セラフィナ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
揺れる馬車の中は、異様なほど静かだった。
車輪の軋む音と、馬の吐息だけが夜道に溶けていく。
その静寂の中心で、ノエリアは眠らされている。
白い指先は膝の上で力なく重なり、長い睫毛も動かない。
まるで精巧な人形だった。
その姿を見つめるセラフィナの瞳には、凍った炎が宿っていた。
「……理解できません」
声は小さい。
だが、押し殺した感情は深い。
「力を持ちながら、なぜ拒むのですか」
姫巫女。
勇者に力を授け、世界の均衡を保つ者。
それがノエリアのはずだった。
なのに彼女は、エリオスの手を取らない。
誰もが望む救済を認めようとしない。
その姿が、セラフィナには許せなかった。
「あなたは選ばれているのです」
震える声が漏れる。
「エリオス様に必要とされ、世界に求められている……それなのに、なぜ」
怒りだった。
嫉妬だった。
そして、自分には決して向けられなかったものへの渇望だった。
なぜ、自分ではないのか。
なぜ、必要とされるのは彼女なのか。
セラフィナは目を閉じた。
遠い昔の風景が、記憶の底から浮かび上がる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
魔王領との境にあった、小さな砦村。
荒野の風と鉄の匂いに満ちた場所で、エリオスは育った。
誰より強く。
誰より賢く。
誰より眩しかった。
少年でありながら、人々は彼に期待と希望の未来を見ていた。
そして、もう一人。
村人たちに愛された少女がいた。
柔らかな微笑み。
泣く子に寄り添い、傷ついた者に手を差し伸べる優しさ。
美しい歌声で、周囲の人々を和ませた。
その少女の名もまた、セラフィナだった。
今の彼女とは違う。
よく笑い、よく泣き、誰かの幸せを願える普通の娘。
エリオスは彼女を愛していた。
誰もが似合いの二人だと思い、疑わなかった。
だがセラフィナが想いを寄せたのは、別の少年だった。
強くもない。
賢くもない。
けれど誰かの痛みに迷わず飛び込める、不器用な少年。
セラフィナの愛は、その少年だけに向いていた。
やがて、セラフィナの微笑みは、少年の傍で最上のものになった。
完璧なエリオスは、そこで初めて敗れた。
才能でも力でもない、彼の価値観では理解できないものに敗北感を覚えた。
やがて悲劇は訪れる。
魔物の群れが村を襲った。
炎が夜を呑み、人々の叫びが空を裂く。
少年は少女を庇い、胸を裂かれて倒れた。
駆けつけたエリオスが見たのは、血に染まる二人だった。
少女もまた、致命傷を負っていた。
少年と少女はお互いが離れぬように手の指を絡め、その命を終わらせていた。
「……嫌だ」
膝をつき、崩れ落ちるエリオス。
世界を救う器と称えられた少年が、ただ一人の少女すら救えなかった。
その絶望の中で。
誰かが、泣き崩れる彼を抱きしめた。
死にゆく少女の身体。
燃え盛る炎。
狂った願い。
そこから先の記憶は、曖昧に塗り潰されている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……私は、あなたを壊したくなかった」
馬車の中で、セラフィナは自らの胸に手を当てた。
本当の名は、もう思い出せない。
本当の人生も、どこかへ消えた。
ただ覚えているのは、その後エリオスが告げた言葉だけ。
「神の声が聞こえた」
「僕は世界を救済するため、勇者にならなければならない」
ならば、自分もまた決めた。
彼を勇者にする存在になろうと。
彼が失った少女の名を継ぎ。
彼が求める姫巫女に近づき。
自分という人間を削り落としてでも。
「私は、生まれ変わったのです」
忠誠を尽くすために。
愛を告げぬために。
隣に立ちながら、永遠に選ばれなくても構わないように。
眠るノエリアの頬に、指先が触れる。
