彼女は見ている
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
村へ戻った頃には、空は薄く茜色に染まり始めていた。
討伐を終えた蒼天盟約軍に、村人たちは安堵の視線を向ける。
だが、その空気を切り裂くように、小さな足音が駆けてきた。
「勇者様っ!」
泥だらけの少年だった。
まだ十にも満たない。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、シンの服を掴む。
「来て……! お父さんが……!」
案内された先は、村外れの小屋だった。
中には、一人の男が倒れている。
血の臭いが濃い。
腹部を深く裂かれていた。
応急処置はされている。
だが、素人仕事だ。
布は赤黒く染まり、呼吸も弱い。
「お父さんは自警団で……!」
少年が泣きながら叫ぶ。
「勇者様たちが来る前に、怪物と戦って……!」
シンが息を呑む。
一目で分かった。
――遅い。
傷が深すぎる。
出血も多い。
助かる可能性は低い。
隣のルーナも、同じ顔をしていた。
「これ、飲ませてみる!」
ルーナが治癒薬を取り出す。
男の口へ流し込む。
だが。
透明な液体は、そのまま口端から零れ落ちた。
飲み込む力すら残っていない。
「くそっ……」
シンの眉が歪む。
苛立ちが滲む。
――なんで戦った。
脳裏に、そんな感情が浮かんだ。
――こうなるって、分かってただろ。
――弱いなら、戦うなよ。
そこまで考えた瞬間。
シンは、はっと顔を上げた。
自分の考えに、自分で傷ついたように。
「……違う」
小さく首を振る。
そんなことを言いたいわけじゃない。
守りたかったから戦ったんだ。
自分だって、そうだったはずなのに。
シンの視線が、ノエリアへ向く。
赤い衣。
静かな瞳。
“姫巫女”。
神の世界から来た存在。
ならば。
「あんたなら……救えるんじゃないのか」
願うような声だった。
だが。
ノエリアは静かに首を横に振る。
「私は、人を治癒する力を持っていません」
その言葉に、空気が止まる。
万能ではない。
奇跡ではない。
神ですらない。
ノエリアは、ゆっくり男の傍へ歩み寄った。
そして。
静かに頭を下げる。
「だから――治癒の力を持つ人にお願いします」
「アウラ。レックス。お願いします」
シンとルーナが目を見開く。
驚いていた。
神秘の象徴のような少女が、人へ頭を下げた。
迷いなく。
当然のように。
アウラは即座に動いた。
躊躇いがない。
黒いケースを開き、中から手術器具を取り出す。
銀色の刃が灯りを反射した。
「綺麗な布と、お湯を」
「できるだけ清潔な水も用意なさい」
母親らしき女性と少年が慌てて駆け出す。
一方。
レックスは動けなかった。
男の傷を見る。
深い。
酷い。
血も止まりきっていない。
――助かるのか、これ。
喉が乾く。
自分は万能じゃない。
奇跡を起こせるわけじゃない。
もし助けられなかったら。
もし、この人が死んだら。
彼らは、自分たちを恨むんじゃないか。
そんな弱さが胸を掠める。
こういう時、ガロードがいれば、躊躇わず行けというだろうが、今はいない。
自分で決めなければならない。
「レックス。お願い」
ノエリアの声だった。
静かで。
けれど、まっすぐな声。
レックスは目を閉じる。
迷いを振り払うように。
「……うん」
膝をつく。
震える手を、男へ向けた。
淡い光が溢れる。
治癒魔法。
傷口を塞ぎながら、命を繋ぎ止めるための光。
その横で、アウラが傷を縫合していく。
母親に布で血を押さえる。
縫合糸を通す。
無駄がない。
まるで長年、医療の現場にいたかのような手際だった。
シンとルーナは動けない。
何もできない。
ただ見ていることしかできなかった。
どれほど時間が経ったのか。
沈黙の中。
アウラが短く告げる。
「治癒薬」
ルーナが慌てて差し出す。
アウラは男の口を開かせ、無理やり流し込んだ。
ごくり、と。
小さく喉が動く。
その瞬間。
レックスの光が消えた。
魔力切れだった。
「はぁ……っ」
肩で息をする。
額から汗が落ちた。
「助かったの……?」
震える声。
アウラは手を止めず、静かに答える。
「一命は取り留めた」
その言葉に、少年が泣き崩れた。
母親も、その場で嗚咽を漏らす。
シンは黙っていた。
ルーナも、何も言えない。
ノエリアが二人を見る。
静かな瞳。
だが、その目は確かに問いかけていた。
――あなたたちは、何を“守る”のですか。
聖剣の力か。
人の力か。
あるいは――その両方か。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
村の空き家は、静かだった。
古びた木壁が夜風に軋む。
