幕間 僭王の切り札
短めの幕間回です。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暗い室内。
僭王はゆっくりと扉を開き、静かに中へ入った。
足音はほとんど響かない。
そのまま部屋の奥へ歩き、簡素なソファに腰を下ろす。
体を預ける。
天井を見上げる。
そして。
ゆっくりと息を吐いた。
脳裏に蘇る。
思いがけない遭遇戦。
空を裂いた矢。
ヒュォォォォン――
耳の奥で、まだあの風切り音が残っている。
「……覇王め」
低く、言葉が漏れる。
奴は強い。
それは理解している。
嫌というほどに。
あの矢。
距離を考えれば、並みの存在なら視認すらできない。
それを。
正確に。
何本も。
躊躇なく撃ち込んでくる。
今の自分では、まだ届かない。
戦えば。
勝敗は見えている。
だからこそ。
今は戦わない。
その判断に、迷いはない。
静寂。
部屋には僭王しかいない。
だが。
――苦戦しているな、牙王よ。
不意に。
声が響いた。
どこからでもない。
空間そのものから染み出すような声。
姿はない。
気配もない。
だが。
確かにそこにいる。
軽い声だった。
冗談を言うような。
旧知の友に話しかけるような口調。
――覇王は、予想していたが強敵だな。
僭王は目を閉じた。
答えない。
沈黙。
それでも声は続く。
――必要なものは用意する。
――何でもだ。
そして。
少し楽しそうに。
――その“証明”も、もうしただろう?
僭王の指が、わずかに動く。
思考する。
ほんの一瞬。
そして。
短く答えた。
「不要だ」
静かな声だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
沈黙。
数秒の間。
やがて声は、くつくつと小さく笑った。
――そうか。
――まあいい。
――必要になったら、呼んでくれ。
気配が消える。
最初から存在しなかったかのように。
部屋は再び静寂に包まれた。
僭王は動かない。
目を閉じたまま。
思考する。
”あれ”は。
自分を利用するつもりだ。
それは間違いない。
だが。
それで構わない。
利用しているのは。
こちらの方だ。
ゆっくりと目を開く。
「……」
その時。
背後で、かすかな足音がした。
振り向く。
奥の部屋から、灯りが揺れている。
やがて。
蠟燭を手にした一人の女性が姿を現した。
人間の女性。
整った顔立ち。
年の頃は二十代後半。
村娘のような、素朴で優しげな雰囲気。
武装はない。
ただの人間。
女性は僭王を見ると、ほっとしたような表情を浮かべた。
「あなた……大丈夫?」
心配そうな声。
僭王はわずかに視線を向ける。
そして、静かに答えた。
「お前は何も心配しなくていい」
女性は胸をなで下ろす。
安心したように、柔らかく笑う。
その様子を見ながら。
僭王は言った。
「俺は運が良い」
女性が首を傾げる。
僭王は続ける。
「すべてを打開する切り札を、偶然見つけた」
その声には。
確信があった。
「それを手に入れる」
「そうすれば魔王国は間違いなく亀裂が入り、瓦解する」
女性の目が、わずかに見開かれる。
驚き。
そして、かすかな期待。
僭王は静かに言った。
「そして、安心するといい」
短い沈黙。
「お前の願いは、必ず叶える」
その言葉を聞いた瞬間。
女性の顔が、ぱっと明るくなる。
まるで。
長い夜が終わったかのように。
嬉しそうに。
優しく。
微笑んだ。
僭王は、その笑顔を見つめる。
その瞳には。
わずかに。
冷たい光が宿っていた。
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