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勇者は神になれない  作者: ふたり旅団
レックス立志編
6/50

ヴァルディア男爵領遠征

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



まだ夜が完全に明けきる前。


セルディアの空は、薄い青に染まり始めていた。


街の外門の前。


僕たちヴァルディア男爵領遠征の一行は、すでに出発準備を終えていた。


さすがに大きな街だ。


門の外でも人の気配はある。


荷馬車が行き来して、商人たちが朝の準備をしている。


でも、僕たちの隊列はそれとは少し違う。


はっきり言って――物々しい。


「……すごいな」


思わず小さく呟いた。


隊列はすでに整っている。


先頭は騎士たち。


軍馬に騎乗したルシアンさん。


その横に、同じく騎乗した護衛騎士が一名。


そこから後ろへ。


幌馬車が一台。


中央には、エルディナ様が乗る馬車。


さらに荷馬車。


その後ろに、もう一台の幌馬車。


そして最後尾。


軍馬に乗った騎士が一名。


きれいな隊列だった。


幌馬車には交代要員が乗る。


護衛の騎士たちは交代で休憩を取るらしい。


御者も同じ。


四台の馬車を二交代で回す。


つまり。


常に六名は警戒に立つ体制。


……ちゃんとしている。


僕なんかが言うのも変だけど、かなりしっかりした護衛隊だと思う。


エルディナ様の馬車には、ミレーネさんがいる。


護衛兼、副官。


指揮はルシアンさんとミレーネさん。


それと士官クラスの騎士。


僕は後方の幌馬車に乗ることになった。


同乗者は――セルディアの特使。


正直、もっとこう。


大きくて、威圧感のある人を想像していた。


でも。


実際は普通の文官だった。


細身で、眼鏡をかけた穏やかな人。


どうしてエルディナ様の馬車に乗らないのか聞いてみたら


「政治的配慮です」


とだけ答えた。


……貴族って難しい。


僕は馬車の縁から前を見る。


兄貴――ガロードは荷馬車の方だ。


あれは本人の希望だった。


「人が多いと落ち着かねえ」


そう言って。


荷馬車の上にどっかり座っている。


そして。


ぴくり。


頭の上の耳が動いた。


「……音が聞きやすい」


兄貴はぼそっと言う。


「荷物の上の方が広いしな」


「兄貴、危険はないようにしたいよ」


僕が言うと。


兄貴は肩をすくめた。


「危険なんて、来るときゃ来るだろ」


……まあ。


それはそうなんだけど。


その時。


こちらに歩いてくる人がいた。


エルディナ様だった。


さっきまで特使と話していたけど、挨拶を終えたらしい。


僕たちの前で立ち止まる。


「ガロードさん、レックスさん」


落ち着いた声。


「長旅になります」


「よろしくお願いします」


僕は慌てて頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


兄貴は軽く手を上げる。


「おう」


……それでいいのかな。


エルディナ様は小さく微笑むと、また馬車の方へ戻っていく。


僕は、少しだけその後ろ姿を見送った。


……綺麗な人だな。


そう思った。


その時。


視線を感じた。


ミレーネさんだった。


エルディナ様の少し後ろ。


こっちを見ている。


……なんだろう。


表情がよく分からない。


でも。


なぜか、にまにましていた。


「……?」


僕が首を傾げていると。


横から声が来る。


兄貴だった。


「そういやレックス」


悪い笑み。


「お前、騎士に憧れてたんだよな」


「え?」


「顔、赤いぞ」


僕は無視した。


聞こえなかったことにする。


その時。


前方から声が響いた。


「出発する」


ルシアンさんだった。


短い。


でも、よく通る声。


騎士たちが動き出す。


