ノエリアの言葉
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜の戦場は、もはや秩序という言葉を失っていた。
燃え上がる補給馬車。
横倒しになった荷台。
怯えて暴れる軍馬。
負傷兵の呻き声。
そのすべてに、小鬼たちの甲高い咆哮が重なり、混乱は渦のように広がっていく。
「ここは退くのが正解なんだろうけど……!」
レックスは棍棒を横薙ぎに振り抜いた。
飛びかかった小鬼の胴がねじれ、地面へ転がる。
だが、一体倒しても次が来る。
まるで波だった。
退却を指示する者はいない。
勇者ルーナの姿は炎の向こう。
位置も、生死も分からない。
このままでは各所で孤立し、順に食い破られていく。
「最悪だ……!」
吐き捨てた直後。
――ドォンッ!
空気が砕けたような衝撃音が響いた。
レックスの前方に群がっていた小鬼たちが、一斉に宙へ跳ね上がる。
骨も肉も潰れ、血煙となって散った。
その中心に立っていたのは、一人の女だった。
黒髪のメイド服。
裾だけが静かに揺れている。
両手には、鎖鉄球付きのフレイル。
「……アウラさん」
「ノエリア様に危害が及ぶ可能性がある以上、静観はできません」
声は穏やかだった。
だが、その鉄球は違う。
右手の一振りで三体まとめて吹き飛ばし、左の鎖が蛇のように伸びて、遠くの弓持ちの頭蓋を砕く。
返ってきた鉄球を掴む所作すら、美しい。
「ノエリア様のご命令です。あのルーナという娘を助けに行きなさい」
「え、でも――」
「私が、この程度に遅れを取るとでも?」
視線だけが向けられる。
圧力だった。
「……それは、全然思ってません」
本音だった。
この人は強い。
しかも、理屈を超えている。
「でも、なんでノエリアがルーナさんを?」
「すべてはノエリア様の御心のままに」
「だから答えになってない……」
普段は話が通じるのに、ノエリア関連になると急に信者じみる。
その時、遠くから鋭い金属音が響いた。
続いて、ルーナの怒声。
明らかに追い込まれている。
「レックス」
「はい」
「判断が遅いです」
「はい」
「ノエリア様のご厚意を無駄にしています」
「はい、すみません」
謝っている間にも、アウラは止まらない。
飛来した火矢を鉄球でまとめて叩き落とし、突進してきた群れへ鎖を絡め、そのまま数体まとめて引き裂く。
返り血一つ浴びない。
「それに、この程度の数であれば……少し本気を出せば終わります」
アウラの気配が変わった。
重心が落ちる。
次の瞬間、二つの鉄球が同時に射出された。
轟音。
一直線に走った破壊の軌道上で、小鬼たちが次々と砕け、吹き飛ぶ。
敵陣の中央に、血と肉で舗装された一本道が生まれた。
レックスは顔を引きつらせた。
「少し本気って何……」
「お姉さんからの親切です」
低い声だった。
「さっさと走りなさい」
振り返ると、アウラはすでに次の群れへ踏み込んでいた。
近づいた小鬼の首を蹴りで折り、空中へ投げた鉄球を鎖ごと引き戻して別の群れへ叩き込み、さらに懐から抜いた”くない”で喉元を裂く。
一連の動きに、迷いがない。
まるで戦場そのものを掃除しているかのようだった。
本能だけで暴れていた小鬼たちが、明らかに怯み始める。
迷っている時間はない。
レックスは棍棒を握り直し、開かれた血路へ駆け出した。
炎の向こう。
ルーナがいるはずの場所へ。
背後では、鉄と骨の砕ける音が絶え間なく続く。
一人で戦線を支える砦。
それがアウラだった。
だが前方では、さらに濃い煙が立ち昇っている。
誰かが意図的に火を回している。
これは偶然の暴走ではない。
分断は、まだ終わっていなかった。
レックスは夜の闇を睨み、速度を上げる。
この戦場には――人の悪意が潜んでいる。
そう確信しながら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「このっ!」
ルーナの剣が火花を散らした。
相手は、ただの小鬼ではない。
通常種より頭二つは大きい異形。
筋肉で膨れ上がった腕。前屈みの巨体。鉄板を継ぎ合わせただけの粗雑な鎧。そして人間から奪ったのであろう大鉈や鉄槌を握りしめている。
――戦鬼。
小鬼の上位種。
群れの中でも、戦闘に特化した個体だった。
本来なら、一対一でルーナが後れを取る相手ではない。
だが、今は四体。
しかも周囲では荷車が燃え、煙が立ち込め、足元には瓦礫が散っている。
最悪の戦場だった。
「なんなのよ、今日は……!」
息を荒げながら斬り結ぶ。
人造聖剣の刀身は、すでに輝きを失っていた。
蓄積魔力核の残りは二本。
腰にある。
だが交換する一瞬の隙すら、敵は与えてくれない。
戦鬼の大鉈が唸りを上げた。
ルーナは身をひねってかわし、返す刃で胴を薙ぐ。
硬い手応え。
鎧の表面を裂いただけで、深くは届かない。
「っ、硬っ……!」
魔力を通した斬撃なら断てる。
だが今の剣は、ただ鋭い金属に過ぎない。
左右から同時に迫る巨腕。
受ける。
衝撃が腕を痺れさせた。
そこへ三体目の鉄槌が横薙ぎに振るわれる。
避けきれず、剣で受けた瞬間――
「きゃっ!」
人造聖剣が手から弾き飛ばされた。
銀の刀身が地面を滑り、炎の向こうへ消える。
呼吸が止まる。
戦鬼たちの口元が、粘つくように歪んだ。
「グル……ゲヘヘ……!」
人の言葉にならない嗤い。
包囲が狭まっていく。
ルーナは震える手で、腰の予備ナイフを抜いた。
短い。
軽い。
この怪物たちを相手にするには、あまりにも頼りない。
膝が笑う。
足が動かない。
恐怖が、ようやく現実として胸へ落ちてきた。
死ぬ。
その直前に浮かんだ顔は、勇者エリオスではなかった。
いつも隣で、口うるさくて。
腹が立つのに、なぜか安心できる少年。
「……た、助けて! シ――」
声が震える。
その場にへたり込み、立てなくなる。
戦鬼の大鉈が高く振り上げられた。
終わる。
そう思った、その時だった。
炎の幕を裂いて、一つの影が飛び込んできた。
ゴッ――!
