最も残酷なもの
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
オルグラードは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、重かった。
過去を語るというより。
傷を、掘り起こす時間だった。
やがて。
ゆっくりと口を開く。
「麗王レイラは今際に」
低い声が落ちる。
「ガロードを妹のルシェナに託したそうだ」
空気が、わずかに震える。
「ダルグレイとルシェナを脱出させる際」
覇王は続ける。
「麗王レイラは最期まで戦い、殿となり犠牲になったと聞いている」
静かな言葉。
だが、その重みは消えない。
血に染まる大地。
守るべき命。
振るわれる刃。
その光景が、言葉の奥から滲み出る。
「ダルグレイとルシェナ夫婦には子がない」
オルグラードの声が続く。
「だが、大罪人となった牙王ロウガの忘れ形見」
黄金の瞳が、まっすぐ向けられる。
「彼らは、わしに願い入れた」
静かな声だった。
「『人狼族』を解散することを条件に」
「ガロードを救う慈悲を嘆願した」
空気が張り詰める。
一人の命のために、種族を捨てる。
それも古の魔王の血を終わりにする。
それは、誇りを断ち切る決断だった。
「わしは牙王ロウガを討つことで、一罰百戒とした」
覇王は淡々と言う。
「ガロードに罪を問う気は毛頭なかった」
迷いのない声。
それが事実だった。
「そして」
「彼らはガロードを、自分たちの子として育てた」
夜の灯り。
不器用な父の背中。
叱る声。
守る手。
母の笑顔。
食卓の温もり。
それらはすべて、偽りではなかった。
「あれが……嘘なわけねぇだろ」
小さく、声が漏れた。
押し殺した感情が、にじむ。
「だが」
オルグラードの声が、低く沈む。
空気が変わる。
「人間の侵入をきっかけに」
「魔王に背いた一部の人狼族は」
「人間を強く憎むようになった」
歪みの始まりだった。
「それが」
覇王は静かに告げる。
「ディグレイの悲劇を生んだ」
黄金の瞳が、ガロードを射抜く。
問いかけるように。
逃げるか。
それとも、受け止めるか。
ガロードは息を吐いた。
「……続けてくれ」
短く、答えた。
オルグラードは、わずかに頷く。
「麗王レイラ襲撃時」
「ディグレイも、当然レイラに逃がされた」
胸の奥がざわつく。
「一人、逃げ延びた先は」
「魔王国ではなく、王国側だった」
敵地。
それでも。
「山中で、ひっそりと生き延びた」
「そこで、人間の女性に助けられたそうだ」
静かな事実。
それだけで十分だった。
傷ついた少年。
手を差し伸べる誰か。
「二人は、共に暮らし始めた」
多くは語られない。
だが。
そこには確かに、日々があった。
笑いがあった。
ぬくもりがあった。
――失われる前の、穏やかな時間が。
「だが」
その一言で、すべてが崩れる。
「それを知った人狼族が」
空気が凍る。
「主人を殺された報復として」
「事情も知らぬ人間の女を殺してしまった」
誰も動けない。
「ディグレイが離れている隙を狙ってな」
世界は壊れる。
レックスの拳が、静かに震えた。
止められなかった連鎖。
理解したくない理屈。
それでも、否定できない現実。
「ディグレイが堕ちたのは」
覇王の声が落ちる。
「その時だ」
沈黙。
重い、沈黙。
「怒り狂ったディグレイは」
「人狼族の生き残りを襲った」
当然だった。
それ以外に道はなかった。
「ダルグレイも一流の戦士」
オルグラードは言う。
「だが」
「自分たちの仲間が犯した罪と」
「妻の姉の息子である躊躇い」
「自分たちの子供としたガロードの前で兄を殺す行為」
「何より主君であった牙王の鎧を纏ったディグレイを前に」
「剣を振るうことはできなかった」
ガロードの瞳が揺れる。
「……鎧」
思い出す。
あの姿。
あの怒り。
「あれは」
オルグラードが静かに言う。
「わしが牙王ロウガに贈った武具だ」
空気が止まる。
「本来は、国を守るための力だった」
だが。
