それぞれの正義
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
蒼天盟約軍の砦。
夜の帳は、すでに石造りの城壁を包み込んでいた。
会議室に並ぶ燭台の火が、ゆらゆらと揺れる。
長い円卓。
その中央に座る銀髪の青年――エリオスは、静かに目を閉じていた。
「姫巫女ノエリア様は、まだ協力に同意してはくれないのですか」
責める響きはない。
だが、その静けさが逆に場を張り詰めさせていた。
「すいません、エリオス様」
シンが頭を下げる。
黒髪が揺れた。
「ですが、姫巫女様の協力は得られます」
「エリオス様、私もそう思います」
ルーナも続く。
赤い髪が、燭台の火を受けて揺らめいた。
「もう少し時間をください。必ず――」
「エリオス様の理想に、応えさせます」
エリオスは頬杖をつき、二人を見る。
「……時間、ですか」
穏やかな声。
しかし、その一言だけで、空気が重くなる。
「甘い考えですよ、エリオス様」
低く湿った声が、会議室に落ちた。
円卓の末席。
そこに座っていた男が立ち上がる。
カルド・ミレス。
痩せた顔に貼り付けた笑みが、不快な粘つきを持っていた。
シンは眉を寄せる。
(カルド・ミレス……)
「エリオス様。ご理解されていると思われますが、我々には悠長にしている時間はありません」
カルドは誰に許可を得るでもなく、中央へ歩み出る。
靴音だけが響いた。
「無礼な発言はおやめなさい、カルド・ミレス」
セラフィナの冷えた声。
カルドの肩が一瞬跳ねる。
だが、すぐに芝居じみた笑みを浮かべた。
「これは失礼いたしました、セラフィナ様」
恭しく一礼する。
その動作に敬意は感じられない。
「ですが、私が言っていることも事実です」
カルドは再びエリオスを見る。
「救済が必要なのは、もちろん私も賛同しています」
「ですが我々には、“美酒”も必要なのですよ」
その瞬間。
空気が変わった。
美酒。
それが何を意味するのか、この場にいる誰もが理解していた。
勝利。
喝采。
英雄譚。
人々が酔いしれる“希望”そのもの。
「理想だけでは、人はついてこない」
カルドは肩をすくめる。
「空腹を満たすにも、復興するにも、金がいる」
「兵も必要だ。補給も必要だ」
「民は“勝っている側”に群がるものですよ」
その声には、嫌になるほど現実が混じっていた。
「その全てを集められる存在こそ、“勇者”なんです」
「腕っぷしだけではない。力とは、全てを動かしてこそ価値がある」
シンは歯を食いしばる。
気に入らない。
だが、否定しきれない。
実際、蒼天盟約軍に人が集まるのは、勝ち続けているからだ。
民は理想だけでは動かない。
「犠牲を嫌っていては、何も救えませんよ」
カルドの笑みが深くなる。
「多少の切り捨ては必要です」
「全員を救うなど幻想――」
「そこまでだ、カルド」
静かな声だった。
だが、その一言だけでカルドの言葉が止まる。
エリオスだった。
「し、しかし、エリオス様」
「それは今までの勇者の話です」
蒼と金の瞳。
異なる色の眼差しが、カルドを真っ直ぐ貫いた。
「君にとって、私はその程度の存在ですか?」
圧力。
声を荒げてもいない。
それなのに、カルドの喉が引きつる。
「そ、それは……」
「君が貴族経由で資金を引き出していることは評価しています」
「は、はい……!」
「ですが」
エリオスは薄く笑う。
「私が、そのような行為を好まないことは理解していただきたい」
カルドの顔が青ざめた。
「……申し訳、ありません」
会議室が静まり返る。
シンは胸の奥の息を吐いた。
(やっぱり……)
エリオスは違う。
犠牲を当然とは言わない。
力を持ちながら、それでも理想を捨てない。
(この人なら)
(本当に世界を変えられるかもしれない)
そう思ってしまう。
だからこそ。
ノエリアの言葉が、胸の奥で消えなかった。
『選ばれた者が救うという物語』
『それに依存すれば、人は自ら考えなくなります』
シンは無意識に拳を握る。
分からない。
何が正しいのか。
ただ一つだけ確かなのは。
