魔王
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時間の流れが、やけにゆっくりに感じた。
視界の端で、双剣が交差する。
銀の軌跡。
死の十字。
避けられない。
身体が理解していた。
間に合わない。
十字に切り裂かれる。
その後に来るのは追撃。
双剣はさらに振るわれる。
まるで獲物の肉を食いちぎる、猛獣の牙のように。
――ここまでか。
ガロードは思う。
こんな所で終わるのか、と。
ほんの一瞬。
そんな考えが頭をよぎった。
次の瞬間。
――キィン。
澄んだ金属音が響いた。
剣と剣ではない。
もっと鈍い、重い衝突音。
僭王の双剣が、止まっている。
「……は?」
ガロードの目が見開かれる。
――金属音だと?
視界の端に、一本の武器があった。
黒い鉄塊。
棍棒。
その先端が、僭王の双剣を受け止めている。
「……兄貴」
その声が、どこか遠くで聞こえた。
棍棒を構えた少年。
レックスだった。
その姿を確認した瞬間、ガロードの緊張が途切れる。
身体から力が抜けた。
視界が暗くなる。
意識が落ちていく。
――ああ。
来てくれたのか。
ガロードは、そのまま意識を手放した。
「兄貴、ギリギリセーフだな」
軽口の一つでも叩きたかった。
だが。
正直、そんな余裕はない。
レックスは必死に震えを抑えていた。
目の前にいる存在。
僭王。
その気配だけで、背筋が冷たくなる。
重い沈黙。
風が吹く。
木々がざわめく。
だが。
その中心だけ、空気が止まっているようだった。
ガロードは強い。
レックスよりも強い。
単純な立ち合いの稽古では。
十本勝負。
三本がレックス。
七本がガロード。
この結果は長い間、変わっていない。
つまり。
ガロードは、自分より上だ。
そのガロードを。
この僭王は、圧倒した。
考えるまでもない。
自分が敵う相手ではない。
さっきの防御。
あれは奇跡に近い。
ほんの一瞬。
集中の極致に入れた。
そして。
男爵家で戦ったシグマ。
稲妻のような彼女の攻撃速度に比べれば、僭王の太刀筋がわずかに遅かった。
何度か、それを経験した僅かな幸運。
それだけだ。
たったそれだけの理由で、防げただけ。
次は。
無理だ。
確実に。
死ぬ。
だから。
今やるべきことは、一つ。
「逃げること」
それだけだ。
レックスは叫んだ。
「アウラさん!」
その声と同時。
空気を裂く音。
フレイルの鎖が一直線に飛ぶ。
鋼の鎖がガロードの身体へ絡みつく。
次の瞬間。
引き抜かれた。
まるで荷物のように。
宙を滑るようにして、ガロードの身体が後方へ引き寄せられる。
土が削れる。
鎖が軋む。
だが。
アウラの腕力は止まらない。
「捕まえた!」
少し離れた場所で、少女の声が響く。
ガロードの身体はそのまま森の奥へと引き込まれていく。
僭王は、動かない。
ただ静かに、こちらを見ている。
兜の奥。
視線が突き刺さる。
言葉はない。
だが。
その沈黙は、何より雄弁だった。
――逃がすと思うか。
そんな意思が、空気に満ちている。
レックスの背中を冷たい汗が伝う。
喉が乾く。
それでも。
棍棒を握り直す。
指が白くなるほど強く。
この相手は。
話が通じる存在ではない。
言葉も。
交渉も。
意味はない。
あるのは。
殺すか。
殺されるか。
それだけだ。
僭王が、ゆっくりと双剣を持ち上げた。
その動きは静かだ。
だが。
地面の砂が、ふわりと舞う。
見えない圧力。
それだけで分かる。
次に動いた瞬間。
距離など意味を失う。
レックスは息を吐いた。
震える膝を叩く。
足を踏み出す。
「……来い」
声は小さい。
だが。
逃げるつもりはない。
ここから先は――
命がけの撤退戦だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レックスと僭王。
二人は、なぜかその場で睨み合っていた。
風が吹く。
草が揺れる。
誰も動かない。
――何故だ。
レックスは冷静に考える。
僭王の実力なら。
今すぐにでも、自分を斬り伏せられる。
それなのに。
動かない。
理由は、おそらく一つ。
レックスの手にある武器。
棍棒。
黒く鈍い鉄塊。
異様なほど頑丈なそれを、僭王は警戒している。
――思考の時間をくれてるのか。
ありがたい。
レックスは状況を整理する。
撤退する。
それが最優先。
なら、どうやる。
背を向けて逃げる。
論外だ。
相手はガロードを圧倒した怪物だ。
脚力も反応も、こちらより上。
背中を見せた瞬間に終わる。
味方の援護。
……それも無理だ。
アウラは今、ノエリアを抱え。
さらにガロードまで回収しているはずだ。
二人分の重さ。
まともな戦闘など出来るはずがない。
つまり。
やるべきことは一つ。
自分が。
殿になる。
僭王を崩す。
ほんの一瞬でいい。
その隙で逃げる。
選択肢は、それしかない。
出来るか?
