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勇者は神になれない  作者: ふたり旅団
レックス立志編
5/50

出発前夜

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



ルシアンの不満は、どうやら完全に消えたらしい。


あの腕試しのあと。

彼は僕に対して何も言わなくなった。


むしろ、騎士としての態度に変わった気がする。


そして今。


僕たちは再び会議室に集められていた。


ヴァルディア男爵領へ向かうための最終確認だ。


机の上には書類が並んでいる。


オルグラードの側に控えている文官が、それを読み上げていた。


「人員構成を確認します」


淡々とした声だった。


「ヴァルディア男爵領側」


紙をめくる音。


「エルディナ・ヴァルディア様」


「ルシアン・ヴァルツァー殿」


「ミレーネ・クラウディア殿」


二人は静かに頷いた。


文官は続ける。


「侍女二名」


「文官二名」


「護衛人員十二名」


少し間を置く。


「合計、十九名」


……多い。


僕は正直に思った。


やっぱり貴族の移動は大掛かりだ。


文官は視線を次の紙に落とす。


「続いてセルディア側」


紙がめくられる。


「特使一名」


「レックス」


「ガロード」


短い沈黙。


「以上、三名」


……少ない。


ものすごく少ない。


思わずガロードを見る。


ガロードは肩をすくめた。


文官はさらに読み上げる。


「ヴァルディア男爵領側は、セルディア側人員を受け入れる代わりに護衛人員を追加します」


「セルディア側は護衛戦力を提供」


「同時に、往路に必要な物資の三分の二を無償で提供します」


僕は思わずオルグラードを見る。


三分の二?


それって結構な量だ。


文官は続ける。


「提供された物資の返却は不要」


「ただし復路において、同行者を送り返す手配はセルディア側が行います」


つまり。


帰りの足はこっちで用意するってことか。


文官は次の紙を見る。


「提供物資」


淡々と読み上げる。


「食料」


「飼料」


「薬品」


「回復薬」


「荷馬車一台(馬付き)」


「軍馬三頭」


「予備武器、防具」


……多い。


僕は内心で驚いていた。


特使一人を送るだけ。


普通なら、ここまでやらない。


完全に赤字だ。


それなのに。


オルグラードは何も言わない。


当然のような顔をしている。


……そうか。


僕は思い出す。


セルディアは巨大な交易都市だ。


この街は。


世界の富の一パーセントを動かす。


そう言われている。


その領主が、オルグラード。


だから。


これくらいの物資は出せるのだろう。


……なるほど。


僕たちが無償で働かされる理由も分かる。


物資を出してるから。


そういう計算か。


文官が顔を上げる。


「物資の用意は、本日中に整える予定です」


そしてオルグラードを見る。


確認の視線。


オルグラードは椅子に座ったまま言った。


「不足なく手配しろ」


短い。


「決定事項だ」


文官は深く頭を下げた。


「承知しました」


そして、もう一枚の紙を手に取る。


「続いて、現地情勢です」


部屋の空気が少し変わった。


エルディナも姿勢を正す。


「現在、ヴァルディア男爵領周辺では」


「帝国軍の動きが活発化しているとの報告があります」


帝国軍。


その言葉で、ルシアンの目が鋭くなった。


ミレーネも腕を組む。


文官は続ける。


「大規模な軍勢ではありません」


「しかし斥候の活動が増えているとのことです」


そして結論。


「十分に警戒されますよう」


部屋が静かになる。


僕は地図を思い浮かべた。


セルディア。


王国。


その間。


国境地帯。


そこにあるのがヴァルディア男爵領。


つまり。


緩衝地帯だ。


そこに帝国軍が動いている。


……思っていたより。


ずっと危ない場所かもしれない。


僕は小さく息を吐いた。


どうやら。


この旅。


思ったよりハードになりそうだ。


 


