対決
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
拘束していた魔力が解けた。
ガロードの体が、ゆっくりと地面へ降りる。
膝が土に触れた。
だが。
立ち上がろうとはしない。
俯いたままだった。
「兄貴……?」
レックスは思わず呼んだ。
返事はない。
ガロードは動かない。
肩だけが、わずかに上下している。
呼吸だけがある。
「兄貴……?」
もう一度呼ぶ。
それでも。
反応はなかった。
空気が変わる。
森が静まる。
鳥が鳴くのをやめた。
風が止まる。
まるで世界が、次の瞬間を待っているようだった。
レックスの背筋を、冷たいものが走る。
「そうだ……」
背後で声がした。
震えている。
歓喜に震える声。
「それだ」
ディグレイだった。
「やはり牙王の血」
一歩、近づく。
その目は。
完全に狂気に染まっていた。
「否」
「正当なる魔王の血だ」
肩が震える。
抑えきれない笑いが漏れる。
「はは……」
「はははは……!」
両腕を広げる。
「これだ」
「これこそが」
声が高くなる。
「魔王国を変革させる切り札」
「願いを叶える力の形!」
その時だった。
ガロードが。
ゆっくりと顔を上げた。
レックスの心臓が跳ねる。
違う。
何かが。
決定的に違う。
ガロードの影が揺れた。
だが。
揺れているのは影ではない。
地面に落ちた影の方が、本体より先に動いた。
人の形だった影が。
ゆっくりと歪む。
細長く伸びる。
背が低くなる。
四つの足になる。
レックスの呼吸が止まる。
「……っ」
影は。
巨大な狼の形へ変わっていた。
次の瞬間。
ガロードの姿が揺らぐ。
肉が膨らむわけではない。
骨が砕けるわけでもない。
ただ。
今まで“人の姿”として保たれていたものが。
静かに沈んでいく。
まるで。
夜が世界を覆うように。
そして。
その奥に眠っていたものが。
月が闇から姿を現すように。
ゆっくりと。
現れた。
地面が、わずかに沈んだ。
四つの脚が、大地を踏みしめる。
黒い影のような巨体。
十メートル近い体躯。
闇に溶ける銀色の毛並み。
そして。
血のように紅い眼。
そこに。
人の理性はなかった。
グルルルル……
喉の奥で鳴る低音。
それは。
人の声ではない。
完全な。
狼の声だった。
巨大な獣が。
ゆっくりと頭を上げる。
銀の狼。
銀狼が息を吸い込む。
森が静まり返る。
次の瞬間。
咆哮。
「GRRRAAAAAAAAAAAAA!!」
大気が震えた。
咆哮が森を裂く。
木々の葉が激しく鳴る。
地面の砂が跳ね上がる。
レックスは思わず一歩後退した。
膝が震える。
本能が叫んでいた。
逃げろ、と。
それでも。
足は動かなかった。
「素晴らしい」
ディグレイの声が響く。
笑っている。
狂ったように。
「素晴らしいぞ!」
両腕を広げる。
まるで神を迎える信徒のように。
「これこそ、人狼族」
「古の時代、最初に魔王と呼ばれた種族」
「“魔王”と呼ぶにふさわしい姿だ!」
笑い声が森に木霊する。
「はははははははは!!」
レックスの視線は。
ただ一つの存在を見ていた。
銀の狼。
さっきまで。
隣で笑っていた男。
粗野で。
ぶっきらぼうで。
それでも。
誰より仲間思いだった兄貴分。
その姿が。
今。
完全な獣になっている。
「嘘だろ……」
心臓が凍りつく。
レックスの唇が震える。
「兄貴……」
銀狼の紅い目が。
ゆっくりと。
こちらを向いた。
その瞳には。
何もなかった。
理性も。
記憶も。
仲間も。
ただ。
狩る者の本能だけ。
レックスの背中に冷たい汗が流れる。
理解してしまった。
今、この瞬間。
兄貴は——
本物の獣になった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
銀狼の紅い眼が、ゆっくりと動いた。
何かを捕らえるように。
獲物を見定めるように。
その視線が――レックスを捉える。
背筋が凍る。
「……っ」
次の瞬間。
空気が裂けた。
銀狼の前脚が振るわれる。
巨大な爪。
風を切り裂く鋭利な刃。
それがレックスへ向けて振り下ろされた。
反射だった。
考えるより先に、体が動く。
棍棒を掲げる。
――ガンッ!!
