決して許されるべきことではない
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ディグレイの眼が、ゆっくりと開いた。
先ほどまで狂気に染まっていた瞳。
だが今そこにあるのは、穏やかな光だった。
まるで。
長い悪夢から目覚めたような顔。
その眼差しが、ガロードへ向けられる。
「……ガロード」
小さく呟く。
そして。
静かに言った。
「オレの負けだ」
その言葉を聞いた瞬間。
ガロードの胸が、激しく揺れた。
「そんな言葉、なんの意味がある!」
叫び声が森に響く。
「これは勝ち負けじゃねぇだろ!」
目の前の男。
兄。
そして。
鏡に映った、もう一人の自分。
もし一歩間違えていたら。
自分もこうなっていたかもしれない。
「……俺は」
言葉が詰まる。
喉が焼けるように痛い。
「こんな終わり方、認めねぇ……!」
「ああ……」
ディグレイが小さく笑う。
「目が覚めた」
その顔は、どこか安堵しているようにも見えた。
ガロードの胸が、ほんのわずかに軽くなる。
「なら――まだ」
言いかける。
終わりじゃない。
やり直せる。
そう言おうとした。
その瞬間。
ディグレイの表情が変わった。
―― 本当に使えなかったな
声が響く。
頭の奥で。
嘲るような声。
―― 魔王よ ――
ディグレイの瞳が揺れる。
あの声だ。
ずっと聞いていた声。
―― だが後始末はつけてあげよう ――
冷たい声。
楽しんでいる声。
―― ついでにもう一匹の未来の魔王も始末しておこう ――
ディグレイの心臓が強く跳ねる。
―― 塵芥は片づけるべきだ ――
その瞬間。
体の奥で何かが暴れた。
魔力。
異常な膨張。
暴走。
「……っ!」
ディグレイの身体が震える。
血が逆流するような感覚。
骨が軋む。
仕掛けられていた。
最初から。
もし自分が負けた時のために。
爆発。
自爆。
すべてを巻き込む罠。
ガロード達は気づいていない。
当然だ。
聞こえていないのだから。
この声は。
自分にしか届かない。
「……おのれ」
ディグレイの歯が軋む。
怒りが、腹の底から湧き上がる。
だが。
その怒りすら。
あの“何か”は、楽しんでいる。
笑っている。
人の終わりを。
選択を。
すべてを嘲笑うように。
―― どうする? 魔王よ ――
―― 最後くらいは見せてみろ ――
ディグレイの拳が震える。
そして。
ゆっくりと、息を吐いた。
やるべきことは、もう分かっていた。
これ以上。
好きにさせるものか。
「……ガロード」
静かに呼ぶ。
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
「すまないが」
視線が移る。
アウラの腕の中。
妻の亡骸。
「妻の遺体を葬ってくれ」
優しい声だった。
「できれば……穏やかな場所で」
「妻は、素朴で、優しく」
「俺には、もったいない人だったんだ」
ガロードの胸が締め付けられる。
「……ああ」
掠れた声で応える。
それしか言えなかった。
そしてディグレイは、ガロードを見る。
真っ直ぐに。
「ガロード」
低く言った。
「お前は道を間違えても」
その瞳は、揺るがない。
「正しいと思う道を進め」
ガロードの呼吸が止まる。
言葉が、胸に深く沈む。
「そして」
ディグレイの表情が、僅かに歪んだ。
悔しさか。
怒りか。
それとも。
「奴らと関わるな」
ガロードの背筋が凍る。
奴ら。
その言葉の意味を。
もう、理解している。
「待て!」
ガロードが一歩踏み出す。
「まだ――」
止められる。
そう言いたかった。
だが。
ディグレイは、首を振った。
ほんの、わずかに。
そして。
次の瞬間。
ディグレイは走り出していた。
森の奥へ。
一直線に。
「なっ……!」
「何してんだよ!」
ガロードの叫びが響く。
「戻ってこい、ディグレイ!!」
その時だった。
ガロードの中で。
すべてが繋がる。
奴ら。
悪意。
そして。
今、起きている異常。
「まさか……自爆か……!」
駆け出そうとする。
だが。
「駄目です!」
ノエリアの声。
腕を掴まれる。
「行っては――」
強く。
離さない力。
その瞬間。
時間が止まったような感覚。
森の奥から。
眩い光が立ち上がった。
