながら、ルシアンは呟いた。
一方。
野盗たちの遺体は、そのままだった。
数が多すぎる。
三十。
処理している時間はない。
「首領の首だけ持ち帰ります」
ミレーネが言った。
グンの首。
これがあれば、討伐の証明になる。
そして。
背後関係を調べる手がかりにもなる。
それ以外の遺体は――。
放置。
森は静かだ。
だが、すぐに獣や鳥が集まるだろう。
冷たい判断だった。
しかし、それが現実だった。
やがて準備が整う。
馬車が動き出す。
まだ太陽は昇りきっていない。
森の霧の中を、一行は進む。
ヴァルディア男爵領へ。
安全な場所へ。
だが――誰もが理解していた。
今夜の襲撃は。
終わりではない。
ただの、始まりにすぎないことを。
森の奥。
誰かが見ている気配が、まだ消えていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴァルディア男爵領、主館の執務室。
高い窓から差し込む朝の光が、机の上の書類を淡く照らしていた。
アルベリオ・ヴァルディアは、静かに書類へ目を通している。
外から見れば、いつもと変わらぬ朝だ。
整った髭。
穏やかな表情。
文官然とした落ち着き。
だが。
「……ほう」
その眉が、わずかに動いた。
報告書の一行。
そこに書かれていた言葉が、彼の心を乱していた。
――エルディナ一行、野盗の襲撃を受く。
アルベリオはペンを置く。
「美しくない事件だ」
静かな声だった。
怒りでも、動揺でもない。
だが、不愉快さは隠していない。
「姉上は無事だそうですが、兵に損害が出ています」
報告を続けたのは、執務室の反対側に立つ少年だった。
レオナルト・ヴァルディア。
アルベリオの息子であり、エルディナの弟。
まだ十四歳。
だが、その立ち姿には妙な威圧感がある。
軍服の襟を正し、冷静な顔で父を見ていた。
「お前の第一声はそれか、レオナルト」
アルベリオは軽く視線を上げる。
レオナルトは一瞬だけ沈黙した。
だが、すぐに答える。
「父上の言いたいことは理解しています」
声は丁寧だった。
しかし、どこか硬い。
「ですが今、領内は揺れています。
護衛兵が倒れたとなれば、治安の問題になります」
理屈としては、正しい。
だが。
アルベリオは静かに言う。
「無論、姉の身を案じての言葉も、含まれているのだろうね」
レオナルトの眉がわずかに動く。
「……当然です」
短く答える。
「それは身内としてか、それとも――」
アルベリオは言葉を止めた。
その先を、口には出さない。
――男爵領のための道具としてか。
レオナルトは少しだけ肩をすくめる。
「両方ですよ、父上」
迷いのない答えだった。
「姉上は有能です。
剣も使える。
ルシアンとミレーネを付けています」
つまり、死ぬとは思っていない。
そう言っているのだ。
執務室に、短い沈黙が落ちる。
アルベリオは小さく息を吐いた。
「……君は、ずいぶんと合理的になった」
「領地を守るには必要です」
即答だった。
レオナルトの腰には、訓練用ではない本物の大剣が下げられていた。
アルベリオは、ゆっくりと椅子に背を預ける。
そして話題を変えた。
「『公爵閣下』の到着はどうなっている」
レオナルトの表情が引き締まる。
「予定通りです。
二日後にご到着されると」
アルドリック・ヴァルハイト侯爵。
王都から派遣される、爵位継承と昇爵の見届け人。
しかも今回は、本人が来る。
これは単なる儀礼ではない。
政治だ。
「叔父上は、すでに動いているかもしれません」
レオナルトが言った。
叔父。
グレイヴァス・ヴァルディア。
男爵領の実権を握る武門派の男。
アルベリオは、静かに目を閉じる。
確かに。
今の男爵領にとって重要なのは、エルディナの無事よりも。
公爵の来訪。
爵位継承。
そして、昇爵問題。
すべてが絡み合っている。
