“平和”のため
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
考えるより先に、身体が動いていた。
ゴッ――!!
鈍く重い衝突音。
一体の小鬼の頭蓋が、棍棒の一撃で陥没する。
レックスはそのまま踏み込み、避難民の前へ滑り込んだ。
「下がって!」
悲鳴を上げていた兵站員たちが、慌てて後退する。
同時に、小鬼が三方向から飛びかかってきた。
だが。
レックスの紅い瞳は、すでにその先を見ていた。
(見える)
周囲の音が遠のく。
風が遅くなる。
小鬼の腕の軌道。
踏み込み。
次に動く個体。
全部が、異様なほど鮮明に見えた。
極限まで集中した時だけ訪れる感覚。
小鬼の歩幅の距離がわかる。
小鬼がどの順番でこちらの間合いに入るのか読める。
小鬼の呼吸音すら聞こえるような気がする。
(順番を間違えるな)
最小動作。
最短距離。
次の攻撃へ繋げるためだけの一撃。
棍棒が唸る。
小鬼の膝を砕き。
顎を打ち抜き。
振り向きざまに側頭部を潰す。
まるで吸い寄せられるように急所だけが破壊されていった。
「ルーナさん!」
三体目の爪を紙一重でかわしながら叫ぶ。
「こっちは僕が抑える!君は数を減らして!」
ルーナが目を見開いた。
頼りなさそうな少年。
そんな印象だった。
だが今、最前線で敵の流れを制御している。
次にどこから襲われるか分かっているかのような動きだった。
「……言われなくても!」
ルーナの剣が再び輝く。
「烈風刃!」
風刃が群れを薙ぎ払う。
肉片と血飛沫が宙を舞った。
だが。
まだ終わらない。
揺れる草原の奥。
さらに新しい影が現れる。
レックスの顔から余裕が消えた。
(数が多すぎる)
自然発生じゃない。
偶然でもない。
これは明らかに“誘導”されている。
エリオス率いる主力を前線へ向かわせ。
手薄になった後方だけを襲撃する。
まるで。
最初から蒼天盟約軍を分断するために組まれていたような動き。
脳裏に、昨夜の声が蘇る。
――蒼天盟約軍は、信用してはいけません。
ノエリアの警告。
だが、レックスには理解できない。
ルーナもいる。
シンもいる。
少なくとも、全員が裏切っているようには見えなかった。
(まさか……ルーナさんたちまで犠牲にするつもりなのか?)
その時だった。
レックスの瞳が、小鬼の後方を捉える。
「……っ!?」
弓。
粗末だが、確かに武器を持っていた。
しかも。
矢の先端へ、別の小鬼が松明で火をつけている。
レックスの背筋が凍った。
「ルーナさん!火矢だ!」
直後。
無数の火矢が空を裂いた。
炎の雨。
一直線ではない。
避難民。
荷車。
補給物資。
燃えやすい場所を狙って放たれていた。
「味方ごと焼く気!?」
ルーナが叫ぶ。
風魔法で火矢を散らす。
だが数が多すぎる。
小鬼。
火矢。
避難民。
全部を同時に守るには、処理が追いつかない。
その瞬間。
横転していた荷車へ火矢が突き刺さった。
爆炎。
積まれていた油樽が破裂する。
轟音とともに火柱が噴き上がった。
「しまっ――!」
レックスが叫ぶ。
だが遅い。
炎が壁のように広がる。
熱風。
黒煙。
戦場が真っ二つに断ち切られた。
炎の向こう側にはルーナ。
こちら側にはレックスと避難民。
完全な分断。
そして。
その瞬間を待っていたかのように。
小鬼たちが一斉に嗤った。
ギャギャギャ――ッ!!