レックスは小さく息を吐く。
「まず、やってみないと何ともならない」
覚悟を決めた。
防御など考えない。
ただ。
攻める。
レックスは踏み込んだ。
自分の間合い。
そして。
僭王の間合いへ。
瞬間。
双剣が動く。
銀の軌跡。
速い。
だが今のレックスは極限の集中状態。
一秒が極端に長く感じる。
――見える。
キィン!!
金属音が弾ける。
棍棒が双剣にぶつかる。
だが。
受け止めない。
力比べなどしたら終わる。
レックスは衝撃を受け流す。
身体を回す。
足を滑らせる。
刃の軌道をずらす。
ひたすら回避。
回避。
回避。
そして。
僅かな隙に、棍棒を叩き込む。
重い一撃。
だが。
僭王は微動だにしない。
装甲に弾かれる。
構わない。
目的は破壊じゃない。
時間だ。
レックスはさらに踏み込む。
双剣が振るわれる。
身体を沈める。
刃が頭上を掠める。
棍棒を振る。
防がれる。
衝撃が腕を突き抜ける。
身体が崩れる。
それでも。
体幹で支える。
無理矢理立て直す。
もう一撃。
振り抜く。
その瞬間。
僭王の背後に、影が現れた。
白い骨。
骸骨兵士。
四体。
土を蹴り、同時に斬りかかる。
レックスの目が見開かれる。
――ロザリー。
だが。
支援に感謝する暇はなかった。
僭王が動く。
ただ一歩。
踏み出す。
双剣が閃く。
一閃。
二閃。
三閃。
四閃。
一瞬だった。
骸骨兵士の身体が、ばらばらに崩れ落ちる。
骨が地面に散らばる。
あまりにも。
あっさりと。
無言のまま。
ただ暴力だけが、そこにあった。
沈黙。
骨の転がる音だけが響く。
レックスの喉が、わずかに鳴った。
四体。
ロザリーの骸骨兵士は、それなりに強い。
並の兵士なら三人がかりでも苦戦する。
それが。
一瞬。
ただの一瞬で。
消えた。
僭王は、何も言わない。
ゆっくりと双剣を下ろす。
その動作は静かだ。
だが。
地面に散った骨が、僅かに震えている。
剣圧。
空気そのものが揺れている。
レックスの背中を冷たい汗が流れる。
それでも。
棍棒を握る手は離さない。
「……まだだ」
小さく呟く。
時間は稼げた。
ほんの少し。
ほんの数秒。
だが、それでいい。
仲間が逃げる時間。
それさえ稼げれば。
レックスは再び踏み込んだ。
命を削るような一歩を。
この怪物の前へ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何かの物語で聞いたことがある。
魔王と戦うときは――
逃げられない、と。
レックスの視線の先。
そこに立つ存在。
僭王。
『魔王』を名乗る存在。
冗談のような話だ。
そんなもの、物語の中だけの話だと思っていた。
だが今。
目の前にいる。
現実として。
――変なことを考えるな。
レックスは歯を食いしばる。
指の感覚が消えかけていた。
足が、後ろへ下がりそうになる。
踏みとどまる。
足の裏の感触。
崖の縁。
文字通り。
ここは、崖っぷちだった。
一歩でも退けば。
終わる。
――将来、あなたを――わたしの騎士に任命します。
不意に。
声が聞こえた気がした。
エルディナの声。
柔らかく、どこか誇らしげな声音。
レックスの瞳が揺れる。
思い出す。
あの少女の顔。
差し出された手。
「約束ですよ、レックス」
あの時の言葉。
まだ。
何も成し遂げていない。
――もう一度会いたい。
それだけでいい。
どんな理由でもいい。
生きたいと思える糧が。
今の自分には必要なんだ。
レックスは棍棒の柄を握り直した。
汗で滑りそうな掌。
それでも。
力を込める。
僭王は、そんなレックスを見下ろしていた。
格下。
明らかな弱者。
その認識は変わらない。
だが。
その瞬間だった。
空気が裂けた。
ヒュォォォォン――!!
凄まじい風切り音。
レックスの耳を打つ。
何が起きたのか分からない。
だが。
僭王は反応した。
一瞬でレックスから視線を外す。
双剣の構えが、わずかに低くなる。
次の瞬間。
ガァンッ!!
