譲れないものがある
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
洞窟の奥で、水滴が静かに落ちる音だけが響いていた。
湿った岩肌に寄りかかるレックスの顔色は、まだ青い。
胸元には、応急処置の布と乾いた血痕。
それでも瞳には、いつもの優しさが残っていた。
「……ここは?」
レックスは自分がどこにいるのかわからず、目だけで周囲を観察する。
すると、見知ったものを見て、安堵を覚える。
「ああ、やっと起きたか」
岩壁にもたれ、腕を組んでいたガロードが牙を見せて笑う。
その隣には、背筋を伸ばしたまま立つアウラの姿があった。
「……ずいぶん久しぶりじゃないか、兄貴」
「ずいぶんと、ゆっくり寝てたじゃねぇか」
「そうだね」
「さっさと起きればいいんだよ」
ガロードの軽口だった。
ほぼ死にかけのレックスが回復したことに対する、声音の奥に安堵が混じっている。
「兄貴が、僕を助けてくれたのか?」
「いや。お前を拾って、応急処置してくれたのはアウラさんだ」
ガロードが親指で示した瞬間、頭上から拳骨が落ちた。
「目上の者を指差すなと、以前教えたはずですが」
「いっ……覚えてねえよ!」
「今、覚えなさい」
容赦のない一撃。
だがそのやり取りに、洞窟の空気が少しだけ和らいだ。
レックスは薄く笑い、それから真顔になる。
「助けてくれて……ありがとうございます」
「あなたが、とっさに回復魔法を使い、致命を凌いだ結果です」
アウラの返答は簡潔だった。
レックスは胸に手を当てる。
刻印魔法の熱は、ほとんど残っていない。
治癒を無理やり発動し、命だけを繋いだ。
あと少し遅ければ終わっていた。
「礼には及びません。ノエリア様の願いです」
だが、その指先はわずかに震えていた。
「ところで、あの獣の咆哮……兄貴だったんだね」
「まあな。森で暴れてた魔物ども片づけてたら、血の匂いがしてよ」
ガロードの目が細くなる。
「嫌な予感がした。そしたら、お前が転がってた」
「そうか……」
短い返事に、レックスは視線を落とした。
背中を刺された感触。
シンの怒声。
倒れていたルーナ。
思い返すだけで、胸が重くなる。
「ノエリアは?」
その問いに、空気が止まった。
アウラは答えない。
ただ拳を強く握りしめる。
爪が掌に食い込み、赤い雫が床へ落ちた。
「……やるべきことがある、と」
低く、押し殺した声だった。
「ノエリア様は『蒼天盟約軍』に残られました」
「それって……捕まったってことじゃねえのか」
ガロードの言葉は荒い。
だが、核心だった。
アウラの瞳が揺れる。
「……私は、止められませんでした」
その一言だけで十分だった。
無敵に見えた女が、自分を責めている。
「アウラさん」
レックスが呼ぶと、彼女は背を向けた。
「ノエリア様の願いは叶えました」
「ですから、迎えに行きます」
声は静かだった。
だが、怒りと決意が刃のように研ぎ澄まされている。
「一人で?」
「当然です。これは私の失態ですから」
「待てよ」
ガロードが立ち上がる。
「俺も行く。ノエリアを泣かせた連中、ぶん殴らねえと気が済まねえ」
「相手は勇者です」
「知るか。俺は将来、魔王になる男だぞ」
胸を張る姿に、アウラは初めて小さく息を漏らした。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
二人の視線が、最後にレックスへ向く。
「お前はどうする?」
ガロードの試すような目。
レックスは答えられなかった。
助けたい。
ノエリアを放ってはおけない。
けれど、向こうにはシンがいる。
ルーナもいる。
彼らは敵ではない。
守ろうとしているだけだ。
なら、自分が向かう先はどこなのか。
正しい側とは、誰なのか。
沈黙の中、レックスは震える拳を見つめた。
その手は、人を守るためのものだ。
誰かを殴り倒すためではない。
