巡礼の真実
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
巡礼地点の最奥。
荒野の中央にぽつりと存在するそれは、初見では祭壇などと分からない。
草一本生えぬ黒い大地の上に築かれた、五メートルほどの円形石舞台。
継ぎ目なく削り出された白灰色の石は、幾百年の風雨を受けても欠け一つない。
荒廃した世界の中で、そこだけが時間から取り残されていた。
「……これが、そうなのか」
マリスが地図と方位盤を見比べながら呟く。
疑い深い彼でさえ、足元から伝わる異様な気配に声を潜めていた。
誰より先に歩み出たのはノエリアだった。
赤い衣の裾を揺らし、迷いなく石舞台へ上がる。
その足取りには一片の躊躇もない。
「ここが、巡礼の地です」
澄んだ声が、乾いた空へ静かに広がった。
「ようやく私たちに協力してくれる気になったんですね」
エリオスが微笑む。
その瞳は、やっと願いが叶うことを期待することに満ちている。
一方のノエリアは振り返らない。
「ここまでは、利害の一致と解釈してください」
冷えた返答だった。
その言葉に、セラフィナが小さく眉を寄せる。
ノエリアの視線が、ゆっくりとマリスへ向く。
「あなたで、よろしいのですか」
「……何の話でしょう」
平静を装う声。
だが喉はわずかに強張っていた。
「必要なのは、“選定者”に同意する“同意者”です」
その瞬間、空気が止まった。
「なに……?」
マリスの顔色が変わる。
王国保管庫の文書には、巡礼の地にて儀式を行えば勇者がさらなる力を得る。
そこまでしか記されていなかった。
誰が。
何を代償に。
何を試されるのか。
肝心な部分だけが空白だった。
マリスは当然、それが試練であればエリオスが主役だと思っていた。
「…危険は、ないのですか」
声が少し上ずる。
ノエリアは静かに首を傾げた。
「何も伴わない儀式など、あると本気で考えていたのですか」
その一言は、刃のように鋭かった。
マリスは押し黙る。
彼にはノエリアが、仮面の奥で嘲笑っているようにすら感じた。
横ではエリオスが見ている。
期待と命令を込めた視線で。
ここで拒めば、自分の価値は終わる。
才覚ある者に寄り添い、共に高みに至る。
それがマリスの処世だった。
だが今、その計算は音を立てて狂い始めている。
「頼んだぞ、マリス」
穏やかな声だった。
逃げ道を塞ぐには、十分すぎるほど。
長い沈黙の末、マリスは拳を握る。
「……分かりました。その試練、受けましょう」
ノエリアは何も答えず、両手を胸の前で重ねた。
次の瞬間。
歌が始まる。
人の言葉ではない。
古く、澄み、どこか懐かしい旋律。
「……私の分からない歌…」
セラフィナが呟く。
石舞台の円周に刻まれていた見えぬ紋様が、青白く浮かび上がる。
地面が脈打つ。
風が止む。
セラフィナは祈るように胸元で手を組む。
それでもエリオスだけは微動だにしない。
未知の力を前にしてなお、その瞳には何者にも揺るがないの意思があった。
ノエリアの歌声が、一際高く響く。
するとマリスの正面、何もなかった空間に亀裂が走った。
光が線となり、やがて一枚の扉を形作る。
古木のようにも、金属のようにも見える不思議な扉。
中央には、目を閉じた人の紋章が刻まれていた。
マリスの背に冷たい汗が流れる。
――この先に、何がある。
ノエリアはそこで初めて、エリオスを見た。
その眼差しには従順さも恐れもない。
ただ、確かな意志だけがあった。
「“巡礼の儀”は、“選定者”が“選定者”たるかを試す儀式」
静寂の中、澄んだ声が落ちる。
「“選定者”と共にある“同意者”に、相応しい資質があるか」
「その者が真に“同意”した時のみ、“選定者”は次なる位へ進めます」
エリオスの顔から表情が消える。
「私は見守り、裁定する者」
「すべては、”選定者”の”同意者”に委ねられます」
マリスは扉を見つめたまま動けない。
そして誰もまだ知らない。
ノエリアがこの世界に来た目的を、
