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勇者は神になれない  作者: ふたり旅団
ノエリア編
56/130

ノエリアの言葉

◇ ◇ ◇ ◇ ◇



夜の戦場は、もはや秩序という言葉を失っていた。


燃え上がる補給馬車。


横倒しになった荷台。


怯えて暴れる軍馬。


負傷兵の呻き声。


そのすべてに、小鬼たちの甲高い咆哮が重なり、混乱は渦のように広がっていく。


「ここは退くのが正解なんだろうけど……!」


レックスは棍棒を横薙ぎに振り抜いた。


飛びかかった小鬼の胴がねじれ、地面へ転がる。


だが、一体倒しても次が来る。


まるで波だった。


退却を指示する者はいない。


勇者ルーナの姿は炎の向こう。


位置も、生死も分からない。


このままでは各所で孤立し、順に食い破られていく。


「最悪だ……!」


吐き捨てた直後。


――ドォンッ!


空気が砕けたような衝撃音が響いた。


レックスの前方に群がっていた小鬼たちが、一斉に宙へ跳ね上がる。


骨も肉も潰れ、血煙となって散った。


その中心に立っていたのは、一人の女だった。


黒髪のメイド服。


裾だけが静かに揺れている。


両手には、鎖鉄球付きのフレイル。


「……アウラさん」


「ノエリア様に危害が及ぶ可能性がある以上、静観はできません」


声は穏やかだった。


だが、その鉄球は違う。


右手の一振りで三体まとめて吹き飛ばし、左の鎖が蛇のように伸びて、遠くの弓持ちの頭蓋を砕く。


返ってきた鉄球を掴む所作すら、美しい。


「ノエリア様のご命令です。あのルーナという娘を助けに行きなさい」


「え、でも――」


「私が、この程度に遅れを取るとでも?」


視線だけが向けられる。


圧力だった。


「……それは、全然思ってません」


本音だった。


この人は強い。


しかも、理屈を超えている。


「でも、なんでノエリアがルーナさんを?」


「すべてはノエリア様の御心のままに」


「だから答えになってない……」


普段は話が通じるのに、ノエリア関連になると急に信者じみる。


その時、遠くから鋭い金属音が響いた。


続いて、ルーナの怒声。


明らかに追い込まれている。


「レックス」


「はい」


「判断が遅いです」


「はい」


「ノエリア様のご厚意を無駄にしています」


「はい、すみません」


謝っている間にも、アウラは止まらない。


飛来した火矢を鉄球でまとめて叩き落とし、突進してきた群れへ鎖を絡め、そのまま数体まとめて引き裂く。


返り血一つ浴びない。


「それに、この程度の数であれば……少し本気を出せば終わります」


アウラの気配が変わった。


重心が落ちる。


次の瞬間、二つの鉄球が同時に射出された。


轟音。


一直線に走った破壊の軌道上で、小鬼たちが次々と砕け、吹き飛ぶ。


敵陣の中央に、血と肉で舗装された一本道が生まれた。


レックスは顔を引きつらせた。


「少し本気って何……」


「お姉さんからの親切です」


低い声だった。


「さっさと走りなさい」


振り返ると、アウラはすでに次の群れへ踏み込んでいた。