「……すべてはヴァルディアのため、か」
アルベリオは小さく呟いた。
レオナルトは何も答えない。
ただ、父を見ている。
アルベリオは窓の外を見る。
遠くに見える城壁。
その向こうの森。
あの森を、今エルディナが越えてくるはずだ。
――グレイヴァス。
お前は、何を選ぶ。
アルベリオは心の中で問いかけた。
そして。
その答えは、もう動き始めているのだろう。
ヴァルディア男爵領の静かな朝は、嵐の前の静寂に過ぎなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴァルディア男爵領、軍務棟の執務室。
重厚な扉が乱暴に開かれた。
連絡兵が息を切らしながら報告を終えた瞬間だった。
「この男爵領で、賊の好きにさせただと!」
怒号が室内を震わせる。
机を叩いた拳の音が、乾いた音を立てた。
グレイヴァス・ヴァルディア。
ヴァルディア男爵領の軍事を預かる男である。
肩幅の広い軍服姿。
武骨な顔に怒気が浮かぶ。
「そんな輩を野放しにしておく気か、貴様!」
連絡兵は思わず小さな悲鳴をあげた。
「も、申し訳ありません!」
慌てて敬礼し、逃げるように部屋を出ていく。
扉が閉まり、室内に沈黙が戻った。
「災難ですな、父上」
「この大事な時に」
軽い声が響く。
窓際の椅子に座っていた青年が、肩をすくめた。
アルヴィン・ヴァルディア。
グレイヴァスの息子である。
整えられた貴族服。
指には宝石の指輪。
その細い目は、どこか嘲るように笑っていた。
グレイヴァスがゆっくりと振り向く。
鋭い視線。
「……何が言いたい」
低い声だった。
一瞬だけ、アルヴィンの肩がわずかに揺れる。
だがすぐに、いつもの笑みを浮かべた。
「簡単なことですよ」
椅子から立ち上がり、父の机に近づく。
「今は父上にとっても重要な時期でしょう」
「爵位継承」
「そして昇爵」
アルヴィンは指で机を軽く叩いた。
「こんな些事に感情を荒げる必要はない」
グレイヴァスの眉が動く。
「エルディナは無事なのでしょう?」
「ならば問題はないではありませんか」
その言葉に、グレイヴァスの目が鋭くなる。
「些事だと?」
低く唸る。
「この領内で賊が暴れた」
「それが些事だと抜かすか」
「兵が死んだのだぞ」
アルヴィンは軽く笑った。
「兵など、また集めればいい」
「だが爵位は一つしかない」
静かな声だった。
しかし、その言葉には明確な意図があった。
グレイヴァスは息子を睨む。
「何が言いたい」
アルヴィンはゆっくりと微笑む。
「いずれ父上は、この男爵領――」
「いや」
「子爵領に君臨するのですよ」
室内の空気が重くなる。
グレイヴァスは腕を組んだ。
「決まっているわけではない」
「兄上もいる」
「そしてエルディナもだ」
アルヴィンは鼻で笑う。
「エルディナですか?」
「女ではないですか」
「この領地を継ぐ器ではない」
グレイヴァスは何も言わない。
ただ、息子を見ていた。
アルヴィンはさらに続ける。
「なに」
「父上は勝てばいい」
「それだけの話ですよ」
軽く礼をして、扉へ向かう。
そして振り返らずに言った。
「公爵閣下も来られる」
「勝つ者に、皆が従う」
「ギルベルト殿も、父上の昇爵を望んでおられる」
扉が閉まる。
室内は再び静かになった。
グレイヴァスは深く息を吐く。
「あいつめ……」
小さく呟いた。
剣の腕でレオナルトに敗れてから。
アルヴィンの性格は、さらに歪んだ。
最近では中央の怪しい連中とも繋がっているという。
気に入らない。
だが。
息子であることも事実だった。
グレイヴァスは窓の外を見る。
遠くの森。
あの向こうに、エルディナがいる。
聡明な娘だ。
もし。
もしあれが男子であったなら。
「……余計なことを考えるな」
自分に言い聞かせる。
武人は悩まない。
敵を斬るだけだ。