馬が歩き出す。


馬車の車輪が、ゆっくりと回り始めた。


……そういえば。


先生――オルグラードは来ていない。


見送りはなし。


政治的な配慮らしい。


……でも。


なんとなく。


あの人、面倒くさがっただけじゃないかな、と思う。


セルディアの門が開く。


朝の光が差し込む。


僕たちは街の外へ出た。


ヴァルディア男爵領への旅が始まる。


この時の僕は。


ただの護衛の旅だと思っていた。


でも。


後になって思う。


これは――。


それどころじゃない旅の始まりだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



警戒はしていた。


だが、初日と二日目は特に何も起こらなかった。


初日はセルディアの勢力圏内。


街道の治安は比較的保たれている。


巡回兵も多く、盗賊が出るような場所ではない。


二日目、三日目も順調だった。


もっとも。


こちらは騎士を伴う隊列だ。


先頭と後方に軍馬の騎士。


中央には馬車。


護衛の人数も十分。


普通の盗賊なら、まず近づかない。


そして四日目。


王国最東端。


小さな砦と宿泊施設を備えた街に到着した。


門番が隊列を確認すると、外門がゆっくりと開く。


木製の大きな門が、軋む音を立てる。


馬車がその中へ入っていく。


野営ではない。


ちゃんとした町だ。


「……やっとここまで来ました」


思わず声が漏れた。


正直に言うと。


野営には、かなりげんなりしていた。


三日連続の野営。


地面の硬さ。


夜の冷え込み。


そして常に警戒を続ける緊張。


慣れていないわけではない。


それでも、疲れは溜まる。


「今日は……ベッドで眠れますね」


その事実だけで、少し気力が戻る。


まずは砦へ向かった。


わたしはルシアンを伴い、町と砦の責任者へ挨拶を済ませる。


形式的な挨拶だけだ。


互いに状況は理解している。


それが終わると、宿へ向かった。


この街は小さいが、街道の要所だ。


旅人用の宿はきちんと整備されている。


部屋に入ると、すぐに侍女たちが準備を始めた。


湯浴みは出来ない。


だが、沸かしたお湯が桶に用意されている。


布で体を拭く。


髪を洗う。


それだけでも、ずいぶん違う。


三日分の埃が流れていく感覚だった。


「……助かりますね」


侍女たちも、ほっとした様子だった。


その時。


コンコン、と扉が叩かれた。


「エルディナ様」


ルシアンの声だ。


「ルシアンです。


ミレーネもいます」


「入ってください」


許可を出す。


扉が開き、二人が入ってきた。


「失礼します」


ルシアンが一礼する。


表情はいつも通り冷静だ。


彼が来た理由はすぐに分かった。


「今後の行動方針について相談があります」


男爵領まで、あと二日ほど。


ここまでは問題なく来た。


だが、問題はこの先だ。


「街を出た後、早馬を出したいと考えています」


「男爵領側から迎えを出してもらうためです」


わたしは頷く。


「理由を聞かせてください」


ルシアンは地図を机に広げた。


「ここから先は、帝国軍との緩衝地帯です」


王国と帝国の境界付近。


そこは管理が行き届きにくい場所だ。


盗賊。


流れ兵。


密輸商人。


様々な者が潜む。


「治安はあまり良くありません」


ミレーネが補足する。


「野盗の数も多い地域です」


ルシアンは続ける。


「この距離なら、男爵領側も兵力を動かせます」


「合流できれば、護衛戦力は大きく増えます」


合理的な判断だった。


「わかりました」


わたしは答える。


「許可します」


ルシアンは軽く頭を下げた。


「手配します」


そう言って部屋を出ていく。


扉が閉まる。


部屋には、わたしとミレーネだけが残った。


ミレーネが肩をすくめる。


「まあ、ここまでは無事でしたが」


「油断はできませんね」