凄まじい衝撃。
受け流すとか、防ぐとか。
そんな技術の話ではない。
ただ、偶然そこに武器があっただけ。
それでも。
それだけで。
レックスの体は宙を舞った。
視界が回る。
空と地面が何度も入れ替わる。
「ぐ――っ!」
次の瞬間。
背中から地面に叩きつけられた。
衝撃で空気が肺から全部抜ける。
息が出来ない。
体が勝手に転がる。
砂を巻き上げながら、何度も地面を転げ回った。
止まった。
だが。
動けない。
受け身なんて取れていない。
全身が軋む。
骨が砕けたんじゃないかと思うほど痛い。
体がバラバラになったような感覚。
それでも。
意識はあった。
(……生きてる)
つまり。
即死は免れた。
レックスは、震える腕で体を起こそうとする。
視界の先。
銀狼が立っていた。
山のような巨体。
紅い眼。
その瞳が、こちらを見ている。
「……兄貴」
喉からかすれた声が出た。
「兄貴……!」
声は届かない。
銀狼の瞳に、何の変化もない。
そこには。
知性も。
記憶も。
仲間を見る目もない。
ただ。
狩る者の目だけがある。
レックスの胸が締め付けられた。
兄貴が。
魔王になった。
「……目を覚ませよ」
声が震える。
「レックス組手だって言いなよ」
冗談でもいい。
怒鳴ってくれ。
いつものように。
「腰が甘ぇぞ」と笑ってくれ。
でも。
返事はない。
本当に。
涙が出た。
絶望じゃない。
恐怖でもない。
無力さだった。
(何も出来ないのか)
(このまま終わるのか)
銀狼が口を開く。
その喉の奥に。
光が集まった。
赤い光。
熱が膨れ上がる。
「……っ!」
咆哮。
「GRRRAAAAAAA!!」
光が放たれた。
空気が焼ける炎。
巨大な奔流。
地面を焼き、木々を薙ぎ払い、森を飲み込む。
爆炎が周囲を包み込んだ。
地獄だった。
炎の海。
燃え上がる森。
煙と火の匂い。
その光景を見て。
高笑いが響く。
「はははははははは!!」
ディグレイ。
狂ったように笑っている。
「素晴らしい!」
「これだ!」
「これこそが魔王の力!!」
レックスの胸の奥で。
何かが燃えた。
ふつふつと。
静かに。
怒りが湧く。
(ふざけるな)
こんな奴の。
こんな理不尽のために。
兄貴が化け物になって。
自分がここで終わる?