グレイヴァスの手は、無意識に剣の柄に触れていた。
それでも。
胸の奥に、わずかな重さが残った。
ヴァルディア男爵領の争いは、すでに静かに動き始めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あと一時間ほどで、男爵領が目視できる距離になります」
ミレーネの声が、馬車の外から聞こえてくる。
私はカーテンを少しだけ開けた。
朝の光が、森の向こうから差し込んでいる。
ヴァルディア領。
……久しぶりの帰郷だ。
「そうね。
この距離なら、襲撃の可能性も低いわ」
そう答えながら、私は息を吐いた。
その様子を見て、ミレーネが小さく笑う。
「気が重そうですね」
その声色は、護衛騎士ではない。
完全に、親友のそれだった。
「久しぶりの帰郷よ」
私は肩をすくめる。
「嬉しくないわけではないわ」
本当に。
嬉しくないわけではない。
ただ――。
「何を話したらいいのか、わからないだけ」
ぽつりと呟く。
父。
叔父。
弟。
従兄弟。
男爵領は今、穏やかではない。
私が戻れば、必ず何かが動く。
そう思うと、自然と気が重くなる。
ミレーネは少しだけ考え、そして楽しそうに言った。
「良いではありませんか」
「何が?」
思わず聞き返す。
すると彼女は、くすりと笑った。
「少なくとも、良い掘り出し物と出会えたではありませんか」
「掘り出し物?」
何を言っているのだろう。
首を傾げる私に、ミレーネは当然のように言った。
「わかりませんか」
「レックス君ですよ」
「はぁ!?」
思わず声が裏返った。
なんでそこで、レックスが出てくるの。
ミレーネは腕を組み、真剣な顔で語り出す。
「いや、彼は実に良い」
「まだどこにも染まっていない純朴さ」
「それでいて、あの素直さ」
うんうんと頷きながら続ける。
「わたしはいたく気に入りましたね」
……何その評価。
私は呆れながら彼女を見る。
だがミレーネは止まらない。
「セルディアの特使も、継承の儀までは滞在するでしょう」
「つまりレックス君も、それまではヴァルディアにいる可能性が高い」
そして、ぐっと拳を握った。
「わたしは彼を、ぜひとも口説き落とし」
「ヴァルディアの騎士にしたいのです」
熱い。
妙に熱い。
「なんでそうなるのよ……」
思わず額を押さえる。
ミレーネはきっぱり言った。
「推せます」
「推しなの!?」
意味がわからない。
しかし彼女はさらに続ける。
「あの偶然では済まされない動き」
「戦闘時の反応」
「実に良い」
そして身を乗り出してくる。
「そうは思いませんか!」
「……まぁ」
私は少し視線を逸らした。
「悪い子ではないと思うけど」
あの時。
命を助けてもらった時。
……少しだけ。
ほんの少しだけ。
かっこいいとは思った。
ミレーネは満足そうに頷いた。
「はい。ですので」
「グレイヴァス閣下に推薦する際は、ぜひ口添えを」
「はいはい」
適当に返事をする。
すると――。
「いえ、エルディナ様」
後ろから声がした。
振り向くと、レックスに助けられた侍女がいた。
「僭越ながら、わたくしもそう思います」
さらにもう一人の侍女も頷く。
「そうですよ」
「彼、可愛いですよ」
可愛い?その評価なの?侍女は続けた。
「レオナルト様、可愛げないですし」
「目つき怖いですし」
別の侍女が言う。
「アルヴィン様は……」
「性格最悪ですし」
私は顔を覆った。
「勘弁してよ……」
帰郷前だというのに。
頭が痛くなりそうだった。
けれど。
馬車の外では、朝の光が広がっている。
森の向こう。
あの丘を越えれば――。
ヴァルディア男爵領だ。
胸の奥で、小さく息を吸う。
帰ってきた。
嵐の中心に。
そんな予感が、静かに胸に広がっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