「ええ」


むしろ。


ここからが本番だろう。


窓の外を見る。


夕方の光が砦の石壁を赤く染めていた。


その時。


ミレーネが、ふっと笑った。


「ところで」


嫌な予感がした。


「レックス君とは、少しは進展しましたか?」


……また、その話ですか。


わたしは思わず額を押さえた。


「進展も何もありません」


「ただの護衛です」


そう答えると、ミレーネは楽しそうに笑う。


「本当にそうでしょうか?」


「出発の日、門の前での様子を見ていましたが」


「レックス君、かなり緊張していましたよ?」


「……それは」


言葉に詰まる。


確かに。


彼は少し顔が赤かった気もする。


だが。


「それは単に、任務だからでしょう」


「貴族相手ですし」


そう言うと。


ミレーネは、くすくすと笑った。


「そういうことにしておきましょう」


どうにも納得していない顔だ。


わたしは小さくため息をついた。


本当に。


なぜミレーネは、こんな話が好きなのだろう。


――だが。


ふと、思い出す。


出発の日。


門の前で。


「長旅になります」


そう言った時。


彼はまっすぐこちらを見て


「こちらこそ、よろしくお願いします」


そう答えてくれた。


その目は、とても真剣だった。


……変なことを思い出してしまった。


「エルディナ?」


ミレーネの声。


「顔、少し赤いですよ?」


「ち、違います!」


思わず声が大きくなった。


ミレーネは、楽しそうに笑っていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



五日目の夜。


森の縁に設営された野営地は、ランタンの柔らかな光に包まれていた。


ルシアンが馬車周囲の警戒を指揮し、ミレーネや他の護衛が巡回に出る。


隊列は整っている。


だが、彼らの知らぬところで、影が動いていた。


森の小高い丘の上。


一人の巨漢が望遠鏡を覗いている。


スキンヘッド、黒い瞳、180センチを超える体躯。


腕は太く、胸板も厚い。


汚れた鉄のプレストプレートが光を反射する。


その人物こそ、野盗団を束ねるボス、グンである。


「情報通りだな」


「セルディアからの特使付きなら、さぞ、ワシたちを満足させるものだろうよ」


低く、傲慢な声。


野盗らしい威圧感が、森の空気を震わせる。


「言っておくが、貴族の娘はどんな形でもいいから、いかしておけよ」


その笑みは下卑ていた。


続く配下の野盗たち三十名も、下品な笑いをこぼす。


「好きにしろ」


「奪えるものはすべて奪うぞ」


グンは自らの行動を正当化するかのように言った。


「儂らは、裕福な奴から奪い、それを使って金を動かす義賊だからな」


そしてグンは、一人の人物に目を向ける。


黒ずくめの影。


目しか見えない覆面。


低い姿勢で、まるで地面と一体化したかのような立ち姿。


「おい、豹」


豹。


この名で呼ばれる新入りは、無言で頷いた。


全身黒で統一された装束は、腕や脚も防具と布で覆い、武器の形状も隠している。


身長は180センチ前後に見えるが、スリムで機敏な体型。


シルエットだけで察するに、並の人間ではない。


「まず油断してる見張りを消してこい」


「それから合図をしろ」


豹は黙って頷くと、森の闇に溶けるように姿を消した。


まるで影そのものが歩くかのようだ。


丘の上で、グンは再び望遠鏡を覗く。


野営地のランタンの光が、わずかに彼の顔を照らした。


「さあ、野郎ども」


「今夜は楽しむぞ」


野営地では、まだ隊列の笑い声や小さな話し声が聞こえる。


だが、この夜、彼らは知らなかった。


影の中で、運命を揺るがす者が、静かに動き始めていることを。


森の闇が、次の戦いの舞台となろうとしていた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇夜の森は静寂に包まれていた。