鈍い音が響く。
先頭の戦鬼の頭部が、熟れた果実のように潰れた。
巨体が横倒しになる。
「……シン君じゃなくて……」
呆然と漏れた声に、返事はない。
代わりに棍棒がうなりを上げた。
返す一撃で二体目の膝を砕き、崩れたところへ追撃。
脚があり得ない方向へ折れ曲がる。
「なんか、だいぶゴメン!」
場違いなくらい軽い声だった。
だが、動きは鋭い。
三体目の大鉈を紙一重でかわし、柄を踏み台にして懐へ潜り込む。
顎へ肘打ち。
戦鬼の牙が数本飛んだ。
「でも、間に合って良かった」
レックスだった。
煤で汚れた顔。
荒い呼吸。
それでも、目だけは異様に冷静だった。
残る二体が怒号を上げて襲いかかる。
レックスは半歩下がり、ルーナの前へ立つ。
棍棒を肩に担ぎ直した。
「立てますか」
短い問い。
ルーナは答えられなかった。
悔しいのに、少し泣きそうだった。
情けなさと安堵が一気に押し寄せ、喉が詰まる。
代わりに、小さく頷く。
レックスはそれだけで十分だと言うように前を向いた。
炎が揺れる。
戦鬼が唸る。
その背中は、勇者でも英雄でもない。
けれど今この瞬間。
ルーナには、誰より頼もしく見えた。
そして胸の奥で、別の感情が小さく芽吹く。
助けを求めた名と。
助けに来た現実が違ったことを、まだ整理できないままに。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
炎の熱気が、夜気を押し返していた。
倒れ伏した戦鬼の血が地面を濡らし、焦げた草の匂いが鼻を刺す。
だが、レックスに安堵する余裕はなかった。
目の前には、なお一体の戦鬼が立っている。
肩幅は人の倍。荒い息を吐き、濁った眼で獲物を睨み据えていた。
その背後では、膝をついたルーナが落とした聖剣へ手を伸ばしている。
今の彼女に武器はない。
ここを抜かれれば終わる。
「……なら、守ってる場合じゃない」
小さく呟き、レックスは前へ出た。
戦鬼が吠える。
鉄槌が頭上から振り下ろされた。
まともに受ければ、骨ごと潰れる一撃。
だがレックスは受けない。
身体をわずかに傾け、紙一重で軌道から外れる。
風圧が頬を裂いた。
同時に、戦鬼の巨体が前のめりになる。
重い武器ゆえの隙だった。
レックスは崩れた姿勢のまま腰を捻り、地を蹴る。
棍棒が真下から跳ね上がった。
顎を砕き、そのまま頭部へ叩き込む。
鈍い音。
戦鬼の上半身がのけぞった。
だが、倒れない。
次の瞬間、横合いから別の戦鬼が突っ込んできた。
大鉈が閃く。
避けきれない。
レックスは咄嗟に身を投げ出し、地面を転がった。
土と血にまみれながら、何度も転がる。
その後を、戦鬼が嗤いながら追ってくる。
巨体の足音が迫る。
まるで虫でも弄ぶような残酷さだった。
「ゲェ……ハハ……!」
振り上げられる鉄槌。
その瞬間だった。
「――よくも、やってくれたわね」
澄んだ声が、背後から響く。
戦鬼の動きが止まる。
振り返った先にいたのは、ルーナだった。
右手には人造聖剣。
左手には、新たに装填した蓄積魔力核。
刀身には、再び風のような緑光が走っている。
戦鬼の喉が引きつった。
本能が理解したのだ。
さきほどまで丸腰だった少女が、今は最も危険な存在だと。
慌てて武器を捨て、両手を上げる。
命乞いにも似た仕草。
ルーナは冷ややかに笑った。
「馬鹿ね。許すわけないでしょ」
剣閃が走る。
風が鳴った。
一拍遅れて、戦鬼の胴体が斜めに滑り落ちる。
断面から血が噴き出し、巨体が崩れた。
残る一体も逃げようと背を向ける。
だが、そこへレックスの棍棒が飛ぶ。
後頭部へ直撃。
前のめりに倒れたところへ、ルーナの追撃が叩き込まれた。
静寂が戻る。
荒い呼吸だけが、二人の間に残った。
レックスは地面に座り込み、苦笑する。
「……ありがとうございます」
「何言ってるのよ」
ルーナも肩で息をしながら、鼻を鳴らした。
「あなたがわざと注意を引いたから、剣を拾えたんでしょ」
「わざと、というか……必死でしたけど」
「同じことよ」
そう言って笑う。
だが、その笑みはすぐ消えた。
遠くで悲鳴が上がったからだ。
炎はさらに広がっている。
補給馬車が次々と燃え、黒煙が夜空を覆っていた。
ただの魔物の群れには、ありえないものだった。
「……やっぱり、何かおかしい」
ルーナも剣を握り直す。
「なら、ここからが本番ね」
束の間の勝利だった。
この戦場の惨劇は、まだ始まったばかりだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