力を授けるためではなく――
全く別の目的を秘めていたことに。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マリスは、扉の前に立ったまま動かなかった。
乾いた荒野に吹く風だけが、衣の裾を揺らしている。
額には、じわりと汗が滲んでいた。
――同意。
その言葉の意味は単純だ。
賛成すること。
認めること。
受け入れること。
ならば難しくはない。
エリオスこそ王国を導く者。
その才覚、力、器量。どれを取っても凡百とは違う。
自分は、その価値に賭けたのだ。
「この私が、エリオス様を証明してみせます」
芝居がかったほど堂々と、マリスは胸を張った。
エリオスは何も言わない。
ただ静かに見つめている。
期待も、命令も、失望も。
その無言の眼差し一つに、すべてが含まれていた。
「姫巫女様。儀式の開始は、この扉をくぐればよろしいのか?」
ノエリアは答えず、ただ一度だけ頷いた。
それが妙に冷たく見えた。
だが、今さら退く道はない。
マリスは唇を引き結び、扉の取っ手へ手を伸ばす。
触れた瞬間。
その姿が、空気へ溶けるように消えた。
「マリス!」
セラフィナの声が鋭く響く。
一歩踏み出しかけた彼女を、ノエリアの声が止めた。
「扉をくぐる意思を示した時点で、儀は始まっています」
「そんな説明は……!」
「必要ありません」
ノエリアの声音には、一切の揺らぎがなかった。
「“同意者”とは、説明を受けて従う者ではなく、自ら理解して選ぶ者です」
その言葉に、エリオスの眉がわずかに動く。
ノエリアは両手を胸元で重ね、静かに歌い始めた。
古い祈りの旋律。
人の言葉ではないはずなのに、胸の奥へ直接触れてくるような歌声だった。
石舞台の紋様が淡く発光し、空気そのものが脈打つ。
マリスが目を開けると、世界は白かった。
天も地もなく、境界もない。
ただ、自分だけが存在している。
その正面に、もう一人の自分が立っていた。
同じ顔。
同じ姿。
違うのは、薄く笑っていることだけ。
「なるほど……自己対話の試練か」
余裕を装って言う。
だが喉は乾いていた。
鏡の中のマリスが口を開く。
「お前は、本当にエリオスを信じているのか?」
声は、自分そのものだった。
「当然だ。彼こそ世界を救う器だ」
「では、なぜ彼が敗れた時の保身策を用意したのだ?」
心臓が跳ねた。
この虚像は自分にしかわからないことを知っている。
「……慎重と言え」
だが、次に耳に届いた言葉は、マリスの表情を凍らせるに十分だった。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「何だ、何を言っている?」
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「馬鹿な、そんなことに同意できる人間などいるものか!」
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「黙れ! 謀っているのか姫巫女!!」
白い空間に怒声が走る。
鏡の自分は、なお穏やかに笑う。
「お前は誰にも同意していない」
「”同意者”の資質ない者」
「お前は何も選べない」
マリスの顔が引きつった。
糸が走る。
無数の魔糸が鏡像へ絡みつき、首を締め上げる。
「私は違う! 私は選んだ! 私は――!」
だが絞まっていくのは、鏡像の首ではなかった。
自分の喉だった。
歌が止む。
現実へ戻った石舞台の前で、マリスは膝をついたまま痙攣していた。
両手の魔糸が、自らの首へ深く食い込んでいる。
「やめてください!」
セラフィナが駆け寄る。
糸を断ち切った時には、もう遅かった。
マリスの瞳から光は消えていた。
荒野に、重い沈黙が落ちる。
エリオスですら言葉を失う。
ノエリアは初めて明確な動揺を見せた。
「……そんな」
白い唇が震える。
「選定が、まだ生きている」
誰に向けた言葉でもなかった。
遥かな過去へ呼びかけるように、彼女は祭壇を見上げる。
