シンの迷い
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬車は夜道を軋みながら進んでいた。
乾いた車輪の音が、一定の間隔で響く。
その音だけが、重苦しい沈黙を刻んでいる。
吊るされた小さな灯火が揺れ、狭い車内を頼りなく照らしていた。
薄明かりの先。
簡素な寝台には、ルーナが横たわっている。
呼吸は穏やかだった。
胸も規則正しく上下している。
傷も、すでに回復魔法で塞がれていた。
命に別状はない。
それだけを見れば、“守れた”はずだった。
「……俺は」
掠れた声が、シンの喉から零れる。
守った。
そう言い切れれば、どれほど楽だっただろう。
だが違う。
ルーナが生きている理由は、自分の剣ではない。
脳裏に焼きついて離れない。
レックス。
本気で敵なら、ルーナを殺せた。
シンを倒すこともできた。
あの間合い。
あの技量。
本当に殺す気なら、自分は今ここにいない。
それでも、レックスは斬らなかった。
敵の命を救った。
敵の仲間まで守った。
「なんでだよ……」
握った拳が震える。
「なんで、あいつがそんなことできるんだ……!」
怒りではない。
認めたくない現実への戸惑いだった。
その瞬間。
脳裏に、古い記憶が蘇る。
焼けた家。
崩れた壁。
鼻を刺す血の臭い。
騎士だった父は、反乱者を討った。
だが首謀者だけは逃した。
その報復は、家族へ向けられた。
母と妹は呪いを受けた。
皮膚は裂け、牙が生え、目は濁る。
人の言葉を失い、獣のように父へ襲いかかった。
父は敵を斬り。
母と刺し違えて死んだ。
幼いシンの前に残されたのは、妹だけだった。
震える手でナイフを握った。
泣きながら振り下ろした先にあった、柔らかな肉の感触。
そして。
最期の一瞬だけ戻った、人の顔。
「……お兄ちゃん、たすけて……」
「……どうして、わたしを……」
妹の声は、今も耳から離れない。
だから決めた。
敵は残すな。
迷えば、大切なものが死ぬ。
だから先に斬る。
だから迷わない。
だから間違えない。
そう信じてきた。
「……シン」
かすかな声が、記憶を裂いた。
シンが顔を上げる。
寝台の上で、ルーナがゆっくり目を開けていた。
「よかった……生きてた」
弱々しい笑みだった。
「それはこっちの台詞だろ」
シンは顔を歪める。
「無茶すんなよ」
強がった声は、情けないほど震えていた。
ルーナは小さく笑い、それから首を傾げる。
「ねえ……私、“も”助けてもらったの?」
その一言で。
シンの心臓が、止まったような錯覚に陥る。
“も”。
気づいている。
自分以外の誰かが救ったことに。
「赤い髪の子……レックス、だよね」
「私、あの子に危ないところ助けてもらったから」
「ちゃんとお礼、言わなきゃ」
無邪気な言葉だった。
だからこそ、深く刺さる。
レックスは敵ではなかった。
敵になったのは、自分の方だ。
シンは、倒れたレックスを置いてきた。
助けてもらった相手を。
恩人を。
見捨てた。
「なんでだよ……なんで、俺はいつも……!」
膝が震える。
守るためだと信じた選択が。
誰かを踏みにじっていた。
勇者として人を守る。
その言葉に縋り。
敵と味方の線を引き。
考えることをやめていた。
シンは堪えきれず、ルーナを強く抱きしめた。
「ちょ、ちょっと……苦し……」
「……ごめん」
「でも、今だけ……」
腕は離れない。
震えているのが、自分でも分かった。
ルーナは何も責めなかった。
ただ静かに、シンの背へ手を回す。
まるで泣くことを許すように。
子どもをあやすように。
灯火が揺れる。
シンの瞳には、迷いと痛みが滲んでいた。
だが、その奥で。
今までとは違う問いが、確かに芽生えている。
正しい敵を斬ることより。
正しくない自分を、どう選び直すのか。
それこそが、今のシンへ突きつけられた戦いだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
蒼天盟約軍の本営には、重たい静寂が満ちていた。
砦の石造りの会議室。
厚い壁には王国全土の地図と戦況図が並び、卓上の魔導灯だけが青白い火を揺らしている。
その光の下に、人造勇者たちが集められていた。
勇者エリオス。
姫巫女セラフィナ。
軍師マリス。
勇者シン。
勇者ルーナ。
そして、副団長アルセイドとバルグロス。
「皆、よく集まってくれた」
上座に腰掛けたエリオスが穏やかに口を開く。