オルグラード卿との会談が終わり、エルディナは安堵した。


問題だった人員と物資の件は、すべて片付いた。


本来なら、安心すべきなのだろう。


だが――。


私は窓辺に立ち、セルディアの夜景を眺めていた。


街はもう薄暗い。


商人の街らしく、夜でも灯りが消えない。

遠くで馬車の音が聞こえる。


ここは賑やかだ。


そして、自由だ。


「……帰るのですね」


小さく呟く。


ヴァルディア男爵領。


私の故郷。


けれど。


正直に言えば。


気が進まない。


セルディアへの留学は、私にとって充実した日々だった。


学問。


政治。


剣術。


そして多くの人間。


王国の地方では出会えないような人々が、この街にはいる。


ここでは、私はただの学生だった。


だが。


男爵領に戻れば。


そうはいかない。


貴族社会が待っている。


そして。


いずれ私は――。


どこかの貴族へ嫁ぐ。


政略結婚。


子爵家の血筋ともなれば、なおさらだ。


私は椅子に座り、小さく息を吐いた。


「……帰りたくない、ですね」


口に出してしまってから、苦笑する。


貴族の娘が言う言葉ではない。


だが。


それが本音だった。


そして、もう一つ。


男爵領には、別の問題もある。


後継者問題。


祖父であるヴァルディア男爵には、二人の有力な後継者がいる。


一人は、父。


アルベリオ・ヴァルディア。


文官型の人物だ。


外交や政治を得意とする。


穏やかな性格で、周囲からの信頼も厚い。


もう一人は。


叔父。


グレイヴァス・ヴァルディア。


軍事型の人物。


軍属として長く男爵領を支えてきた。


強く、豪胆。


兵たちからの支持は絶大だ。


二人は対立しているわけではない。


むしろ仲は良い。


互いの能力を認め合っている。


叔父は私のことも、実の娘のように可愛がってくれる。


人格者だ。


だが。


問題は彼らではない。


その下にいる者たちだ。


配下の者たちが、派閥を作っている。


父の派閥。


叔父の派閥。


表向きは穏やかだが。


水面下では、対立がある。


今はまだいい。


二人は同格だからだ。


だが。


もし一方が当主になれば。


男爵領は――割れる可能性がある。


私は机の上の蝋燭を見つめた。


火が揺れる。


そして、さらに面倒な問題。


次の世代。


父の息子。


レオナルト・ヴァルディア。


私の弟。


彼は、父よりも叔父を支持している。


父のやり方が気に入らないらしい。


父子の関係は、正直あまり良くない。


だが。


もっと厄介なのは。


叔父の息子。


アルヴィン・ヴァルディア。


私は眉をしかめる。


……はっきり言えば。


嫌いだ。


彼は中央の貴族とつながりを持っている。


そして。


いずれ男爵領の実権を握ろうとしている。


父と叔父。


その争いの上に立とうとしている。


野心家。


それが彼だ。


「……先が思いやられますね」


私は小さく笑った。


未来の話をしても仕方ない。


変わらない事態を考えても。


答えは出ない。


私は顔を上げる。


「向き合う時が来たということでしょう」


その時。


コンコン。


控えめなノックが響いた。


「エルディナ様。ミレーネです」


聞き慣れた声だった。


「入ってください」


扉が開く。


ミレーネ・クラウディア。


私の護衛。


そして、ルシアンの副官。


それ以上に――。


幼馴染。


彼女は部屋に入ると、私を見た。


そして。


少しだけ、顔を曇らせた。


「……難しい顔をしていますね」


私は肩をすくめる。


「そんな顔でしたか?」


「ええ。昔から」


ミレーネは苦笑する。


「悩み事がある時の顔です」


幼い頃から一緒に育った。


だから。


隠しても無駄だ。


ミレーネは軽く咳払いをした。


「まず報告を」


仕事の顔に戻る。


「明日の出立準備ですが」


「すべて整っています」


「物資、護衛、馬車。問題ありません」


「万全です」


さすがミレーネ。


仕事が早い。


私は頷いた。


「ありがとうございます」


ミレーネは少し間を置く。


そして。


ふっと表情を緩めた。


「……では」


「ここからは」


椅子を引く。


私の向かいに座る。


にやり、と笑った。


「幼馴染の特権です」


私は嫌な予感がした。


