片鱗
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜風が荒野を吹き抜ける。
その中央で、二つの怪物が向かい合っていた。
ノエリアを守る侍女、アウラ。
そして、エリオスへ絶対の忠誠を誓う暴力の勇者、バルグロス。
両者の間に、もはや言葉で埋まる余地はない。
「……あんたに恨みはない」
低く唸るように、バルグロスが言った。
灰混じりの金髪を乱しながら立つその巨体は、人というより獣に近い。
極端に広い肩。
分厚い胸板。
鎧の隙間から覗く腕は異様なほど太く、筋肉が隆起していた。
獲物を見定める猛獣のような瞳だけが、静かにアウラを射抜いている。
「私にはあります」
対するアウラは、一歩も退かない。
黒髪を風に揺らし、静かに鉄球を握る。
「ノエリア様を悲しませる下賤な輩が」
次の瞬間だった。
鋼鉄の鉄球が、空気を裂いた。
轟音。
砲撃にも等しい速度。
躊躇など一切ない。
初撃から殺すつもりだった。
「――?」
だが。
ゴンッ、と鈍い衝撃音だけが響く。
「……あぶねぇなぁ」
バルグロスは片手で止めていた。
鉄球を。
まるで子供の玩具でも掴むように。
「……俺でなければ死んでる威力だ」
「元より油断する気はねぇが……」
右腕。
いや、義手。
肩口から先を切り落とし、接続された異形の腕。
それこそが、バルグロスの人造聖剣だった。
金属とも骨ともつかぬ白銀の腕が、不気味な光を帯びている。
「ただの女じゃねぇな」
「返すぜ!」
握り潰すように掴んだ鉄球を、力任せに投げ返した。
暴風。
アウラが放った時以上の速度だった。
だがアウラは冷静だった。
鎖を滑らせる。
回転を逃がす。
正面から受けず、軌道を逸らし、威力を殺す。
その瞬間。
バルグロスの姿が消えた。
「っ……!」
巨体とは思えない速度。
次の瞬間には、目前。
重戦車が突っ込んできたような圧力だった。
技術ではない。
理屈でもない。
ただ純粋な暴力。
生存本能。
闘争。
捕食。
強者を食らい、さらに上へ進む獣の理。
「耐えられりゃ、お前も強者だ!」
「そして俺が食うに値する御馳走だ!」
義手が輝いた。
人造聖拳。
叩き込まれた拳圧が、空間ごとアウラを吹き飛ばす。
身体が宙へ舞う。
まるで重さを失ったように。
「自分から空に逃げたか」
バルグロスが嗤う。
「だが、誤ったな」
地を蹴る。
爆発のような衝撃と共に、巨体が空へ跳んだ。
空中でなお加速する。
「そこに逃げ場はねぇ!」
上。
バルグロスがアウラを見下ろしていた。
義手がさらに白く発光する。
宿る力は、大地。
重力操作。
数秒だけ、世界そのものの重さを支配する異能。
「終わりだ!」
振り下ろされた拳が、アウラへ直撃した。
轟音。
衝撃波が夜空を裂く。
空中では勢いを逃がせない。
アウラの身体が地面へ落ちる。
激突。
大地が陥没した。
土と岩が爆ぜ、巨大なクレーターが生まれる。
土煙が荒野を覆った。
「終わったか?」
バルグロスが低く呟く。
だが次の瞬間。
煙の奥から、鎖の音が鳴った。
ジャラリ、と。
静かに。
冷たく。
「……随分と楽しそうですね」
土煙の中。
アウラは立っていた。
額から血を流しながら。
それでも表情は崩れていない。
だが。
その瞳だけが違った。
黒く。
深く。
人ではない何かを宿したような眼。
「ノエリア様を泣かせた罪……」
鎖が、ゆっくり持ち上がる。
「その程度で済むと、本気で思っているのですか?」
空気が変わった。
バルグロスの本能が、初めて警鐘を鳴らす。
目の前にいるのは、ただの侍女ではない。
もっと別の何かだと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
土煙を裂いて、アウラが駆けた。
一直線。
迷いも駆け引きもない。
その速度は、先ほどまでとは別物だった。
瞳孔が獣のように細くなる。
「――潰す!」
低い声。
空気が震えた。
対するバルグロスも前へ出る。
迎え撃つという発想ではない。
踏み潰す。
砕く。
そのためだけに前進する。
思考より本能。
理性より行動。
圧倒的な“前進圧”。
それこそが、バルグロスという勇者を名乗る怪物の最大の武器だった。
一歩。
踏み込むだけで大地が鳴る。
重戦車の突撃。
いや、山そのものが迫ってくるような威圧感。
鈍い音が響いた。
アウラが身を捻る。
避けた。
そう見えた瞬間だった。
遅れて衝撃が到達する。
「っ……!」
空気ごと叩き潰された。
まともに受けた左腕が、不自然な方向へ折れ曲がる。
骨が軋む音が夜に響いた。
だがアウラは止まらない。
痛みを無視したまま懐へ潜り込む。
逆手に握った“くない”が閃いた。
ザシュッ――!