「受け継がれたのは」
低く。
重く。
「守る意思ではなかった」
「憎しみだった」
森の空気が、沈む。
誰もが理解していた。
誰も、完全な悪ではない。
それでも。
すべては壊れた。
オルグラードは、ゆっくりと目を閉じる。
「……これが」
静かな声。
「ディグレイという男の、真実の一端だ」
誰も、言葉を発しなかった。
ただ。
取り返しのつかない過去だけが。
そこに、残っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして今。
その連鎖の先に立っているのが――ガロードだった。
胸の奥が焼ける。
息が荒い。
視界が滲む。
涙が頬を伝う。
止める理由はなかった。
止める資格も、感じられなかった。
ガロードは知ってしまった。
奪われたのは事実だ。
だが。
奪い返そうとしていたものもまた――同じものだった。
憎しみ。
怒り。
終わらない連鎖。
ディグレイと同じ場所に立っていた。
同じ道を辿ろうとしていた。
違うと思っていた。
だが、違わなかった。
それが何よりも、苦しかった。
「……師匠」
顔を上げる。
白銀の鎧。
覇王の姿。
逃げ場はない。
その奥にある眼が、すべてを見透かしていた。
「戦いの先を見ろって……言ってたな」
声が震える。
それでも続ける。
「勝つためじゃねえ」
「倒すためでもねえ」
息を吸う。
肺が痛む。
「そのあとに、何が残るかって意味だったんだな」
沈黙が落ちる。
風が、焦げた森を揺らす。
その中で。
覇王が口を開いた。
「ガロード」
低い声。
重い声。
「我が友にして義兄弟である、牙王ロウガの息子よ」
それは評価ではない。
慰めでもない。
ただの事実だった。
だからこそ。
逃げ場がなかった。
「ディグレイは」
わずかな間。
「『覇王』として、わしが討つ」
空気が凍る。
それは宣告だった。
終わりの確定。
覆せない決定。
「ロウガの忘れ形見ではあるが」
ほんの一瞬。
覇王の瞳に影が差す。
「奴は、罪を重ねすぎた」
そして。
「終わらせる」
それだけで、すべてが閉じるはずだった。
だが。
「駄目だ!!」
叫びが森を裂いた。
ガロードの声だった。
荒い呼吸。
震える身体。
それでも、前を見ていた。
「それじゃ意味がねえ!」
拳を握る。
血が滲むほどに。
「覇王に裁かせて終わりなんて」
言葉を叩きつける。
「そんなの、ただのやり直しだ!」
沈黙。
覇王の視線が突き刺さる。
逃げ場はない。
だが、退かなかった。
「俺がやる」
吐き出す。
腹の底から。
「俺が、この連鎖を止める」
小さな言葉だった。
だが。
揺るがなかった。
空気が張り詰める。
覇王が、わずかに目を細める。
試す目。
量る目。
「わしの義兄弟であった牙王ロウガは」
低い声が落ちる。
「義を何より重んじた男だ」
静かな言葉。
だが重い。
「だが、守れなかった」
その事実が、空気を沈ませる。
「お前はどうだ」
問い。
逃げられない問い。
「同じ道を選ばぬと、言い切れるか」
言葉が詰まる。
未来は分からない。
保証もない。
それでも。
ガロードは叫んだ。
「そんなの!」
声が震える。
それでも。
止まらない。
「やってみなきゃ分かるかよ!!」
静寂。
森が息を止めた。
未熟な言葉。
不確かな言葉。
それでも。
前を向いた言葉だった。
その時。
一歩、影が動く。
レックスだった。
無言で隣に立つ。
そして。
ガロードの肩に手を置く。
強くはない。
だが、確かな重み。
それだけで十分だった。
一人じゃない。
それが伝わる。
覇王は、しばらく沈黙していた。
やがて。
ほんのわずかに。
口元が緩む。
「……そうか」
短く。
それだけ。
だが。
否定はなかった。
道も塞がれなかった。
風が吹く。
焼けた森を抜けていく。
灰が舞う。
その中で。
一つの選択が、生まれた。
終わりではない。
始まりでもない。
だが。
確かに――未来へ繋がる一歩だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「吠えたな」
