出発前夜
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ルシアンの不満は、どうやら完全に消えたらしい。
あの腕試しのあと。
彼は僕に対して何も言わなくなった。
むしろ、騎士としての態度に変わった気がする。
そして今。
僕たちは再び会議室に集められていた。
ヴァルディア男爵領へ向かうための最終確認だ。
机の上には書類が並んでいる。
オルグラードの側に控えている文官が、それを読み上げていた。
「人員構成を確認します」
淡々とした声だった。
「ヴァルディア男爵領側」
紙をめくる音。
「エルディナ・ヴァルディア様」
「ルシアン・ヴァルツァー殿」
「ミレーネ・クラウディア殿」
二人は静かに頷いた。
文官は続ける。
「侍女二名」
「文官二名」
「護衛人員十二名」
少し間を置く。
「合計、十九名」
……多い。
僕は正直に思った。
やっぱり貴族の移動は大掛かりだ。
文官は視線を次の紙に落とす。
「続いてセルディア側」
紙がめくられる。
「特使一名」
「レックス」
「ガロード」
短い沈黙。
「以上、三名」
……少ない。
ものすごく少ない。
思わずガロードを見る。
ガロードは肩をすくめた。
文官はさらに読み上げる。
「ヴァルディア男爵領側は、セルディア側人員を受け入れる代わりに護衛人員を追加します」
「セルディア側は護衛戦力を提供」
「同時に、往路に必要な物資の三分の二を無償で提供します」
僕は思わずオルグラードを見る。
三分の二?
それって結構な量だ。
文官は続ける。
「提供された物資の返却は不要」
「ただし復路において、同行者を送り返す手配はセルディア側が行います」
つまり。
帰りの足はこっちで用意するってことか。
文官は次の紙を見る。
「提供物資」
淡々と読み上げる。
「食料」
「飼料」
「薬品」
「回復薬」
「荷馬車一台(馬付き)」
「軍馬三頭」
「予備武器、防具」
……多い。
僕は内心で驚いていた。
特使一人を送るだけ。
普通なら、ここまでやらない。
完全に赤字だ。
それなのに。
オルグラードは何も言わない。
当然のような顔をしている。
……そうか。
僕は思い出す。
セルディアは巨大な交易都市だ。
この街は。
世界の富の一パーセントを動かす。
そう言われている。
その領主が、オルグラード。
だから。
これくらいの物資は出せるのだろう。
……なるほど。
僕たちが無償で働かされる理由も分かる。
物資を出してるから。
そういう計算か。
文官が顔を上げる。
「物資の用意は、本日中に整える予定です」
そしてオルグラードを見る。
確認の視線。
オルグラードは椅子に座ったまま言った。
「不足なく手配しろ」
短い。
「決定事項だ」
文官は深く頭を下げた。
「承知しました」
そして、もう一枚の紙を手に取る。
「続いて、現地情勢です」
部屋の空気が少し変わった。
エルディナも姿勢を正す。
「現在、ヴァルディア男爵領周辺では」
「帝国軍の動きが活発化しているとの報告があります」
帝国軍。
その言葉で、ルシアンの目が鋭くなった。
ミレーネも腕を組む。
文官は続ける。
「大規模な軍勢ではありません」
「しかし斥候の活動が増えているとのことです」
そして結論。
「十分に警戒されますよう」
部屋が静かになる。
僕は地図を思い浮かべた。
セルディア。
王国。
その間。
国境地帯。
そこにあるのがヴァルディア男爵領。
つまり。
緩衝地帯だ。
そこに帝国軍が動いている。
……思っていたより。
ずっと危ない場所かもしれない。
僕は小さく息を吐いた。
どうやら。
この旅。
思ったよりハードになりそうだ。
オルグラード卿との会談が終わり、エルディナは安堵した。
問題だった人員と物資の件は、すべて片付いた。
本来なら、安心すべきなのだろう。
だが――。
私は窓辺に立ち、セルディアの夜景を眺めていた。
街はもう薄暗い。
商人の街らしく、夜でも灯りが消えない。