野営地のランタンがかすかに揺れる。


俺の耳は、普段なら気にならない些細な音まで拾う。


二、三時間ほど前、歩哨の護衛兵たちは他愛のない会話を交わしていた。


「明日には男爵領に入れるな」


「一週間は長かったな」


「ま、領地に戻れば酒も飲めるというもんだ」


そんな無邪気なやり取りが、すぐに断ち切られるとは誰も思わなかっただろう。


耳に異変が走ったのは、微かな押さえ声。


瞬間、首筋に冷たい血の匂いが漂う。


狼耳がピクリと動く。


目を閉じていたが、一気に開く。


血の匂い。


しかも大量だ。


これで十分だった。


「起きろ、レックス」


蹴り上げるように隣のレックスを叩き起こす。


驚きと恐怖が顔に浮かぶ。


森の影から、豹が姿を現す。


無言。


黒ずくめ。


低く、鋭く。


グンと野盗たちが次々に現れる。


野盗たちの人数は、こちらより多い。


「やるなぁ、一撃じゃねーか」


グンが声を上げる。


豹は無言のまま、仕事の誇示もせず。


俺の目に映るのは、動く影、そして血の筋。


「野郎ども、奪い…!」


グンが叫ぶ。


だがその声は、風のように迫るガロードの蹴りによって遮られる。


配下の一人が宙を舞い、地面に叩きつけられる。


同時に、他の野盗たちが身構える。


野盗たちの足元で息絶えている護衛兵たち。


レックスは警告用の笛を吹く。


響き渡る金属音のような警笛。


ミレーネも異変に気付き、笛を鳴らす。


「敵襲!」


その瞬間、野営地全体が覚醒したかのように動く。


戦闘開始の合図だ。


ガロードの視線は常に周囲をスキャンする。


野盗たちは多い。


数では圧倒されるかもしれない。


だが、この状況、俺は理解している。


その瞬間、闇と光が入り混じる野営地で、戦いの幕が切って落とされた。


影と影がぶつかる音、鋭い刃の閃光。


それは単なる襲撃ではない。


野盗の傲慢さと、そして俺たちの決意が交錯する、一夜の戦場の始まりだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「レックス、エルディナの方へ行け!」


声に力がこもる。


奴らの狙いは明白だ。


貴族の娘


―― エルディナを確実に守る。


もし護衛がそれを疎かにすれば、俺は師匠に怒られるだろう。


いや、殺されるかもしれない。


レックスは素早く反応し、指示通りにエルディナの方へ駆けていく。


その背中を確認しながら、ガロードは戦闘ギアを引き上げる。


目の前には野盗のボス、グンだろう。


巨漢で青龍刀を構えた男が一人、その取り巻きが二人。


だがそれだけではない。


背後から、森の夜気がざわつく。


いやな感触


―― 背筋が冷たくなる。


舌打ちしながら攻撃をかわす。


「こいつ……」


後ろを振り向くと、そこにいるのは豹。


一瞬、獣人かと思った。


だがよく見ると、豹の頭を模した覆面を着けた人間だ。


黒く、全身を覆った装束。


刃が空気を切る音。


金属が鋭く響く。


豹は無言のまま、影のように滑るように動く。


距離を取りながらも、目が冷たく光っている。


俺の指先から、黒曜石のような輝きの爪が伸びる。


―― 久々に出しちまったな


獣人としての証。


出さなければ、致命の一撃になっていたかもしれない。


―― 認めたくないが


―― こいつは、俺より強い


―― 狼と豹。


二人の獣が、夜の森で対峙する。


だが、目の前の状況は複雑だ。


グンが青龍刀を振りかざし、こちらに突進してくる。


―― 忙しい時に


―― 片手間に相手はしていられない


―― 豹も容赦なく迫る。


その瞬間、助けが入った。


「ガロード君!」


ルシアンがバスタードソードを構え、グンに斬りかかる。


グンも応戦するが、これで俺は集中できる。


「エルディナの方は?」


心配が口をつく。


「ミレーネがいる」


「問題ないはずだ!」


ルシアンが答える。


「レックスもエルディナの方に行かせた!」


なら何の心配もない。


「ああ、それなら……なお万全だ!」


ルシアンの剣を持つ手にも力がはいる。


視界と意識を豹に集中させる。


影のような動き、冷たい殺意。


これが本物の戦い―― 俺の血が騒ぐ。


互いに一歩も引かず、夜の森に二匹の獣が対峙したまま、風がざわめく。


これから始まるのは、護衛と命を賭けた戦闘の夜だった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇警告音が森に鳴り響く。



一瞬遅れた自分の感覚。


―― 襲撃だ。


エルディナは手元でレイピアを握り、馬車を飛び降りる。


視界には、三人の野盗。


そして、やられた護衛兵たちの姿。


油断していた。


男爵領が近いという安心感。


それが緊張を抜けさせていたのだ。


「こいつが、ご令嬢様か」


下卑た笑いが空気を震わせる。


私は無言でレイピアを構える。


「おお、こわいねぇ」


と挑発する野盗たち。


三対一。


明らかに不利だ。


「お嬢様!」


侍女が飛び出す。


使命感か、勇気か。


しかし、野盗はまるで待っていたかのように、彼女の顔を殴りつけ捕える。


人質。


「こいつの命が惜しければ、降参しろ」


「卑劣な真似を!」


「まず武器を捨てろ」


侍女の悲鳴。


降伏しても、この連中が紳士的に扱う保証はない。


だが、侍女を見捨てることはできない。


指先の力を抜き、レイピアを手放そうとしたその瞬間


「――あっ」


指に力を込め直す。


背後に、確かな動きが見えたから。


――レックス君!