バルグロスの胸元が切り裂かれる。
鮮血が飛んだ。
「ハハ……!」
だが。
バルグロスは笑っていた。
心底楽しそうに。
血を流しながら。
「いいぞ……それだ!!」
口元が獣のように吊り上がる。
強さだけを追い求めた男。
その果てにいるのは英雄ではない。
暴力そのものだった。
アウラの蹴りが炸裂する。
腹部へ叩き込まれた一撃が、巨体を浮かせた。
訓練時のガロードが顔を苦悶でしかめるほどの威力。
常人なら上半身が千切れていてもおかしくない。
それでも。
バルグロスは平然と受け止める。
「ハッ……効くじゃねぇか」
口から血を垂らしながら笑う。
苦戦している。
確かにダメージも受けている。
だが、それすら快楽だった。
人造聖剣から絶えず流し込まれる投薬。
そして、自身の脳が放出する異常な興奮物質。
痛みは歓喜へ変換される。
敵から見れば、恐怖以外の何物でもない。
次の瞬間。
アウラが背後へ回った。
フレイルの鎖が蛇のように伸びる。
首を締め上げるつもりだった。
だが。
「――が……!」
一瞬で逆転する。
巨大な手が、アウラの頭を鷲掴みにした。
そのまま空中へ持ち上げる。
片手だけで。
「もっとだ」
ギリギリ、と音が鳴る。
万力すら玩具に思える握力。
「俺を愉しませろ!」
アウラの身体が震えた。
力が抜ける。
左腕は折れ、呼吸も乱れている。
だが。
バルグロスは止まらない。
「まだだ……まだ足りねぇ……!」
獣のような咆哮。
「もっと来い!!」
その瞬間だった。
脱力していたはずのアウラが、ゆっくり顔を上げる。
黒い瞳。
その奥に、底知れぬ暗闇が宿っていた。
「……ほざくな」
声が変わる。
底冷えするような低音。
「獣の分際で」
空気が凍った。
本能で生きるバルグロスですら、一瞬だけ違和感を覚える。
目の前にいるのは、怒った女ではない。
もっと別の何かだ。
バルグロスは知らない。
この世には。
目覚めさせてはいけない怪物が存在することを。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暗い荒野に、重い風が吹き抜けた。
土煙の中心。
そこに立っていたのは、巨大な影だった。
バルグロスは違和感を覚える。
握り潰したはずの女の頭部。
その感触が、先ほどまでとは明らかに違っていた。
骨ではない。
鋼でもない。
もっと硬質で、生物らしさを感じさせない何か。
「……ハッ」
低い笑いが漏れる。
「何をする気だ」
バルグロスは片腕でアウラを吊り上げたまま、獰猛な目を細めた。
「人造オリハルコンを、どうにか出来るつもりか?」
右腕。
勇者の力そのもの。
己の肉を捨て、聖剣へ変えた異形の義手。
それを、アウラは無造作に掴んでいた。
まるで枝でも握るように。
ギチ――……。
微かな音。
金属が悲鳴を上げる音だった。
バルグロスの笑みが止まる。
「……あ?」
もう一度。
ギギ、ッ――。
今度は確かに聞こえた。
亀裂。
絶対に砕けぬはずの義手へ、ひびが走っている。
アウラの口元が、静かに歪む。
それは初めて見せる表情だった。
冷たい。
あまりにも冷たい嘲笑。
「人造オリハルコン?」
「だとしたら……随分と粗悪品ですね」
黒い瞳が、底冷えする光を宿す。
「私程度で、破壊できるのですから」
次の瞬間。
メギィィィッ!!――という破砕音が響いた。
アウラが。
素手で。
バルグロスの人造聖剣を、捻じ切った。
「――ッ、ぁぁぁぁぁぁッ!!?」
絶叫。
それは痛みに耐える猛獣の咆哮だった。
薬物。
興奮。
狂気。
それらで塗り潰された神経すら貫く激痛。
バルグロスの巨体が初めて崩れる。
だが、アウラは止まらない。
引き千切った義手の残骸。
人造オリハルコンの塊を、そのまま鈍器として振り下ろした。
ゴッ――!!
顔面が潰れる。
さらに。
ゴッ!!
ゴッ!!
ゴッ!!
骨が砕ける音。
血飛沫。
大地が揺れる。
それでもバルグロスは笑っていた。
歯を砕かれながら。
顔を歪めながら。
獣のように。
「……ハ、ハハ……!」
「強ぇじゃねぇか……!」
膝をつく。
だが瞳だけは死んでいない。
強さだけを求め続けた男。
その執念だけが、なお燃えていた。
「なんだ……お前……」
アウラは答えない。
静かに歩み寄る。
その右手が、ゆっくり変色していく。
黒。
深淵のような漆黒。
艶やかな光沢は、まるで生きた金属。
人の腕ではなかった。
ズン――ッ。
空気そのものが沈む。
そこにいたガロードですら、本能的な寒気に眉をひそめる。
バルグロスの意識が霞ぐ。
(……次は)
(もっと強くなる)
(この程度で終わる俺じゃねぇ)
(力が……まだ足りねぇ……!)
どれが最後の思考だったのか。
それは誰にもわからない。
一閃。
アウラの手刀が振るわれた。
それはもはや斬撃だった。
黒い刃。
音すら置き去りにして、バルグロスの首が宙を舞う。
巨躯が崩れ落ちた。
土煙が静かに広がる。
その死体を見下ろしながら、アウラはぽつりと呟いた。
「……”アウラ”に任せていては、この身体が壊れてしまう」
「私の任務の妨げるからな」
その声音は、今までの彼女とは別人だった。
感情がない。
温度もない。
ただ“命令”だけで動く存在の声。
アウラ対バルグロス。
勝敗は決した。
だが。
本当に恐ろしいものは、そこからだった。
アウラ自身すら知らない、もう一つの人格。
帝國が生み出した勇者殺しの系譜。
その片鱗だけが、今、静かに目を覚ましていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