ふざけるな。
「こんな奴に……」
拳を握る。
「殺されてたまるか!!」
炎が迫る。
逃げられない。
体も動かない。
だったら。
いっそ。
レックスは叫んだ。
「こいガロード!!」
声が森に響く。
「僕はまだ負けていない!」
胸の奥から、全部吐き出す。
「勝負はまだついていない!!」
ほとんど自棄だった。
それでも。
叫ばずにはいられなかった。
銀狼の紅い眼が。
ゆっくりと動く。
地面に倒れたままのレックスへ。
その視線が。
一瞬、止まった。
炎が揺れる。
森が燃える。
絶望の中で。
レックスは、銀の獣を睨み返した。
逃げない。
倒れていても。
立てなくても。
それでも。
戦う。
相手が誰でも。
どんな姿でも。
それが。
ガロードに教えられた戦い方だった。
そして。
絶望としか言いようのない戦いが。
今、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
どす。
どす。
大地が揺れる。
銀狼が、ゆっくりと歩いてくる。
一歩ごとに地面が沈む。
森の木々が震える。
焦げた葉が舞い上がる。
炎の匂い。
土の匂い。
そして、獣の匂い。
レックスは地面に倒れたまま動けない。
腕も足も重い。
まるで体の中に鉛が流れているようだった。
本当なら。
恐怖で押し潰されてもおかしくない。
あの巨体。
あの力。
あの紅い眼。
それでも。
胸の奥に、恐怖を押し流す何かがあった。
銀狼が止まる。
目の前。
振り上げられる前足。
巨大な爪。
そこにあるすべてを引き裂ける刃。
それが。
無情にも振り下ろされる。
(終わりか)
そう思った。
その瞬間。
頭の奥に声が響いた。
誰かの言葉。
懐かしい声。
大事な教え。
『思いをこめた刃は、何より重い!』
レックスの腕が動いた。
震える腕。
折れそうなほど弱い腕。
それでも。
棍棒を突き出す。
剣でもない。
槍でもない。
それでも。
今この瞬間。
それは魔王に届く黒く輝く刃となった。
「――っ!」
突き出す。
ズブリ。
棍棒が銀狼の前足に食い込んだ。
毛を裂き。
肉に沈む。
温かい血が流れる。
だが。
その巨体には。
決定的なダメージにはならない。
銀狼の動きは止まらない。
それでも。
レックスは見上げた。
涙で滲む視界。
紅い眼がそこにある。
「……兄貴……」
ガロードは昔、組手で必ず言っていた。
――先に一撃入れた方の勝ちだ。
声が震える。
喉が焼ける。
それでも。
言葉を続ける。
「……僕の攻撃が先に当たった……」
銀狼の耳が。
ピクリと動いた。
「……僕の……」
息を吸う。
胸が痛い。
肺が焼ける。
それでも。
言葉を絞り出す。
「僕の、一本だ……」
踏み潰せるはずの攻撃。
ただの棍棒。
ただの少年。
それなのに。
銀狼の前足が。
一瞬。
止まった。
紅い眼が揺れる。
そこに。
光るものがあった。
涙。
ほんの一滴。
だが。
それだけでは。
本能は止まらない。
巨大な爪が、再び動こうとする。
その瞬間。
空気が変わった。
凛とした空気。
澄んだ冷たい風のような気配。
その声が響く。
「この勝負は」
静かな声。
澄みきった声。
「レックス様の勝ちです」
レックスが目を見開く。
まるで最初からそこにいたように。
一人の少女が立っていた。
赤きマントを纏う姫巫女。
ノエリア。
銀狼の巨体の横に。
恐れる様子もなく。
静かに。
ただ立っている。
「駄目ですよ」
優しい声。
叱るような。
それでいて。
どこまでも穏やかな声。
「ガロード様は」
一歩近づく。
炎の中を歩くように。
それでも。
少女は迷わない。
「レックス様のお兄ちゃんでしょ」
そっと。
手が添えられる。
銀狼の巨体に。
その瞬間。
光が溢れた。
白い光。
柔らかい光。
それでいて。
夜明けのように強い光。
誰も目を開けていられないほどの光。
森が白く染まる。
炎が静まる。
風が止まる。
世界が静かになる。
やがて。
光が消える。
焦げた森に。
静寂が戻る。
地面に落ちた影が揺れた。
巨大な狼の影が。
ゆっくりと縮む。
四つ足が。
二つになる。
長い影が。
人の形へ。
戻っていく。
そして。
そこに立っていたのは。
一人の少年だった。
荒い呼吸。
ボロボロの体。
それでも。
見慣れた顔。
「ああ……」
掠れた声。
「また、強くなったじゃねえか」
涙を流しながら。
人狼の少年が笑う。
悔しそうに。
それでいて。
「ああ、この勝負」
どこか嬉しそうに。
「オレの負けだよ、レックス」
レックスの視界が滲む。
兄貴が。
戻ってきた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