「フィデリア……あなたは、まだ待ち続けていると言うのですが」
「選定のその先を……!」
かつて厄災の蛇と相討ちになり、世界を救った伝説の姫巫女と呼ばれたノエリアの姉妹。
その意志が、今なおこの地で、この世界で生きている。
「何を考えているのですか……!」
ノエリアの声が震える。
同じ裁定者であるフィデリアなのに、ノエリアには彼女の考えがわからなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
石舞台を包む空気は、先ほどまでの熱とは異なる緊張に満ちていた。
白灰色の祭壇。
青白く脈打つ紋様。
その中央で、ノエリアだけが静かに立っている。
足元には、首へ魔糸を食い込ませたまま絶命したマリス。
見開かれた瞳には、最期まで理解できなかった恐怖だけが残されていた。
「……そんな」
セラフィナの声が震える。
理知的で感情を抑えてきた彼女でさえ、目の前の現実をすぐには受け止められなかった。
つい先ほどまで策を語り、勝利を疑わなかったマリスが、自らの手で自らを殺したのだ。
エリオスは無言だった。
ただ倒れたマリスを見下ろし、その双眸だけが刃のように細められている。
「説明してもらおうか、ノエリア」
低く抑えた声。
激情を押し殺した者の声音だった。
ノエリアはマリスの傍らへ歩み寄ると、そっとその瞼を閉じさせた。
死者への慈悲にも見えたし、敗者への区切りにも見えた。
「“巡礼の儀”は、虚偽は通じません」
その言葉に、セラフィナがはっと顔を上げる。
「虚偽……?」
「選定者に同意するとは、口先で認めることではありません」
ノエリアの声は静かで、どこまでも澄んでいた。
「選定者を見て、知って、なお共に進むと決めた魂の在り方が問われるのです」
セラフィナの胸が冷えた。
同意とは契約ではない。
忠誠でも命令でもない。
心の最奥にある、偽れぬ選択。
熱風が石舞台を吹き抜ける。
マリスの長い白髪が、力なく揺れた。
「彼は、あなたの理想に同意したのではありません」
ノエリアはエリオスを見据える。
「勝者に乗り、自らも高みに立つ未来に同意していただけです」
セラフィナは唇を強く結んだ。
否定したかった。
だが思い返せば、マリスの言葉には常に損得があった。
忠義を語りながら、自分の利益を量っていた。
「……では、彼は試されたのですね」
「はい」
ノエリアは頷く。
「真実を見せられ、それでもなお“同意するか”を問われた」
「問われたのです」
「自分自身を」
静寂が落ちる。
エリオスが一歩、前へ出た。
その足音だけが妙に重く響いた。
「つまり、私の側近は相応しくなかったと」
ノエリアは答えない。
沈黙そのものが答えだった。
「……私には、相応しい者が必要だ」
その声に、部下を失った悲しみはなかった。
あったとしても、便利な駒を失った程度の痛み。
セラフィナの肩がわずかに震える。
その揺らぎを、ノエリアは見逃さなかった。
「まだ分からないのですか、偽りの”選定者”」
初めて、彼女の声音に冷たい怒気が宿る。
「この儀は、あなたに力を授けるためのものではありません」
エリオスの眉がぴくりと動いた。
「私が、この世界の召喚に応じたのは――」
ノエリアの赤い衣が、風に翻る。
「“選定”を行うためではありません」
祭壇の紋様が強く明滅する。
「選定を止めるためです!」
その宣言は雷鳴のように荒野へ響いた。
セラフィナが息を呑む。
エリオスの瞳に、初めて明確な困惑が走った。
勇者として選ばれるために歩んできた男にとって、それは世界そのものからの否定に等しい。
ノエリアはまっすぐ彼を見つめる。
「あなた方は勘違いしている」
「”選定者”は世界を作る存在ではありません」
「”選定者”は…」
禁則が阻み、ノエリアはそれ以上、声を出さない。
裁定者ノエリアと選定の終わりが始まる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




