選定は既に始まっている
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜風が、静かに草原を揺らしていた。
村の外れ。
崩れた石壁の上に、シンは一人で座っている。
頭上には月。
白い光が、黒髪を淡く照らしていた。
遠くでは、見張りの焚火が小さく揺れている。
だが、シンの耳には何も入っていなかった。
脳裏に焼きついているのは、昼間のノエリアの言葉。
――あなたたちは、何を“守る”のですか。
「……分かってる」
低く呟く。
「あんたに言われなくても」
拳を握る。
守りたいものなんて、最初から決まっている。
自分と同じ思いを、誰にもさせないこと。
それだけだ。
シンはゆっくりと、自分の手を見る。
剣を握るための手。
守るための手。
そして――。
血に濡れた手。
不意に。
幼い声が耳の奥で蘇る。
――痛いよ、■■■■■。
「っ……!」
胃の奥が捻れる。
息が止まりそうになる。
視界が、一瞬だけ赤黒く染まった。
あの日。
焼け落ちた村。
腐臭。
叫び声。
そして。
自分へ手を伸ばしてきた、“■だったもの”。
「……やめろ」
掠れた声が漏れる。
だが記憶は止まらない。
泣きながら剣を振った。
震えながら。
吐きながら。
血の感触。
剣が肉を断つ音。
守れなかったから。
間に合わなかったから。
「……忘れてない」
シンは額を押さえる。
「俺は、忘れてないからな……」
力がなければ守れない。
綺麗事では止められない。
願いだけでは、人は死ぬ。
それを知っている。
だから。
ノエリアの言葉を、認めるわけにはいかなかった。
――勇者は幻想。
――人は依存しているだけ。
「そんなわけ、あるかよ……」
暗い感情が、胸の奥で渦巻く。
もし力を否定されたら。
自分が積み重ねてきたものは何になる。
失ったものは。
殺してきたものは。
全部、無意味だったと言われるようで。
その時だった。
背後に、気配。
シンの身体が反射的に動く。
剣の柄を掴み、一気に振り向く。
月光が刃を走る。
だが。
そこに立っていたのは、赤い髪の少女だった。
ルーナは驚いたように目を見開きながらも、同時に自分も剣へ手をかけていた。
数秒。
張り詰めた沈黙。
やがてシンが息を呑む。
「……ルーナ」
「また、怖い顔してたわよ、シン」
軽い口調だった。
だが、その目は笑っていない。
シンはゆっくり剣を下ろす。
「悪い」
掠れた声。
「俺、また……」
最後まで言えなかった。
自分でも分かっている。
最近、感情が抑えきれない。
怒り。
憎しみ。
焦燥。
少し気を抜けば、全部が溢れそうになる。
ルーナは小さく息を吐いた。
そして、不意にシンへ近づく。
「え――」
両手が伸びる。
そのまま、シンの頬を挟み込んだ。
逃がさないように。
強引に、自分の方を向かせる。
「大丈夫」
真っ直ぐな声。
「私は、ここにいる」
赤い瞳が、月光を映して揺れていた。
シンの呼吸が止まる。
「……ルーナ」
彼女は知っている。
シンが時々、壊れそうになることを。
復讐と正義の境界を見失いかけることを。
それでも。
ルーナは目を逸らさなかった。
「それにね」
ふっと笑う。
明るく。
けれど、どこか寂しげに。
「もしシンが暴走しても、大丈夫」
「その時は、私がシンを殺して止めてあげる」
冗談みたいな口調。
だが、その瞳は本気だった。
シンは目を見開く。
普通なら怒る言葉だ。
だが不思議と、胸の奥が静まっていく。
「だから」
ルーナは額を軽くぶつけるように近づけた。
「今度は、私たちが守りましょう」
“私たち”。
その言葉が、シンの中へゆっくり沈んでいく。
一人じゃない。
そう言われた気がした。
シンは目を閉じる。
そして、小さく頷く。
「……ああ」
「分かってる」
ようやく、瞳に光が戻る。
ルーナは安心したように微笑んだ。
その笑顔は、いつもの明るい彼女のものだった。
けれど。
彼女自身も理解している。
自分がシンへ向けている感情は、ただの仲間意識ではない。
放っておけない。
失いたくない。
壊れてほしくない。