遠くで馬車の音が聞こえる。
ここは賑やかだ。
そして、自由だ。
「……帰るのですね」
小さく呟く。
ヴァルディア男爵領。
私の故郷。
けれど。
正直に言えば。
気が進まない。
セルディアへの留学は、私にとって充実した日々だった。
学問。
政治。
剣術。
そして多くの人間。
王国の地方では出会えないような人々が、この街にはいる。
ここでは、私はただの学生だった。
だが。
男爵領に戻れば。
そうはいかない。
貴族社会が待っている。
そして。
いずれ私は――。
どこかの貴族へ嫁ぐ。
政略結婚。
子爵家の血筋ともなれば、なおさらだ。
私は椅子に座り、小さく息を吐いた。
「……帰りたくない、ですね」
口に出してしまってから、苦笑する。
貴族の娘が言う言葉ではない。
だが。
それが本音だった。
そして、もう一つ。
男爵領には、別の問題もある。
後継者問題。
祖父であるヴァルディア男爵には、二人の有力な後継者がいる。
一人は、父。
アルベリオ・ヴァルディア。
文官型の人物だ。
外交や政治を得意とする。
穏やかな性格で、周囲からの信頼も厚い。
もう一人は。
叔父。
グレイヴァス・ヴァルディア。
軍事型の人物。
軍属として長く男爵領を支えてきた。
強く、豪胆。
兵たちからの支持は絶大だ。
二人は対立しているわけではない。
むしろ仲は良い。
互いの能力を認め合っている。
叔父は私のことも、実の娘のように可愛がってくれる。
人格者だ。
だが。
問題は彼らではない。
その下にいる者たちだ。
配下の者たちが、派閥を作っている。
父の派閥。
叔父の派閥。
表向きは穏やかだが。
水面下では、対立がある。
今はまだいい。
二人は同格だからだ。
だが。
もし一方が当主になれば。
男爵領は――割れる可能性がある。
私は机の上の蝋燭を見つめた。
火が揺れる。
そして、さらに面倒な問題。
次の世代。
父の息子。
レオナルト・ヴァルディア。
私の弟。
彼は、父よりも叔父を支持している。
父のやり方が気に入らないらしい。
父子の関係は、正直あまり良くない。
だが。
もっと厄介なのは。
叔父の息子。
アルヴィン・ヴァルディア。
私は眉をしかめる。
……はっきり言えば。
嫌いだ。
彼は中央の貴族とつながりを持っている。
そして。
いずれ男爵領の実権を握ろうとしている。
父と叔父。
その争いの上に立とうとしている。
野心家。
それが彼だ。
「……先が思いやられますね」
私は小さく笑った。
未来の話をしても仕方ない。
変わらない事態を考えても。
答えは出ない。
私は顔を上げる。
「向き合う時が来たということでしょう」
その時。
コンコン。
控えめなノックが響いた。
「エルディナ様。ミレーネです」
聞き慣れた声だった。
「入ってください」
扉が開く。
ミレーネ・クラウディア。
私の護衛。
そして、ルシアンの副官。
それ以上に――。
幼馴染。
彼女は部屋に入ると、私を見た。
そして。
少しだけ、顔を曇らせた。
「……難しい顔をしていますね」
私は肩をすくめる。
「そんな顔でしたか?」
「ええ。昔から」
ミレーネは苦笑する。
「悩み事がある時の顔です」
幼い頃から一緒に育った。
だから。
隠しても無駄だ。
ミレーネは軽く咳払いをした。
「まず報告を」
仕事の顔に戻る。
「明日の出立準備ですが」
「すべて整っています」
「物資、護衛、馬車。問題ありません」
「万全です」
さすがミレーネ。
仕事が早い。
私は頷いた。
「ありがとうございます」
ミレーネは少し間を置く。
そして。
ふっと表情を緩めた。
「……では」
「ここからは」
椅子を引く。
私の向かいに座る。
にやり、と笑った。
「幼馴染の特権です」
私は嫌な予感がした。
ミレーネは身を乗り出す。
「エルディナ様」
「レックス少年のことですが」
……やっぱり来たか。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私は思わず額を押さえた。