優しい声音だった。
だが、その場の誰もが理解していた。
この男は、既に“従わせる側”の声をしている。
蒼と金、異なる色の瞳が順番に一人ずつを見渡した。
「招集はかけたはずだが、カルド君は来ないのか」
「返答はありません」
マリスが書類を閉じながら淡々と答える。
「彼のことです。王都で遊興にでも耽っているのでしょう」
「そうですか」
エリオスは興味なさげに頷いた。
欠員すら問題にしていない。
最初から、必要最低限しか見ていない態度だった。
「それよりも、エリオス様」
一歩前へ出たのはアルセイドだった。
銀白の長髪を肩へ流し、黒い外套を纏った青年。
細身の体躯でありながら、蛇のような圧迫感を漂わせている。
「悲願であった聖剣解放、お祝い申し上げます」
「ああ、ありがとう」
エリオスは微笑む。
だが、その笑みに達成感はない。
「しかし、まだ足りない」
その一言で、室内の空気がさらに張りつめた。
シンは無意識に拳を握る。
胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいた。
「皆。次の目的を告げよう」
エリオスの視線を受け、マリスが前へ進み出る。
「王国保管庫の古記録を確認しました」
「伝説の姫巫女フィデリアに関する文献です」
地図の山岳地帯へ印が置かれる。
「“巡礼地点”と呼ばれる聖域にて儀式を行えば、勇者と聖剣は次の位階へ至る」
ざわめきが広がった。
ルーナが戸惑ったように眉を寄せる。
「まだ……強くなる必要があるんですか?」
「必要だ」
即答だった。
エリオスは迷わない。
「その力を得た後、私は王国の腐敗を正す」
シンが思わず声を上げた。
「待ってくれ!それって、王国と戦うってことですか!?」
「戦争ではない、シン」
マリスが薄く笑う。
「これは正しく革命と呼ぶ行為だ」
その言葉に、シンの背筋が冷えた。
アルセイドは静かに問い返す。
「つまり、エリオス様が王を超える存在となる、と」
「そうだ」
エリオスは立ち上がった。
白銀の鎧が魔導灯を反射し、まるで神像のように輝く。
「我々が救えなかった者たちを救うため、今の王国を掌握する」
誰かの息を呑む音がした。
「やがて魔王国も帝國も平定する」
空気の圧迫感するような緊張が室内を支配する。
「過去、誰も成しえなかった大陸統一を、勇者の名において私が果たす」
静かな宣言だった。
それなのに、誰よりも暴力的だった。
平和のために戦を起こす。
救済のために力で従わせる。
シンの脳裏に、ノエリアの言葉が蘇る。
――聖剣という力に頼らなければ、平和も勝ち取れないのですか。
以前なら、迷わず肯定していた。
だが今は違う。
その正しさを、信じ切れなかった。
隣ではルーナも不安げに視線を伏せている。
セラフィナは無言だった。
表情は消えているのに、指先だけが小さく震えていた。
そんな中、アルセイドだけが静かに膝をつく。
「私は従います」
「選ばれし者が、世界を導くべきだ」
それを合図に、巨体が椅子から立ち上がった。
バルグロスだった。
巨大な肩当てを備えた重装甲。
金属と獣皮を組み合わせた鎧の隙間から、岩のような筋肉が覗いている。
異様に太い両腕。
低い重心。
獲物を狙う猛獣のような眼光。
灰色混じりの荒れた金髪を揺らし、男は牙を見せるように笑った。
「俺も従うぜ」
短い言葉だった。
だがそこに迷いはない。
力ある者に従い、さらに強さを求める。
それだけだった。
ルーナは苦しげに頷く。
シンは視線を落とした。
胸の奥では警鐘が鳴り続けている。
それでも、ここで背を向ける決断はできなかった。
「……わかりました」
自分でも驚くほど小さな声だった。
その返答を聞き、エリオスは満足そうに笑う。
「最後に皆へ言っておこう」
「私が間違っていると思ったなら、いつでも正しに来るといい」
そして、静かに続けた。
「忠告するが――私を倒せると思った時にのみ決断して欲しい」
「私は君たちの敵になりたいわけではない」
誰も答えなかった。
沈黙だけが会議室に残る。
だが、その場にいた誰よりも。
シン自身が理解していた。
もう、自分は以前と同じようにはエリオスを見られない。
正義を信じて剣を握っていたはずなのに。
今は、勇者であるはずの背中が、今は遠く感じた。
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