近づいた小鬼の首を蹴りで折り、空中へ投げた鉄球を鎖ごと引き戻して別の群れへ叩き込み、さらに懐から抜いた”くない”で喉元を裂く。


一連の動きに、迷いがない。


まるで戦場そのものを掃除しているかのようだった。


本能だけで暴れていた小鬼たちが、明らかに怯み始める。


迷っている時間はない。


レックスは棍棒を握り直し、開かれた血路へ駆け出した。


炎の向こう。


ルーナがいるはずの場所へ。


背後では、鉄と骨の砕ける音が絶え間なく続く。


一人で戦線を支える砦。


それがアウラだった。


だが前方では、さらに濃い煙が立ち昇っている。


誰かが意図的に火を回している。


これは偶然の暴走ではない。


分断は、まだ終わっていなかった。


レックスは夜の闇を睨み、速度を上げる。


この戦場には――人の悪意が潜んでいる。


そう確信しながら。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「このっ!」


ルーナの剣が火花を散らした。


相手は、ただの小鬼ではない。


通常種より頭二つは大きい異形。


筋肉で膨れ上がった腕。前屈みの巨体。鉄板を継ぎ合わせただけの粗雑な鎧。そして人間から奪ったのであろう大鉈や鉄槌を握りしめている。


――戦鬼。


小鬼の上位種。


群れの中でも、戦闘に特化した個体だった。


本来なら、一対一でルーナが後れを取る相手ではない。


だが、今は四体。


しかも周囲では荷車が燃え、煙が立ち込め、足元には瓦礫が散っている。


最悪の戦場だった。


「なんなのよ、今日は……!」


息を荒げながら斬り結ぶ。


人造聖剣の刀身は、すでに輝きを失っていた。


蓄積魔力核の残りは二本。


腰にある。


だが交換する一瞬の隙すら、敵は与えてくれない。


戦鬼の大鉈が唸りを上げた。


ルーナは身をひねってかわし、返す刃で胴を薙ぐ。


硬い手応え。


鎧の表面を裂いただけで、深くは届かない。


「っ、硬っ……!」


魔力を通した斬撃なら断てる。


だが今の剣は、ただ鋭い金属に過ぎない。


左右から同時に迫る巨腕。


受ける。


衝撃が腕を痺れさせた。


そこへ三体目の鉄槌が横薙ぎに振るわれる。


避けきれず、剣で受けた瞬間――


「きゃっ!」


人造聖剣が手から弾き飛ばされた。


銀の刀身が地面を滑り、炎の向こうへ消える。


呼吸が止まる。


戦鬼たちの口元が、粘つくように歪んだ。


「グル……ゲヘヘ……!」


人の言葉にならない嗤い。


包囲が狭まっていく。


ルーナは震える手で、腰の予備ナイフを抜いた。


短い。


軽い。


この怪物たちを相手にするには、あまりにも頼りない。


膝が笑う。


足が動かない。


恐怖が、ようやく現実として胸へ落ちてきた。


死ぬ。


その直前に浮かんだ顔は、勇者エリオスではなかった。


いつも隣で、口うるさくて。


腹が立つのに、なぜか安心できる少年。


「……た、助けて! シ――」


声が震える。


その場にへたり込み、立てなくなる。


戦鬼の大鉈が高く振り上げられた。


終わる。


そう思った、その時だった。


炎の幕を裂いて、一つの影が飛び込んできた。


ゴッ――!