オルグラードの声は低く、静かだった。
「言葉にしたからには、責任は果たせ」
その言葉と同時に。
何かが、空を切って飛んできた。
反射的に手を伸ばす。
掴んだ。
掌に収まったのは――透明な球。
拳ほどの大きさ。
中に、淡い光が揺れている。
「奴の転移魔法も底をついているだろう」
覇王は腕を組んだまま言う。
「逃げ続けることは出来ん」
球の中の光点が、ゆっくりと動く。
生きているように。
そこに、確かに“存在”しているように。
「あの鎧はわしが作ったものだ」
平然とした声。
「追跡できる」
顎で球を示す。
「その光点が、奴のいる場所だ」
理解した。
これは――終わらせるための道標だ。
「馬鹿弟子共」
鼻で笑う。
「お前らが失敗したら、わしがディグレイに裁きを下す」
淡々と。
だが絶対の重みで。
「機会を与えるのは一度だけだ」
その言葉に。
ガロードは、自然と笑っていた。
恐怖ではない。
覚悟でもない。
ただ、腹の底から湧き上がるもの。
「おう!」
拳を握る。
力が戻る。
前を見る。
走り出そうとした、その瞬間。
「待て」
声が背中を止めた。
振り返る。
黄金の瞳。
逃げ場のない眼差し。
「さっき話した『悪意』には気を付けろ」
空気が、わずかに沈む。
「『牙王は義を何より重んじる男だった』」
静かに言葉が続く。
「レイラを殺された憎しみで動くのは理解出来た」
だが――
「当時のロウガは、それを抜きにして不自然だった」
その一言で、空気が変わる。
「悪鬼羅刹と評してもよい」
低い声。
重い言葉。
「まるで――別人だった」
胸がざわつく。
嫌な予感。
繋がってしまう。
ディグレイ。
あの目。
あの憎しみ。
「あれも……同じかよ」
小さく漏れる。
覇王は、否定しない。
ただ。
静かに続ける。
「ディグレイは」
一瞬、視線を落とす。
「わしらが警戒している『悪意』に染められているやもしれん」
確信ではない。
だが、可能性では済まない重さ。
「その時は」
再び、視線が突き刺さる。
「お前が止めてやれ」
短い。
だが。
それだけで十分だった。
ガロードは頷いた。
言葉はいらない。
もう迷わない。
そして――走り出す。
夜を裂くように。
背後から足音。
「待てよ兄貴!」
レックスの声。
すぐ隣に並ぶ。
さらに後ろから。
「わたくしも行きます!」
ノエリアの声が響く。
三つの影が、夜の中を駆ける。
球の中の光が、強く輝く。
そこにいる。
逃げ場はない。
終わりが、そこにある。
――必ず、止める。
その背を。
静かに見送る影があった。
「どうした」
オルグラードが言う。
「お嬢さんは行かないのかね」
振り返る。
アウラが立っていた。
動かない。
ただ、覇王を見据えている。
「……貴方は」
静かな声。
だが鋭い。
「自身がディグレイを討った後」
一歩も引かない視線。
「ガロードに討たれても構わないという覚悟をしていましたね」
沈黙。
風が吹く。
だが、覇王はすぐに肩をすくめた。
「さて」
「どうだろうな」
曖昧な返答。
だが。
否定ではなかった。
アウラはそれ以上問わない。
ゆっくりと頭を下げる。
それで十分だった。
「失礼します」
踵を返す。
走る。
追うべき背中がある。
守るべき未来がある。
残されたのは、覇王一人。
夜風が、鎧を撫でる。
しばらくの沈黙。
やがて。
ぽつりと呟く。
「この世で最も残酷なものを見届けることになるか」
静かな声。
だが、どこか遠い。
「復讐という鏡に映る、兄弟の牙」
かつての記憶。
重なる影。
ロウガ。
あの日の選択。
「繰り返すか」
低く。
「断ち切るか」
その答えは。
もう、自分の手にはない。
「ロウガ、レイラ」
空を見上げる。
月が雲間から覗く。
「お主らの息子たちの行く末を――見届けてやれ」
夜は、静かだった。
だが。
確かに。
何かが、動き出していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