ミレーネは完全に楽しそうな顔をしている。
さっきまでの副官の顔はどこへ行ったのか。
今ここにいるのは――。
幼馴染のミレーネだった。
「エルディナ様」
にこにこと笑いながら身を乗り出す。
「レックス少年、どう思います?」
「どう、とは?」
私はわざと平然とした顔で答える。
ミレーネは片眉を上げた。
「誤魔化さないでください」
「今日の試験、見ていたでしょう?」
もちろん見ていた。
ルシアンとの腕試し。
あれは驚いた。
正直に言えば。
想像以上だった。
最初に見た時。
細い少年だと思った。
戦士の体ではない。
だが。
動きが違った。
力任せではない。
しなやかで。
そして――強い。
「……確かに、優秀ですね」
私はそう答える。
ミレーネは、すぐにニヤリと笑った。
「“優秀”だけですか?」
「それ以上でも以下でもありません」
私はテーブルの紅茶を飲む。
ミレーネは腕を組む。
「へえ」
「じゃあ質問を変えましょう」
嫌な予感がした。
ミレーネは指を立てる。
「顔はどうです?」
「……は?」
思わず声が出た。
「顔です」
真顔で言う。
「結構整っていますよね」
「可愛い系というか」
「年下の子犬みたいな感じというか」
「護衛騎士団の若い子たちも言ってましたよ」
「“あの子、意外といい顔してる”って」
「……」
私は黙った。
確かに。
顔は整っている。
だが。
それを口にするのは、なんだか負けた気がする。
「普通では?」
私はそっけなく言う。
ミレーネが笑った。
「あ、今ちょっと考えましたね」
「考えてません」
「考えました」
「考えてません」
「考えました」
……この会話、意味があるのだろうか。
ミレーネは机に肘をつき、さらに楽しそうな顔になる。
「では次」
まだ続くのか。
「戦闘はどうです?」
私は少しだけ真面目に答える。
「優秀です」
「体格は騎士としては小さい」
「ですが、技術は高い」
「……ルシアンを押したのは事実です」
ミレーネは頷いた。
「私もそう思います」
「変な戦い方ですよね」
「変?」
「ええ」
ミレーネは指で円を描く。
「普通の剣じゃないんです」
「全身を使っている」
「武術家っぽい動き」
さすが副官。
分析は鋭い。
私は頷いた。
「ええ」
「だからルシアンも驚いたのでしょう」
ミレーネはしばらく考え。
それから、また笑った。
……嫌な笑い方だ。
「つまり」
「強い」
「顔もそこそこ良い」
「年齢も近い」
「しかも」
「エルディナ様を命懸けで守る任務」
私は紅茶を置いた。
ミレーネは両手を広げる。
「これはもう」
「物語の始まりでは?」
「何の物語ですか」
「恋物語です」
即答だった。
私は深くため息をつく。
「馬鹿なことを」
ミレーネは肩をすくめる。
「でも嫌じゃないでしょう?」
私は窓の外を見る。
セルディアの夜。
そして、ふと。
昼間の光景が浮かぶ。
ルシアンの剣を受け止めた少年。
少し驚いた顔。
それから。
真っ直ぐな目。
「……」
私は小さく首を振った。
「ただの護衛です」
そう言う。
ミレーネはニヤニヤしていた。
「そういうことにしておきましょう」
「でも」
彼女は立ち上がる。
扉へ向かう。
そして振り返る。
「明日から長旅です」
「護衛とは、意外と距離が近くなるものですよ」
意味ありげに笑う。
私は顔をしかめた。
「余計なことを言わないでください」
ミレーネはくすくす笑った。
「では、おやすみなさい」
扉が閉まる。
部屋が静かになる。
私はしばらく窓を見ていた。
そして。
小さく呟く。
「……変な少年」
セルディアの灯りが、遠くで揺れていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……大変なことになったな」
自室の床に座り込みながら、レックスは小さく溜め息をついた。
手には棍棒。
膝の上には砥石。