鈍い音が響く。


先頭の戦鬼の頭部が、熟れた果実のように潰れた。


巨体が横倒しになる。


「……シン君じゃなくて……」


呆然と漏れた声に、返事はない。


代わりに棍棒がうなりを上げた。


返す一撃で二体目の膝を砕き、崩れたところへ追撃。


脚があり得ない方向へ折れ曲がる。


「なんか、だいぶゴメン!」


場違いなくらい軽い声だった。


だが、動きは鋭い。


三体目の大鉈を紙一重でかわし、柄を踏み台にして懐へ潜り込む。


顎へ肘打ち。


戦鬼の牙が数本飛んだ。


「でも、間に合って良かった」


レックスだった。


煤で汚れた顔。


荒い呼吸。


それでも、目だけは異様に冷静だった。


残る二体が怒号を上げて襲いかかる。


レックスは半歩下がり、ルーナの前へ立つ。


棍棒を肩に担ぎ直した。


「立てますか」


短い問い。


ルーナは答えられなかった。


悔しいのに、少し泣きそうだった。


情けなさと安堵が一気に押し寄せ、喉が詰まる。


代わりに、小さく頷く。


レックスはそれだけで十分だと言うように前を向いた。


炎が揺れる。


戦鬼が唸る。


その背中は、勇者でも英雄でもない。


けれど今この瞬間。


ルーナには、誰より頼もしく見えた。


そして胸の奥で、別の感情が小さく芽吹く。


助けを求めた名と。


助けに来た現実が違ったことを、まだ整理できないままに。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



炎の熱気が、夜気を押し返していた。


倒れ伏した戦鬼の血が地面を濡らし、焦げた草の匂いが鼻を刺す。


だが、レックスに安堵する余裕はなかった。


目の前には、なお一体の戦鬼が立っている。


肩幅は人の倍。荒い息を吐き、濁った眼で獲物を睨み据えていた。


その背後では、膝をついたルーナが落とした聖剣へ手を伸ばしている。


今の彼女に武器はない。


ここを抜かれれば終わる。


「……なら、守ってる場合じゃない」


小さく呟き、レックスは前へ出た。


戦鬼が吠える。


鉄槌が頭上から振り下ろされた。


まともに受ければ、骨ごと潰れる一撃。


だがレックスは受けない。


身体をわずかに傾け、紙一重で軌道から外れる。


風圧が頬を裂いた。


同時に、戦鬼の巨体が前のめりになる。


重い武器ゆえの隙だった。


レックスは崩れた姿勢のまま腰を捻り、地を蹴る。


棍棒が真下から跳ね上がった。


顎を砕き、そのまま頭部へ叩き込む。


鈍い音。


戦鬼の上半身がのけぞった。


だが、倒れない。


次の瞬間、横合いから別の戦鬼が突っ込んできた。


大鉈が閃く。


避けきれない。


レックスは咄嗟に身を投げ出し、地面を転がった。


土と血にまみれながら、何度も転がる。


その後を、戦鬼が嗤いながら追ってくる。


巨体の足音が迫る。


まるで虫でも弄ぶような残酷さだった。


「ゲェ……ハハ……!」


振り上げられる鉄槌。


その瞬間だった。


「――よくも、やってくれたわね」


澄んだ声が、背後から響く。


戦鬼の動きが止まる。


振り返った先にいたのは、ルーナだった。


右手には人造聖剣。


左手には、新たに装填した蓄積魔力核。


刀身には、再び風のような緑光が走っている。


戦鬼の喉が引きつった。


本能が理解したのだ。


さきほどまで丸腰だった少女が、今は最も危険な存在だと。


慌てて武器を捨て、両手を上げる。


命乞いにも似た仕草。


ルーナは冷ややかに笑った。


「馬鹿ね。許すわけないでしょ」


剣閃が走る。


風が鳴った。


一拍遅れて、戦鬼の胴体が斜めに滑り落ちる。


断面から血が噴き出し、巨体が崩れた。


残る一体も逃げようと背を向ける。


だが、そこへレックスの棍棒が飛ぶ。


後頭部へ直撃。


前のめりに倒れたところへ、ルーナの追撃が叩き込まれた。


静寂が戻る。


荒い呼吸だけが、二人の間に残った。


レックスは地面に座り込み、苦笑する。


「……ありがとうございます」


「何言ってるのよ」


ルーナも肩で息をしながら、鼻を鳴らした。


「あなたがわざと注意を引いたから、剣を拾えたんでしょ」


「わざと、というか……必死でしたけど」


「同じことよ」


そう言って笑う。


だが、その笑みはすぐ消えた。


遠くで悲鳴が上がったからだ。


炎はさらに広がっている。


補給馬車が次々と燃え、黒煙が夜空を覆っていた。


ただの魔物の群れには、ありえないものだった。


「……やっぱり、何かおかしい」


ルーナも剣を握り直す。


「なら、ここからが本番ね」


束の間の勝利だった。


この戦場の惨劇は、まだ始まったばかりだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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