勇者への拒絶
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
勇者エリオスは、セラフィナを伴ってノエリアのもとを訪れていた。
石造りの塔の一室。
高窓から差し込む午後の光が、床に細い格子を描いている。
部屋には贅沢な調度もある。
食事も不足していない。
だが、それは厚遇ではなく、檻の中の待遇だった。
窓辺に立つノエリアは、足音だけで誰が来たのか悟ったように振り返る。
「また、来たのですね」
声は静かだった。
怒りも怯えもない。
その落ち着きが、かえってエリオスの胸を刺した。
「彼女を使えば、私の力を自由に引き出せるのでしょう」
ノエリアはセラフィナへ一瞬だけ視線を向ける。
「今さら、何を言いに来たのですか」
エリオスは数歩進み、ノエリアへ手を差し出した。
白く整った手だった。
多くを救い、多くを斬ってきた勇者の手。
「あなたにも、ご自身の使命を理解していただきたい」
「私と共に来てください」
「世界は変えるために、共に」
その言葉には熱があった。
だが同時に、縋るような響きも混じっていた。
ノエリアはまっすぐ彼を見る。
「何度問われても答えは同じです」
「私の“選定者”ではないあなたに、私自身が手を貸すことはありません」
きっぱりと断たれた瞬間。
エリオスの瞳が揺れた。
「……なぜだ」
次の瞬間、感情が噴き出した。
「なぜ、私を受け入れてくれない!」
激昂したエリオスが歩み寄り、ノエリアの両肩を掴む。
細い身体が揺れる。
セラフィナが息を呑んだ。
「エリオス様……!」
だが、ノエリアは目を逸らさない。
冷ややかな眼差しのまま、告げた。
「あなたが、私の“選定者”ではないからです」
その声に重なるように。
エリオスの脳裏へ、知らぬはずの記憶が走る。
――あなたは違う。
――私が想う人は、あなたではない。
炎。
泣き声。
血に濡れた手。
誰かの背中。
頭を殴られたような痛みに、エリオスは息を詰まらせた。
「……何だ……これは……」
ノエリアは肩を掴まれたまま、蔑むように見つめ返す。
「何度問われても同じです」
「私は、あなたを選ばない」
「もし私が選べるのだとしても――なおさら」
「なぜだ!」
エリオスは叫ぶ。
「なぜ選ばない!」
「私は誰よりも救ってきた! 誰よりも人々を救おうとしてきた! 事実、救ってきた!」
「誰よりも!」
声が震えていた。
怒りではない。
理解されない子どものような、痛みだった。
――それなのに、どうしてだ。
――なぜ選ばれない。
――“あいつ”は彼女に選ばれたのに。
――自分の方が、遥かに優れていたはずなのに。
自分が何に苛立っているのか。
何を失ったのか。
何を取り戻そうとしているのか。
エリオス自身、分からなかった。
「…あの男か…」
唇が歪む。
「レックスという男なのか」
「姫巫女が、勇者でもない人間を愛しているとでも言うのか!」
ノエリアは静かに首を横へ振る。
否定だった。
だが、それはエリオスを慰める否定ではない。
もっと別の場所に答えがあると告げる、残酷な否定だった。
エリオスの顔から力が抜ける。
「……救えなかったんだ……」
掠れた声が零れる。
「一人も……」
「だから力を求めた」
「だから間違っているはずがない……!」
「力を身に着け、人を救済することに間違いはない!」
誰へ向けた言葉か、もう分からない。
ノエリアへか。
世界へか。
それとも、自分自身へか。
長い沈黙のあと、エリオスは背を向けた。
「……いずれ、わかっていただく」
その歩みは、初めて見るほど頼りなかった。
よろめくように扉へ向かい、そのまま部屋を出ていく。
扉が閉じる。
残された静寂の中で、セラフィナの頬を一筋の涙が伝った。
エリオスは気づけない。
彼女には、彼の苦しみが痛いほど分かった。
勇者である彼が、拒まれ、傷つき、崩れていく姿など。