しゃり、しゃり、と乾いた音が部屋に響く。
木の匂い。
砥石の粉。
慣れた夜の作業だ。
あのあと。
僕はいつもの鍛冶場に顔を出した。
旅に出ることになった、と話したら。
職人たちはもう知っていた。
「聞いてるぞ」
「頑張ってこいよ」
「死ぬなよ、見習い」
そんな言葉が飛んできた。
誰も驚かなかった。
そして、誰も止めなかった。
……ああ。
やっぱり僕は、まだ見習いなんだな。
正式な職人なら。
工房を離れるとなれば、もっと大騒ぎになるはずだ。
でも僕は違う。
まだ半人前。
替えはいくらでもいる。
それが少し悔しくて。
少しだけ、嬉しかった。
そのあと。
家に帰って、母と祖父に報告した。
結果は――予想通りだった。
「……あの爺ぃぃぃ!!」
母が立ち上がる。
本気で怒っていた。
「勝手なことを!!」
「ちょっと行ってくる!!」
「どこへ!?」
「決まってるでしょ!」
「オルグラードを殴りに!!」
……やっぱり。
僕は慌てて止めた。
本気だった。
母は冗談で言っているわけじゃない。
比喩でもない。
本当に殴りに行く。
なぜなら――。
母は、強い。
見た目は普通だ。
どこにでもいそうな主婦。
でも。
なぜか強い。
本当に理由がわからない。
僕が子供の頃。
酔っぱらった冒険者が絡んできたことがあった。
母は。
普通に投げ飛ばした。
……三人まとめて。
どうやったのかは今でもわからない。
祖父が笑いながら言った。
「誰に似たのかのう」
レオニス。祖父は、母をなだめながらそう言った。
そして僕を見る。
「行くこと自体は構わん」
穏やかな声だった。
「ただし、危険には巻き込まれるな」
……いや。
護衛って、もう危険の中じゃない?
僕は思った。
でも。
言わない。
絶対に言わない。
母がまた怒るから。
その時。
祖父が少し真面目な顔になった。
珍しい。
「レックス」
「はい」
「もし、男爵領で“勇者”に関する噂を聞いたら」
「その内容を話してくれ」
……勇者?
僕は首を傾げた。
どういう意味だろう。
聞こうとした。
でも祖父は、それ以上何も言わなかった。
結局。
「わかった」
そう答えるしかなかった。
しゃり。
しゃり。
砥石の音が戻る。
僕は棍棒を磨き続ける。
「……戦いが起こらないといいけど」
帝国軍。
その言葉が頭に残っている。
僕は兵士じゃない。
ただの見習いだ。
だから。
戦争なんて起きない方がいい。
この作業も、もう三年近く続けている。
でも。
棍棒の形は、ほとんど変わらない。
本当は。
片刃の剣みたいな形にしたい。
だけど。
この棍棒は――。
固すぎる。
木のはずなのに。
まるで鉄みたいだ。
いや。
鉄より固いかもしれない。
これも。
先生にもらった物だった。
祖父に連れられて、初めてあの屋敷に行った時。
先生は、思い出したように棚を探して。
これを取り出した。
「長いこと持て余していたものだ」
「これも何かの縁だ」
「お前にくれてやる」
そう言って渡してきた。
出自は不明。
素材も不明。
理由も不明。
なぜ僕に渡したのかも、よくわからない。
……まあ。
呪われた物じゃなさそうだからいいけど。
とりあえず。
棍棒として使うことにした。
そして。
この棍棒を持って歩いていたら。
ガロードに捕まった。
ガロードに拉致されて。
修行相手にされた。
……人生って、わからない。
僕は棍棒の表面を布で磨く。
乾いた布。
ゆっくりと。
丁寧に。
この棍棒は。
ガロードの蹴りを受けても。
傷一つつかない。
だから。
僕は決めている。
これを。
自分が成長できるように磨く。
それが毎日の習慣。
僕は棍棒を壁に立てかけた。
外を見る。
夜は静かだ。
「……さて」
明日から。
護衛の仕事。
僕はあくびをした。
「とりあえず」
「寝るか」
布団に潜り込む。
セルディアの夜は、静かだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