「あなたはずるい方です」
その声は初めて、年相応の女のものだった。
「何も望まぬ顔をして、すべてを持っている」
その時。
閉じられていたノエリアの唇が、わずかに動いた。
「……違います」
セラフィナが息を呑む。
眠っているはずの姫巫女は、目を閉じたまま囁いた。
「あなたは……誰かの代わりではない」
凍りついた馬車の空気が、音もなく軋んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「何が違うというの!」
張りつめていた馬車の空気が、鋭く裂けた。
セラフィナの声は初めて乱れていた。
冷静さを纏い続けた女の仮面に、深い亀裂が走る。
「エリオス様は苦しんでこられました」
「世界に期待され、世界に縛られ、それでも誰より正しく在ろうとした」
震える指先が、眠るノエリアの肩を掴む。
「私は、その姿をずっと見てきたのです!」
「傷つく姿など、もう見たくない……!」
その叫びには怒気よりも、祈りに近い痛みがあった。
セラフィナの幸福は単純だった。
他の勇者たちと共にエリオスを支え、役目を果たすこと。
自分は彼の剣でいい。
盾でいい。
手足でいい。
そう思い込むことでしか、この胸の熱を飼い慣らせなかった。
ノエリアは拘束されたまま、静かに目を向ける。
「貴方の愛は、おそらく純粋なものでしょう」
その口元に浮かんだのは、なぜか自嘲に似た微笑だった。
「貴方が、私に愛を語る資格はないと思うのも……無理はありません」
セラフィナの肩が揺れる。
見透かされた。
そう感じた瞬間だった。
「ですが、あの青年が私に向けているものは、貴方の望むような愛ではありません」
ノエリアの声は静かだった。
残酷なほど静かだった。
「あの青年が望んでいるのは、“私”ではない。“選定の力”です」
勇者が世界を救うために必要な鍵。
姫巫女という機能。
それを恋慕と呼ぶなら、あまりに空しい。
セラフィナの唇がわななく。
否定したいのに、否定できない。
彼が見ているのは、いつも先だった。
理想。救済。選ばれし未来。
そこに、自分個人の居場所はなかった。
(もし……)
ノエリアの瞳が、遠くを見た。
(もし、あの赤髪の少年が“選定の力”を望んだなら)
レックスの面影が胸をよぎる。
優しく、不器用で、誰かのために傷つける少年。
(私は、その先が”救済”でないことを知っていても……与えてしまうのでしょうか)
小さく、涙が零れた。
(たとえ、彼の心に既に別の誰かが住んでいたとしても)
続けて口にした言葉は、セラフィナへの言葉であり。
同時に、自分自身への断罪だった。
「……かわいそうな人」
ぽつりと落ちた声。
「誰かの願いで作られて。誰かの願いだけを、自分の願いだと思い込んでしまった」
「黙りなさい……!」
セラフィナの叫びが室内を震わせた。
赤い瞳に涙が滲む。
ノエリアは、かつての自分だった。
愛されたいと願いながら、選ばれない者。
役目を与えられ、その役目に縋るしかなかった者。
やっと手に入れたと思っていた。
エリオスの隣という場所を。
だが勇者にとって最も必要なのは、姫巫女だった。
だから声に従った。
神の囁きだと信じた。
自らを削り、作り変え、人造姫巫女となった。
彼の夢を叶えれば。
彼の救世が成れば。
いつか振り向いてもらえると信じて。
「私は……間違っていない」
誰に向けた言葉でもなく、セラフィナは呟く。
「私は、エリオス様のために生きた」
その言葉は誓いではなかった。
崩れ落ちそうな心を繋ぎ止める、最後の鎖だった。
ノエリアは涙を拭わず、ただ静かに告げる。
「愛は、人を救うという一面を私は否定しません」
「けれど、行き場を失えば――狂気にもなるのです」
セラフィナの瞳から、初めて一筋の涙が落ちた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