見たくは、なかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
石造りの廊下を、シンはふらつくように歩いていた。
足音だけが、静かな夜に乾いて響く。
何を考えているのか、自分でも分からない。
ただ胸の奥に、重たい泥のような感情だけが沈んでいた。
「やらないといけない……」
掠れた声が零れる。
その言葉が何を意味しているのか。
シン自身、きっと整理できていなかった。
気づけば、ノエリアに割り当てられた部屋の前へ立っていた。
扉をノックする。
返事はない。
一瞬だけ迷い、それでもシンは静かに扉を開けた。
「……失礼します」
室内には小さな灯りだけが灯っていた。
ノエリアは一人、椅子に座っている。
背筋を伸ばし、微動だにせず。
まるで精巧な人形のようだった。
白い横顔には疲労が滲んでいる。
だが、それ以上に感情そのものが削ぎ落とされているように見えた。
「……姫巫女様」
シンの喉が震える。
腰に提げていた人造聖剣を外すと、そのままゴミのように無造作に床へ投げ捨てた。
鈍い音が響く。
続けて、シンは勢いよく床へ額を擦りつけた。
「……俺は、死にかけているレックスを見捨てました」
懺悔するような声を出し、震える手で短剣を差し出す。
「……言い訳はしません」
「……悪いのは俺です。しかも一方的にです」
「……貴方に殺されてもかまわない」
声が掠れる。
「……だけど、ルーナや他の人達は関係ないんだ」
「……どうか、俺の命だけで……」
顔を上げられなかった。
ノエリアにとって、レックスは大切な存在だ。
シンはその相手を見捨てた。
しかもシンの一方的な誤解で。
見捨てたうえで、生き延びた。
許される理由など、一つもない。
「待って、シン!」
慌ただしく扉が開かれる。
入ってきたのはルーナだった。
シンの様子がおかしいと感じ、後を追ってきたらしい。
「ルーナ、黙っていてくれ」
シンは振り返らない。
ただ、裁きを待っていた。
ノエリアは静かに立ち上がる。
足音が近づく。
一歩、また一歩。
その気配だけで、シンは奇妙な安堵を覚えた。
(……これで、終われる)
許されるとは思っていない。
だが、罰を受ければ少しは楽になれる。
そう考えてしまった。
だからこそ。
次に聞こえた言葉は、シンの希望を無惨に踏み砕いた。
「貴方を殺させて、彼女に私を殺す理由を作るつもりですか?」
「……えっ?」
シンが顔を上げる。
ルーナは息を呑んでいた。
気づけば、腰の剣の柄へ手をかけている。
もしノエリアがシンへ危害を加えれば。
反射的にでも剣を抜いていた。
その事実に、シンの表情が凍る。
「私の手を、そんな汚れた血で汚すことに意味があると考えているのですか?」
ノエリアの瞳は冷え切っていた。
怒りとも違う。
もっと深く、温度そのものを失ったような冷たさだった。
「レックスの命の価値が、あなたの命などと釣り合うとでも判断したのですか?」
その言葉は鋭かった。
刃で刺されるより深く、胸の奥へ突き刺さる。
「ち、違う……俺は……」
声が続かない。
シンは再び項垂れた。
「罪を償う覚悟なら、私にすがり楽になろうとするなど傲慢も甚だしい」
静かな声だった。
だからこそ逃げ場がない。
「その流した血の罪に値する何かを成し遂げ、それから死になさい」
ノエリアの瞳から感情は消えていた。
赦しもない。
怒声もない。
ただ、突き放すような現実だけがあった。
「ルーナさん、彼を連れて行ってください」
ルーナも硬直していた。
何かを言おうとして、結局言葉にならない。
やがて小さく唇を噛み、シンの腕を掴む。
「……行こう」
シンは抵抗しなかった。
床に捨てられた聖剣だけが、冷たい音を立てて転がる。
その音を最後に、二人は静かに部屋を後にした。
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