自分は、もう二度と失いたくないということだけだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
会議が終わった後も、石造りの廊下には重苦しい空気が残っていた。
カルド・ミレスは早足で自室へ戻る。
乱暴に扉を閉めた瞬間、舌打ちが漏れた。
「犠牲を嫌っていて、これ以上何が手に入るものか」
吐き捨てる。
テーブルの上に置かれていた酒瓶を掴み、そのまま喉へ流し込んだ。
苦味が広がる。
だが、苛立ちは消えない。
「エリオスの奴……甘すぎるんだよ」
窓の外を睨む。
夜の王都。
灯りが星のように広がっていた。
(だが……利用価値はある)
“聖剣”。
“勇者”。
その肩書きは、人を狂わせるほど価値があった。
蒼天盟約軍に参加してから、一族の態度は一変した。
今まで役立たずと蔑んでいた連中が、急に媚びを売ってくる。
酒。
金。
女。
地位。
今までカルドに見向きもしなかったものが、勝手に寄ってきた。
そして連中は求める。
もっと勝て、と。
もっと英雄になれ、と。
「満たさなきゃならねぇんだよ……」
カルドは親指の爪を噛む。
貴族どもは飢えている。
勝利という酒に。
勇者という幻想に。
だから用意してやらなければならない。
“美酒”を。
その時だった。
コンコン、と扉が鳴る。
「誰だ?」
「私ですよ」
落ち着いた声。
カルドは顔をしかめた。
「軍師殿か」
「失礼しますよ」
扉が開く。
入ってきた男は、白髪を後ろへ流した長髪の青年だった。
深紫のロングコート。
金の装飾が燭台の光を鈍く反射する。
細身の体。
だが、その目だけが異様だった。
黄土色の瞳。
人を見る目ではない。
値踏みする商人の目。
あるいは、盤上の駒を眺める棋士の目だった。
マリス。
蒼天盟約軍の軍師。
自らの知略を売り込み、エリオスの側近に入り込んだ男。
「何の用だ?」
「なかなかの演説だったよ。私も、ある意味では同意見だ」
「おお、マリス卿もそう考えるか?」
カルドの口元が歪む。
「“美酒”という表現は悪くない」
「ははっ、そうか!」
途端に機嫌を直す。
単純な男だ、とマリスは内心で嗤った。
だが表情には出さない。
「ただ」
マリスはゆっくり歩きながら続けた。
「演出としては、もう一手必要だと思ってね。助言しに来た」
「助言だと?」
カルドの眉が吊り上がる。
「俺の意見に文句があるってのか」
詰め寄る。
だがマリスは動じない。
「そなたの理想通りにするには、“ドラマ性”が足りないのだよ」
「ドラマ性?」
「人は勝利だけでは酔えん」
マリスはテーブルの酒瓶を手に取る。
「勝利には“感情”が必要だ」
「勿体つけずに言えよ」
「ああ」
マリスは人差し指を立てた。
「必要なのは――悲劇だ」
「……悲劇?」
カルドの顔が歪む。
彼が好むのは華やかさだ。
喝采。
羨望。
きらびやかな栄光。
悲劇など陰気なものは好みではない。
そもそも今までだって、勇者は悲劇を救ってきた。
今さら弱い。
そう感じた。
だが。
「そなたが考えているものとは違う」
マリスは笑う。
細い目が、蛇のように歪んだ。
「仲間の“悲劇”だ」
「なっ……」
カルドが目を見開く。
「それはやりすぎじゃないのか!?」
思わず声が裏返った。
そんなカルドを見て、マリスは静かに酒をグラスへ注ぐ。
「今のエリオスは潔癖すぎる」
「民を導くには、“怒り”が必要なのだよ」
赤い酒が揺れる。
「仲間が傷つけられる」
「仲間が奪われる」
「だから戦う」
「だから滅ぼす」
「だから救済する」
マリスはグラスを持ち上げる。
「そうして初めて、人は勇者に熱狂する」
カルドの喉が鳴った。
嫌悪感。
だが同時に。
その光景を想像してしまう。
涙を流す民。
怒りに燃える勇者。
そして、その中心に立つ英雄。
「エリオスを“真の勇者”に導くのさ」
マリスは微笑む。
「それこそが、人々の求める“美酒”なのだから」
燭台の火が揺れた。
その影は、人の形をしていなかった。
蒼天盟約軍。
その内部で。
それぞれの“正義”が、静かに形を変え始めていた。
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