レックスが飛び出す。


人質をとった野盗の肩を砕き、地面に土下座させる。


そして侍女を抱え救い出す。


一瞬で状況が逆転した。


胸の奥の緊張が少し解ける。


レックスの次の動き。


突き出す刺突剣の一撃。


野盗の悲鳴が森に木霊する。


「ご無事ですか」


まるで騎士のような落ち着きと冷静さ。


「ええ」


と返す私。


力強く、安心感が心を満たす。


残る野盗は最後の一人。


逃げようとするが、逃げ場はない。


逃げる方向には、ミレーネ。


立ちはだかるミレーネ。


ショートソードの軌跡が光を反射し、野盗を止める。


二人の心強い味方。


その存在を目にし、胸が熱くなる。


私を守る、確かな存在。


森に広がる夜気。


戦いは一瞬で終わった。


だが心の中には、強さと温かさが静かに刻まれた。


私は深く息をつき、侍女を抱き寄せる。


安心感と感謝が交錯する。


夜の森は静かに、戦闘の痕跡を残していた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「なんだ聞いていた話と違うぞ!」


野盗のボス、グンが叫んだ。


ルシアンさんと鍔迫り合いをしながら、明らかに焦っている。


周囲を見れば分かる。


野盗たちは、もう押されていた。


護衛兵。


ルシアンさん。


ミレーネさん。


そして――兄貴。


戦いは完全にこっちの流れだった。


野盗は次々と倒れていく。


「待て! 降参する!」


グンが叫ぶ。


「なんだと」


ルシアンさんの声が低くなる。


その場に僕とエルディナ様、ミレーネさんが駆けつける。


エルディナ様の姿を見たグンは、さらに必死になった。


「命だけは助けてくれ! 豹、お前もやめろ! これ以上無理だ!」


そして言葉を続ける。


「かわりにいい情報をやる! そこの令嬢にも有効な――」


そこまでだった。


僕の視線は、別の場所に向いていた。


兄貴。


ガロード兄貴。


その前に立つ――豹の仮面。


黒い装束。


低い姿勢。


動きが、異常に速い。


――兄貴が押されている。


信じられなかった。


あの兄貴が。


完全に負けているわけじゃない。


だけど、劣勢だ。


兄貴の目は鋭く動いている。


突破の瞬間を狙っている目だ。


でも。


相手が強すぎる。


そのときだった。


豹が腕を振る。


手に握られた大型ナイフ。


投擲。


空気を裂く音。


ガロード兄貴が後退する。


回避。


でも。


ナイフは兄貴じゃなかった。


「――え」


次の瞬間。


刃がグンの首を貫いた。


肉が裂ける音。


胴体が崩れる。


グンの体が、二つに分かれて地面に落ちた。


静寂。


豹は止まらない。


次の刃を構える。


兄貴の視線が走る。


―― 違う。


―― 標的は。


「エルディナ様!」


僕の頭が理解するより早く、体が動いていた。


豹の腕が振られる。


投擲。


速い。


速すぎる。


エルディナ様は動けない。


ルシアンさんも。


ミレーネさんも。


間に合わない。


だから。


走る。


足が地面を蹴る。


肺が焼ける。


思考が消える。


戦闘の感覚だけが残る。


刃の軌道。


風の流れ。


―― 間に合え!棍棒を振る。


―― 並みの剣なら砕けるかもしれない


―― だが、こいつの強度なら


金属音。


火花。


刃が軌道を変える。


ナイフは森の闇へと弾かれ、消えていった。


「……はぁ」


エルディナ様の前で、棍棒を構えたまま息を吐く。


間に合った。


後ろから兄貴の声が聞こえた。


「……やってくれるよ」


「師匠に殴られずに済む」


その声で、少しだけ力が抜けた。


でも。


次の瞬間。


兄貴が踏み込む。


豹を追う。


―― いない。


豹の姿は消えていた。


そして。


黒い影が森を走る。


瀕死の野盗。


逃げようとする野盗。


豹は一人ずつ。


無言で。


確実に。


殺していく。


まるで証拠を消すみたいに。


最後の一人が倒れる。


豹が、止まる。


ゆっくりとこちらを見る。


仮面の奥の目。


冷たい。


兄貴を見る視線。


わずか数秒、もしかしたら一秒もないやりとり。


枝が一度だけ揺れた。


それが、豹が去った証だった。


誰も追えなかった。


兄貴が小さく呟く。


「……次を待て、か」


僕は棍棒を握ったまま、夜の森を見る。