一本の光の柱。
空を裂くように。
次の瞬間。
轟音。
爆発。
世界が揺れる。
地面が震える。
衝撃が押し寄せる。
風が唸る。
木々が悲鳴を上げる。
そして。
すべてが、吹き飛ぶ。
ガロードの身体が揺れる。
それでも。
目を逸らさなかった。
最後まで。
見届けると、決めたから。
光が消える。
音が消える。
風が止まる。
残ったのは――
静寂。
ガロードは。
ただ。
そこに立っていた。
拳を握り締めたまま。
何も言えずに。
ただ。
森の奥を見つめながら。
茫然と。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
森は静まり返っていた。
さっきまで響いていた轟音も。
爆発の余波も。
もう何も残っていない。
ただ。
焦げた匂いだけが、風に混じって漂っていた。
「……」
ガロードは動けなかった。
森の奥。
ディグレイが消えた場所を、ただ見つめている。
足が動かない。
頭も働かない。
胸の奥に残っているのは、重たい何かだけだった。
握った拳に、力が入らない。
さっきまで確かにあった温度が。
もう、どこにもない。
その時。
後ろから足音が近づいてくる。
静かな足取り。
そして、隣に立つ気配。
「……」
ガロードは振り向かない。
誰が来たのか、分かっていた。
「ディグレイは罪を犯しました」
アウラの声だった。
落ち着いた声。
だが、その言葉には一切の迷いがない。
「それは決して許されるべきことではない」
静かに。
だが、はっきりと言い切る。
ガロードは黙って聞いていた。
アウラは少しだけ視線を森の奥へ向ける。
そして続けた。
「ですが」
声が少し柔らぐ。
「そんな彼の、人としての最期に残った尊厳を」
ガロードの方を見て。
「貴方は救いました」
風が吹く。
木々が揺れる。
ガロードの脳裏に、最後の光景が浮かぶ。
あの時。
ディグレイが見せた顔。
復讐に狂った魔王ではない。
憎しみに染まった男でもない。
ただ。
一人の人間だった。
弟を守ろうとした。
兄の顔だった。
「……」
ガロードの拳が震える。
爪が掌に食い込む。
「……それでも」
掠れた声が漏れる。
「それでも、オレは……」
喉が詰まる。
胸の奥が焼けるように痛い。
それでも。
どうしても、言わずにはいられなかった。
「……力があれば」
ガロードは俯いたまま呟く。
「すべて救えるって……思ってたんだ」
息が震える。
「強くなれば」
「誰も死ななくて済むって」
「そう思ってた」
その言葉は。
かつての自分への言い訳のようでもあり。
願いの残骸のようでもあった。
「……それは」
アウラが静かに言う。
「傲慢というものです」
否定だった。
だが。
突き放すものではなかった。
ガロードの頭に。
柔らかな感触が触れた。
「……」
アウラの手だった。
優しく。
子供をあやすように。
ガロードの頭を撫でていた。
逃げ場を失った感情が。
その温もりに触れて。
わずかに、ほどける。
「人は」
アウラの声は穏やかだった。
「神ではありません」
「すべてを救うことなど、誰にもできないのです」
風が頬を撫でる。
冷たいはずなのに。
その手の温もりが、消えない。
「ですが」
少しだけ微笑む気配。
「一人を救うことはできるでしょう」
ガロードの胸が小さく揺れる。
何かが。
わずかに、動く。
「貴方は」
アウラは言った。
「彼を救いました」
沈みかけていた何かが。
底で、かすかに光る。
「……救えたのか」
ガロードの声は小さかった。
信じきれない声。
それでも。
確かめるように。
「オレは……あいつを」
答えは、すぐには返ってこない。
ただ。
アウラの手が。
少しだけ強く、頭を撫でた。
それが答えだった。
風がまた吹いた。
森が静かに揺れる。
どこかで。
小さな葉が、地面に落ちる音がした。
ガロードは何も言えなかった。
ただ。
俯いたまま。
その温もりを受け止めていた。
握っていた拳が。
ゆっくりと、ほどけていく。
失ったものは戻らない。
それでも。
残ったものが、確かにある。
ガロードは。
ほんのわずかに。
息を吐いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