だから、自分が繋ぎ止める。
それはきっと。
救済ではなく。
依存だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
月明かりが、村の屋根を白く照らしていた。
崩れかけた石壁。
静まり返った夜道。
遠くでは、見張りの兵士たちの足音だけが響いている。
その中で。
ノエリアは、窓辺に寄りかかるようにして外を見ていた。
風が長い蒼髪を揺らす。
隣には、レックスがいた。
少し離れた場所。
木箱の陰。
そこには、シンとルーナの姿がある。
二人は小さな声で何かを話していた。
「何の会話か分からないですが、良い雰囲気というのは、こういうことでしょうか?」
ノエリアが静かに呟く。
レックスは、じとっとした目を向けた。
「ノエリア。覗きはよくないし、お邪魔だと思うんだけど」
「そうなのですか?」
首を傾げる。
本気で分かっていない顔だった。
だが。
レックスは小さくため息をつく。
――嘘だ。
完全には分からなくても、ノエリアには聞こえている。
そのことを、レックスはもう知っていた。
人間離れした感覚。
遠くを見る瞳。
そして時折見せる、“何かを測るような視線”。
今もそうだった。
月光を受ける緑の瞳は、綺麗なのに冷たい。
まるで。
人を見ているのではなく、観察しているようだった。
「そういえば、レックス」
「なに、ノエリア?」
ノエリアが、すっと距離を詰める。
白い衣がふわりと揺れた。
「良い機会なので、私も男女のイチャイチャをしてみたいのですが?」
「…………は?」
間抜けな声が漏れた。
ノエリアは真顔だった。
冗談を言っている顔ではない。
「本気で言ってます?」
「はい。興味あります」
ぐい、とさらに近づく。
顔が近い。
近すぎる。
甘い花のような香りがふわりと漂い、レックスの思考が止まりかける。
「いや、えっと、そういうのは段階というか、心の準備というか――」
「では、まず何をすれば良いのでしょう」
「そんな真顔で聞かれても!」
レックスが慌てて後ずさる。
その瞬間だった。
二人の背後に、すっと影が差す。
「ノエリア様には、まだ早いかと思います」
低く、静かな声。
振り向かなくても分かる。
アウラだった。
いつの間に現れたのか。
黒髪の侍女は、無表情のまま立っている。
だが。
圧がすごい。
「レックスは、エルディナという方とそういう関係だと、ガロードから聞いています」
「ガロードぉぉぉ……!」
レックスが頭を抱える。
余計な情報を吹き込みやがって。
心の底からそう思った。
しかしノエリアは、少しだけ目を輝かせる。
「でしたら、ぜひレックスから直接教えていただかないと」
「何を!?」
「男女の距離感についてです」
「その言い方やめて! 誤解を招くから!」
レックスが必死に否定する。
一方アウラは、すっとノエリアの背後へ回った。
そして。
ひょい、と軽々抱え上げる。
「夜更かしは、お肌によくありません」
「むぅ……」
「今日はもう休みましょう」
「アウラ、離してください」
「却下です」
そのまま運ばれていく。
抵抗しているはずなのに、まったく迫力がない。
レックスは、その後ろ姿を見送りながら、深く息を吐いた。
「……助かった」
心の底からの本音だった。
だが。
運ばれながら。
ノエリアは、小さく呟く。
「良いではないですか。今だけは、好きにしても」
その声は、どこか寂しかった。
レックスの眉がわずかに寄る。
ノエリアは、夜空を見上げる。
月は静かだった。
変わらず。
何も語らない。
――選定は始まっている。
――たとえ自分が始めなくても、誰かが始めてしまった。
その言葉だけが、心の奥に沈む。
始まりがある以上。
終わりもある。
それは必然なのだ。
選ばれる者。
選ばれなかった者。
そして。
長い睫毛が伏せられる。
その横顔は、年相応の少女に見えた。
けれど。
終わりを知りながら、人の営みを眺めている存在。
そんな孤独が、そこにはあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