戦いは終わった。


でも。


これはきっと。


終わりじゃない。


そんな気がした。


夜の死闘は、静かに幕を閉じた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇「



大丈夫ですか」


レックスが声をかけた。


声は落ち着いているが、その顔にはわずかな緊張が残っている。


「あ、ありがとう……助かりました」


エルディナはかろうじてそう返した。


だが、その直後、力が抜けたようにその場へへたり込む。


つい先ほどまで気丈に振る舞っていた。


だが、命を奪う凶刃が目前に迫った衝撃は、さすがの彼女でも受け止めきれるものではなかった。


ミレーネがすぐに駆け寄る。


「お怪我はなさそうですね」


安堵の息を漏らしながら、エルディナの様子を確認する。


しかし、胸の内は穏やかではない。


あの一撃。


あれを防ぐなど、本来ありえない。


自分の剣でも、間に合ったかどうか怪しい。


いや、おそらく無理だった。


レックスの棍棒がなければ、エルディナは確実に血の海に沈んでいた。


「これは……予定外の収穫では」


ミレーネは小さく呟いた。


彼女の視線は、レックスへと向けられている。


その頃、ルシアンが急ぎ足で戻ってきた。


「エルディナ様。


被害の報告です」


その声は冷静だったが、内容は重い。


「死者は四名。


すべて歩哨に出ていた護衛兵士です」


エルディナの表情が曇る。


「重傷者四名」


「うち侍女が一名」


「軽傷者三名」


護衛戦力は、ほぼ壊滅している状態だった。


文官二名。


侍女一名。


セルディア側特使一名。


この三名は無傷。


敵の野盗は三十名。


全員死亡している。


結果だけ見れば大勝利。


だが、そんな言葉で済ませられる状況ではなかった。


問題は重傷者だった。


軽傷なら回復薬で対処できる。


だが、重傷者は薬を飲むことすら難しい。


エルディナは静かに頷いた。


「わかりました」


助けられない命もある。


だが、助けられる命を見捨てるわけにはいかない。


簡素な茣蓙の上に四人の負傷者が並べられる。


エルディナは手首のブレスレットを外した。


王国の刻印魔法が施された装具。


刻印魔法。


それは特別な刻印を媒体に、魔法を使用可能にする技術だった。


刻印一つにつき、効果は一種類のみ。


回復なら回復。


強化なら強化。


使用条件は、刻印に魔力を蓄積させること。


だが、蓄積できる魔力量には限界がある。


エルディナのブレスレットは、回復術専用。


魔力使用量依存型。


大きな傷も癒せる。


だが、その分、魔力の消費は大きい。


全員を救える保証はない。


「……始めます」


エルディナは解放の呪文を唱える。


ブレスレットが淡く輝き始めた。


光が広がる。


一人目。


胸の傷が閉じていく。


二人目。


折れていた腕が元に戻る。


三人目。


血の止まらなかった腹部の傷が塞がる。


だが――四人目。


侍女の番になった瞬間。


ブレスレットの光が、ふっと消えた。


魔力切れ。


「……駄目なの」


エルディナの声が震える。


侍女の呼吸は荒い。


顔には苦しみの色が浮かんでいる。


その時だった。


「僕も手伝います」


レックスが前に出た。


侍女の横に膝をつく。


そして、左手をかざした。


次の瞬間。


レックスの手の甲が、淡く光り始める。


それは刻印。


皮膚の上に刻まれた、魔法紋。


ミレーネの目が見開かれた。


「……肉体に刻印魔法を刻んでいるのか」


刻印魔法は通常、装具に施すもの。


だが、人体に刻印する者も存在する。


それは極めて危険で、稀な技術。


侍女の傷がゆっくりと閉じていく。


呼吸が安定する。


顔から苦痛が消えていく。


レックスの額に汗が浮かぶ。


それでも、手を離さない。


やがて。


侍女の胸が大きく上下した。


生きている。


その場にいた全員が、静かに息を吐いた。


夜の森に、ようやく安堵が広がった。


しかし同時に。


この場にいる者たちは気づき始めていた。


レックスという少年が


―― ただの鍛冶見習いではないことに。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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