小さな窓から差し込む月明かりだけが、室内を淡く照らしていた。
レックスは粗末な寝台に横になり、天井を見上げている。
頭の奥では、昼間の光景が何度も繰り返されていた。
助かった男。
泣きながら頭を下げていた子供。
「ありがとう」という声。
確かに、救えた。
それは嬉しかった。
けれど同時に、胸の奥には重い感覚が残っている。
自分一人では、何もできなかった。
アウラの技術がなければ。
ノエリアが背中を押してくれなければ。
きっと、手が止まっていた。
そんな考えを振り払うように、レックスは小さく息を吐く。
その時だった。
こんこん、と控えめな音が響く。
「ノエリアです」
扉越しの声。
静かで、柔らかい。
「入ってもよろしいですか」
「ああ、いいよ」
扉が開く。
白い衣を纏った少女が、月明かりの中へ静かに入ってくる。
サファイアブルーの長い髪が、夜の光を溶かしたように揺れていた。
「今日は、ご協力ありがとうございました」
「いや、こっちこそ……」
レックスは苦笑する。
「僕、結構迷ってたから」
あの男を前にした瞬間。
助けられなかった時のことを考えてしまった。
期待されて。
失敗して。
恨まれる未来を、一瞬で想像してしまったのだ。
ノエリアが「お願い」と言ってくれなければ、動けていたか分からない。
だが。
目の前の少女は、そんなレックスを責めない。
ただ静かに微笑んでいる。
それだけで、少しだけ救われる気がした。
そして。
レックスは、ゆっくりと身体を起こす。
胸の奥に引っかかっていた疑問を、もう誤魔化せなかった。
「……君は」
喉が乾く。
それでも、言葉を続ける。
「僕の知ってるノエリアじゃない、よね」
沈黙。
月明かりが、静かに揺れる。
やがてノエリアは、小さく目を伏せた。
「私がノエリアであることに、変わりはありません」
否定ではない。
だが、肯定でもなかった。
レックスは眉を寄せる。
「レックスたちは、ノエリアが好きみたいだから、そうしてたつもりなのに」
「……いや」
思わず苦笑が漏れる。
「全然違うよ」
レックスたちの知るノエリアは、もっとぽわぽわしていた。
日向で眠る猫みたいに。
少し抜けていて。
放っておけなくて。
でも、今ここにいる彼女は違う。
静かすぎる。
冷たすぎる。
何かを“見定める側”の目だった。
「じゃあ、聞かせてほしい」
レックスは、まっすぐノエリアを見る。
「どうして、彼らを試すようなことをするんだ」
勇者。
蒼天盟約軍。
彼らは実際に人を救った。
シンの願いも、本物だ。
間違っているようには見えない。
ノエリアは静かに頷く。
「はい」
躊躇いのない返答。
「力は必要です」
「祈りだけでは現実は変わりません」
「願いだけでは、誰も救えない」
「それを否定するつもりはありません」
レックスはますます混乱する。
「じゃあ、何が問題なんだ」
その問いに。
ノエリアの空気が、わずかに変わった。
「不要なものが混じっています」
「不要なもの?」
静かな声が、答える。
「『勇者』」
「『姫巫女』」
「『聖剣』」
一つずつ、区切るように。
「それらは『選定の力』によって与えられる現象を、人が都合よく物語化した幻想です」
レックスの呼吸が止まる。
幻想。
その言葉は、あまりにも予想外だった。
「選ばれた者が世界を救う」
「その物語に依存すれば、人は考えることをやめます」
「自ら選択し、自ら責任を負うことを放棄する」
「それは尊厳の喪失です」
淡々としている。
だが、その言葉は鋭かった。
レックスは反論しようとして、止まる。
今日の子供の顔が浮かんだからだ。
勇者を信じていた。
希望に縋っていた。
それも間違いなのか。
その迷いを見透かしたように、ノエリアは続ける。
「間違いではありません」
「ですが、救ったのは“勇者”ではない」
「そこにいた人間です」
逃げ場のない言葉だった。
シンが戦った。
ルーナが剣を振るった。
アウラが治療した。
レックスが魔法を使った。
結果を生み出したのは、人間の行動だ。
「彼らは私を『姫巫女』と呼びます」
ノエリアが静かに言う。
「ですが私は、そのような存在ではありません」
そして。
月光の下で。
彼女は告げた。
「私は――」
レックスは、わけもわからず唾を飲み込む。
「――『裁定者』です」
空気が凍る。
「『選定』を持つ者が、その資格に値するかを見定める存在」
レックスは、息を呑む。
勇者。
聖剣。
姫巫女。
その全てを。
彼女は、“上から”見ている。
人を救うためではない。
人を裁くために。
その事実だけが、静かに胸へ沈んでいった。
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