ミレーネは身を乗り出す。


「エルディナ様」


「レックス少年のことですが」


……やっぱり来たか。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



私は思わず額を押さえた。


ミレーネは完全に楽しそうな顔をしている。


さっきまでの副官の顔はどこへ行ったのか。


今ここにいるのは――。


幼馴染のミレーネだった。


「エルディナ様」


にこにこと笑いながら身を乗り出す。


「レックス少年、どう思います?」


「どう、とは?」


私はわざと平然とした顔で答える。


ミレーネは片眉を上げた。


「誤魔化さないでください」


「今日の試験、見ていたでしょう?」


もちろん見ていた。


ルシアンとの腕試し。


あれは驚いた。


正直に言えば。


想像以上だった。


最初に見た時。


細い少年だと思った。


戦士の体ではない。


だが。


動きが違った。


力任せではない。


しなやかで。


そして――強い。


「……確かに、優秀ですね」


私はそう答える。


ミレーネは、すぐにニヤリと笑った。


「“優秀”だけですか?」


「それ以上でも以下でもありません」


私はテーブルの紅茶を飲む。


ミレーネは腕を組む。


「へえ」


「じゃあ質問を変えましょう」


嫌な予感がした。


ミレーネは指を立てる。


「顔はどうです?」


「……は?」


思わず声が出た。


「顔です」


真顔で言う。


「結構整っていますよね」


「可愛い系というか」


「年下の子犬みたいな感じというか」


「護衛騎士団の若い子たちも言ってましたよ」


「“あの子、意外といい顔してる”って」


「……」


私は黙った。


確かに。


顔は整っている。


だが。


それを口にするのは、なんだか負けた気がする。


「普通では?」


私はそっけなく言う。


ミレーネが笑った。


「あ、今ちょっと考えましたね」


「考えてません」


「考えました」


「考えてません」


「考えました」


……この会話、意味があるのだろうか。


ミレーネは机に肘をつき、さらに楽しそうな顔になる。


「では次」


まだ続くのか。


「戦闘はどうです?」


私は少しだけ真面目に答える。


「優秀です」


「体格は騎士としては小さい」


「ですが、技術は高い」


「……ルシアンを押したのは事実です」


ミレーネは頷いた。


「私もそう思います」


「変な戦い方ですよね」


「変?」


「ええ」


ミレーネは指で円を描く。


「普通の剣じゃないんです」


「全身を使っている」


「武術家っぽい動き」


さすが副官。


分析は鋭い。


私は頷いた。


「ええ」


「だからルシアンも驚いたのでしょう」


ミレーネはしばらく考え。


それから、また笑った。


……嫌な笑い方だ。


「つまり」


「強い」


「顔もそこそこ良い」


「年齢も近い」


「しかも」


「エルディナ様を命懸けで守る任務」


私は紅茶を置いた。


ミレーネは両手を広げる。


「これはもう」


「物語の始まりでは?」


「何の物語ですか」


「恋物語です」


即答だった。


私は深くため息をつく。


「馬鹿なことを」


ミレーネは肩をすくめる。


「でも嫌じゃないでしょう?」


私は窓の外を見る。


セルディアの夜。


そして、ふと。


昼間の光景が浮かぶ。


ルシアンの剣を受け止めた少年。


少し驚いた顔。


それから。


真っ直ぐな目。


「……」


私は小さく首を振った。


「ただの護衛です」


そう言う。


ミレーネはニヤニヤしていた。


「そういうことにしておきましょう」


「でも」


彼女は立ち上がる。


扉へ向かう。


そして振り返る。


「明日から長旅です」


「護衛とは、意外と距離が近くなるものですよ」


意味ありげに笑う。


私は顔をしかめた。


「余計なことを言わないでください」


ミレーネはくすくす笑った。


「では、おやすみなさい」


扉が閉まる。


部屋が静かになる。


私はしばらく窓を見ていた。


そして。


小さく呟く。


「……変な少年」


セルディアの灯りが、遠くで揺れていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「……大変なことになったな」