濁った哄笑。
獣のものではない。
明確な悪意を持った笑い声だった。
夜風が吹き抜ける。
血の匂いと、焦げた臭いを運びながら。
レックスは炎の向こうを睨みつけた。
――誰かが、この戦場を操っている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
丘の上から見下ろす戦場は、まるで燃える蟻塚だった。
乾いた夜風が草原を揺らし、火の粉を運ぶ。
赤い炎。
黒い煙。
悲鳴。
その混沌を見下ろしながら、カルド・ミレスは愉快そうに喉を鳴らした。
「くく……実に愉快な眺めだ」
細い指先で望遠鏡を弄ぶ。
視界の先では、蒼天盟約軍の後方部隊が崩れ始めていた。
横転した荷車。
逃げ惑う兵站要員。
火矢を浴び、燃え上がる天幕。
その中心で、赤い髪の少女だけが、なお剣を振るい続けている。
ルーナだった。
「まだ倒れんか」
「しぶとい女だ」
カルドは肩を揺らして笑う。
人造聖剣の光が、夜闇を裂く。
風刃が小鬼を吹き飛ばし、真空斬撃が群れを両断する。
だが、それでも数が減らない。
魔物たちは、まるで誰かの意志で動いているかのように、絶え間なく押し寄せていた。
「“魔蓄積核”にも限界はある」
カルドが呟く。
「勇者だろうが、魔力が尽きれば終わりだ」
隣に立つ男は、何も笑わなかった。
蒼天盟約軍軍師――マリス。
痩せた長身を外套に包み、静かな目で戦場を観察している。
「騒ぐな、カルド」
低い声だった。
「耳障りだ」
カルドの笑みがわずかに引きつる。
だが反論はしない。
この男には、妙な迫力があった。
剣士でもない。
魔法使いでもない。
それでも、敵を倒すことに関してだけは、誰より冷たい。
「今回の件は、勇者エリオス様へ報告する必要はない」
マリスが淡々と言う。
「……くく、理想家には刺激が強すぎるか?」
「必要ないと言っただけだ」
視線は戦場から動かない。
「民は危機を求める」
「危機?」
「英雄を輝かせる舞台だ」
マリスの声には感情がなかった。
「脅威が大きいほど、人は勇者に縋る」
「涙を流し、金を払い、兵を差し出す」
「蒼天盟約軍は、さらに大きくなる」
カルドは愉快そうに笑う。
「そのためにルーナを餌にしたわけか」
「彼女は最適解だ」
即答だった。
「若い」
「強い」
「美しい」
「死ねば、“殉教の勇者”として最大の価値を生む」
丘の上を風が吹き抜ける。
あまりにも冷たい言葉だった。
そこには悪意すらない。
ただ効率だけがある。
戦争とは何か。
マリスにとって、その答えは単純だった。
敵を倒すこと。
そのために必要なら、味方も消費する。
敵より多く味方が残れば勝利。
それだけだ。
「気に入ったぞ、軍師殿」
カルドが笑う。
「俺は前から気に食わなかったんだ」
「勇者だの理想だの、綺麗事ばかり抜かしおって」
マリスは答えない。
代わりに、わずかに視線を細めた。
「……あれは何だ」
カルドが望遠鏡を覗いたまま眉をひそめる。
炎の向こう。
一人の少年が、小鬼の群れを押し留めていた。
黒い棍棒。
細い身体。
だが、その動きだけが異様だった。
「勇者でもない雑魚が、妙に粘るな」
レックスだった。
小鬼の爪を紙一重でかわし、反撃の一撃だけで頭蓋を砕く。
最小限。
だが確実。
まるで敵の動きを先に知っているような戦い方だった。
「殺しておくか?」
カルドが楽しそうに言う。
しかしマリスは首を横に振った。
「盤上の駒は、動きを見てから価値を決める」
冷え切った声だった。
その瞬間。
丘の下で爆炎が上がる。
火矢が荷車へ直撃したのだ。
轟音。
炎の壁。
分断される戦場。
ルーナと、避難民側のレックス。
完全に切り離された。
カルドが口角を吊り上げる。
「始まったな」
マリスは静かに戦場を見下ろす。
丘の下では、誰かを守るために命を懸ける者たちがいる。
丘の上では、その命を数字として数える者たちがいる。
どちらも、“平和”のためだった。
同じ言葉を掲げながら。
その意味だけが、決定的に違っていた。
そして――。
戦場の本当の地獄は、まだ始まってすらいなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