それでも――守るために、戦わなければならない時がある。
「……僕は」
迷いの言葉は、そこで止まる。
レックスの心に迷いが生じていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……これは、正しいことなのかな」
洞窟の天井から落ちる雫が、静かな音を立てた。
湿った岩肌に揺れる焚き火の明かりが、レックスの横顔を照らす。
包帯の下では、まだ傷口が熱を持って脈打っていた。
背中を刺された痛み。
シンの怒声。
倒れたルーナ。
そして、ノエリアが残した決意。
どれも胸の中で絡まり、簡単な答えを拒んでいた。
「難しく考えすぎだ、お前は」
岩壁にもたれていたガロードが鼻を鳴らす。
「助けたい奴がいる」
「なら助けに行く」
「それだけだろ」
腕を組み、苛立ったように尻尾を揺らした。
「でも、兄貴」
レックスは視線を落とす。
「相手はシン君たちだ。あの人たちも、誰かを守ろうとしてる」
「知るか!」
即答だった。
「守ろうとしてるから、何しても許されんのか?」
琥珀の瞳が細くなる。
獣が獲物を見る時のような鋭さだった。
「あいつらはレックスを殺しかけた」
「ノエリアを連れていった」
「俺の気に入ってる連中を傷つけた」
「それで十分、ぶん殴る理由になる」
乱暴な理屈だった。
けれど、迷いが一切ない。
レックスは思わず苦笑する。
「兄貴らしいよ」
「褒めても何も出ねえ」
「褒めてないよ」
短いやり取りに、空気が少しだけ緩む。
その直後だった。
ガァンッ――!
鋭い衝撃音が洞窟内に響く。
視線を向ければ、アウラの鉄球が岩壁を砕いていた。
砕けた石片が足元へ転がる。
アウラは片膝をついたまま、鎖を強く握っている。
「……私が、お側を離れた」
低い声だった。
「私が命令を拒み、無理にでもお守りしていれば……ノエリア様は奪われなかった」
普段、微塵も隙を見せない女傑の肩が揺れている。
怒りではない。
悔恨だった。
その姿に、レックスは胸を突かれる。
自分も同じ顔を、何度してきただろう。
守れなかった時。
届かなかった時。
遅かった時。
「違います」
レックスは立ち上がる。
傷が軋み、膝が震える。
それでも一歩、アウラへ近づいた。
「ノエリアは、自分で決めたんです」
「誰かに従わされたんじゃない」
「ですが――」
「だからこそ、迎えに行かなきゃいけない」
アウラが顔を上げる。
赤い瞳には、迷いが残っていた。
けれど、その奥には折れない芯があった。
「僕は勇者じゃない」
「正義が何かなんて分からない」
「誰が正しくて、誰が間違ってるのかも決められない」
拳を握る。
「でも」
声は静かだった。
「誰かが苦しんでるのに、見捨てるのは違うって分かる」
「ノエリアにも、分かってほしいんだ」
「一人で背負わなくていいって」
「助けてって言っていいって」
焚き火が、小さく爆ぜた。
沈黙のあと、ガロードが立ち上がる。
「ようやく腹くくったか」
拳を鳴らし、牙を見せて笑う。
「王国だろうが勇者だろうが関係ねえ」
「ノエリアが拒否してもは取り返す」
「あいつの居場所は、そこじゃねぇ」
アウラもゆっくりと立ち上がった。
いつもの無表情。
だが、その瞳だけが熱を宿している。
「承知しました」
「ノエリア様奪還を最優先とします」
二人の視線が、レックスへ向く。
洞窟の外では、夜明け前の風が唸っていた。
その先に、勇者たちがいる。
悪人ではない者たち。
守ろうとしている者たち。
それでも、譲れないものがある。
レックスは背負っていた棍棒を握り直した。
「行こう」
その声に、もう震えはなかった。
正しさを決めるためじゃない。
誰かを敵にするためでもない。
ただ――誰も失いたくなかった。
選びたくない結末を、拒むために。
三人は洞窟を出る。
東の空が、わずかに白み始めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