自室の床に座り込みながら、レックスは小さく溜め息をついた。


手には棍棒。


膝の上には砥石。


しゃり、しゃり、と乾いた音が部屋に響く。


木の匂い。


砥石の粉。


慣れた夜の作業だ。


あのあと。


僕はいつもの鍛冶場に顔を出した。


旅に出ることになった、と話したら。


職人たちはもう知っていた。


「聞いてるぞ」


「頑張ってこいよ」


「死ぬなよ、見習い」


そんな言葉が飛んできた。


誰も驚かなかった。


そして、誰も止めなかった。


……ああ。


やっぱり僕は、まだ見習いなんだな。


正式な職人なら。


工房を離れるとなれば、もっと大騒ぎになるはずだ。


でも僕は違う。


まだ半人前。


替えはいくらでもいる。


それが少し悔しくて。


少しだけ、嬉しかった。


そのあと。


家に帰って、母と祖父に報告した。


結果は――予想通りだった。


「……あの爺ぃぃぃ!!」


母が立ち上がる。


本気で怒っていた。


「勝手なことを!!」


「ちょっと行ってくる!!」


「どこへ!?」


「決まってるでしょ!」


「オルグラードを殴りに!!」


……やっぱり。


僕は慌てて止めた。


本気だった。


母は冗談で言っているわけじゃない。


比喩でもない。


本当に殴りに行く。


なぜなら――。


母は、強い。


見た目は普通だ。


どこにでもいそうな主婦。


でも。


なぜか強い。


本当に理由がわからない。


僕が子供の頃。


酔っぱらった冒険者が絡んできたことがあった。


母は。


普通に投げ飛ばした。


……三人まとめて。


どうやったのかは今でもわからない。


祖父が笑いながら言った。


「誰に似たのかのう」


レオニス。祖父は、母をなだめながらそう言った。


そして僕を見る。


「行くこと自体は構わん」


穏やかな声だった。


「ただし、危険には巻き込まれるな」


……いや。


護衛って、もう危険の中じゃない?


僕は思った。


でも。


言わない。


絶対に言わない。


母がまた怒るから。


その時。


祖父が少し真面目な顔になった。


珍しい。


「レックス」


「はい」


「もし、男爵領で“勇者”に関する噂を聞いたら」


「その内容を話してくれ」


……勇者?


僕は首を傾げた。


どういう意味だろう。


聞こうとした。


でも祖父は、それ以上何も言わなかった。


結局。


「わかった」


そう答えるしかなかった。


しゃり。


しゃり。


砥石の音が戻る。


僕は棍棒を磨き続ける。


「……戦いが起こらないといいけど」


帝国軍。


その言葉が頭に残っている。


僕は兵士じゃない。


ただの見習いだ。


だから。


戦争なんて起きない方がいい。


この作業も、もう三年近く続けている。


でも。


棍棒の形は、ほとんど変わらない。


本当は。


片刃の剣みたいな形にしたい。


だけど。


この棍棒は――。


固すぎる。


木のはずなのに。


まるで鉄みたいだ。


いや。


鉄より固いかもしれない。


これも。


先生にもらった物だった。


祖父に連れられて、初めてあの屋敷に行った時。


先生は、思い出したように棚を探して。


これを取り出した。


「長いこと持て余していたものだ」


「これも何かの縁だ」


「お前にくれてやる」


そう言って渡してきた。


出自は不明。


素材も不明。


理由も不明。


なぜ僕に渡したのかも、よくわからない。


……まあ。


呪われた物じゃなさそうだからいいけど。


とりあえず。


棍棒として使うことにした。


そして。


この棍棒を持って歩いていたら。


ガロードに捕まった。


ガロードに拉致されて。


修行相手にされた。


……人生って、わからない。


僕は棍棒の表面を布で磨く。


乾いた布。


ゆっくりと。


丁寧に。


この棍棒は。


ガロードの蹴りを受けても。


傷一つつかない。


だから。


僕は決めている。


これを。


自分が成長できるように磨く。


それが毎日の習慣。


僕は棍棒を壁に立てかけた。


外を見る。


夜は静かだ。


「……さて」


明日から。


護衛の仕事。


僕はあくびをした。


「とりあえず」


「寝るか」


布団に潜り込む。


セルディアの夜は、静かだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


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