鋼鉄が激突するような衝撃音。
火花が散る。
僭王の双剣が何かを弾き飛ばした。
レックスには見えない。
何が飛んできたのか。
だが。
僭王には見えていた。
地面に突き刺さったそれ。
それは矢だった。
だが。
普通の矢ではない。
太い。
あまりにも太い。
矢というより――
短槍。
ショートスピアに等しいほどの太さを持つ巨大な赤い魔力を帯びた矢。
矢が突き刺さった場所から、地面に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
レックスの喉が鳴る。
こんなもの。
弓で撃てるはずがない。
僭王が、初めて声を発した。
低く、短く。
「……覇王」
レックスの目が見開かれる。
覇王。
もう一人の魔王。
その名だけは、聞いたことがある。
次の瞬間。
ヒュン!!
再び風が裂ける。
第二射。
僭王の双剣が閃く。
ガァン!!
巨大な矢が弾き飛ばされる。
地面へ突き刺さる。
土が爆ぜる。
岩が砕け散る。
さらに。
第三射。
第四射。
矢は大地を抉り。
岩を砕き。
木々をへし折る。
まるで。
遠くの山から、巨人が槍を投げているかのようだった。
そのすべてを。
僭王は双剣で迎撃していた。
だが。
その間に。
距離が開く。
僭王は後退していた。
双剣で矢を弾きながら。
静かに。
確実に。
森の奥へ。
その姿が、木々の影に溶けていく。
僭王の兜が、わずかにレックスを向く。
いや。
違う。
レックスの背後。
誰かを見ていた。
しばしの沈黙。
そして。
僭王は何も言わず、森の奥へ消えた。
気配が消える。
殺気が消える。
世界が、ようやく呼吸を取り戻す。
レックスの膝が、がくりと折れた。
その場に崩れ落ちる。
息が荒い。
心臓が暴れている。
視界の端。
巨大な矢が、大地に突き刺さっていた。
一本。
二本。
三本。
まるで大地を縫い止める杭のように。
レックスはそれを見上げる。
遠く。
森の向こう。
どこかの高台。
そこにいるはずだ。
この矢を放った存在が。
魔王。
覇王。
その姿は見えない。
だが。
確かに、そこにいる。
レックスは小さく息を吐いた。
「……助かった、のか」
誰に聞くでもなく呟く。
答える者はいない。
ただ。
地面に突き刺さった巨大な矢だけが。
先ほどまで、この場所で起きていた
魔王同士の力の一端を。
静かに物語っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
死ななかったのか。
生き残れたのか。
その実感が、かなり遅れてやってきた。
緊張がほどけた瞬間。
レックスの脚から力が抜けた。
どさり、とその場に座り込む。
腰が抜けた。
そう言い換えてもいい。
呼吸が荒い。
胸が上下する。
汗が、額から頬へと流れ落ちる。
服はすでにぐっしょり濡れていた。
時間にすれば、どれくらいだったのだろう。
ほんの数分かもしれない。
だが。
レックスにとっては、途方もなく長い時間だった。
――あれが魔王。
頭の中で、その言葉が反響する。
帝国の戦闘種族も強かった。
あの男爵家で戦ったシグマも、レックスには勝てないと思った強敵だった。
だが。
「僭王」は違う。
比較にならない。
レックスが評価するような立場ではない。
それでも。
肌で分かる。
あれは、数段上の存在だった。
その僭王が。
即座に撤退を選択した。
理由は一つ。
地面に突き刺さる矢。
いや。
矢と呼ぶにはあまりにも太い。
槍のようなそれ。
大地を抉り。
岩を砕くほどの威力。
それを放った存在。
――覇王。
その名が脳裏をよぎる。
そして。
その覇王を。
倒したとされる存在。
破壊者。
勇者。
魔王を倒す者。
王国が、その存在をそう呼ぶ。
どれほどの強さなのだろうか。
レックスは、強さを求めているわけではない。
剣の頂点を目指すつもりもない。
それでも。
今日、分かったことがある。
この世界の天井は。
遥か。
遥か上にある。
人の届く場所ではない。
そんな気さえした。
「大丈夫か」
声がした。
振り向く。
森の影から現れたのはロザリーだった。
追いついて、隠れて。
骸骨兵士を操りながら支援していた少女。
ロザリーは周囲を警戒しながら近づく。
そして。
地面を見た。
巨大な矢。
深く突き刺さったままのそれ。
ロザリーの目が細くなる。
「……これ」
レックスが、苦笑する。
「覇王に助けられたらしい」
ロザリーは眉をひそめた。
「覇王……」
小さく呟く。
そして。
「覇王ディアボロスか?」
その名前が、静かな森に落ちる。
レックスはゆっくりと息を吐いた。
「あの僭王がさ」
ぽつりと言う。
「矢を見た瞬間、名前を口にしたんだ」
ロザリーの表情が、わずかに変わる。
警戒。
憎悪。
そして。
ほんの少しの恐れ。
「ロザリーはさ」
レックスが続ける。
「覇王が憎いらしいけど」
少しだけ顔を上げる。
地面に突き刺さった矢を見る。
あれを。
遠くから放った存在。
姿すら見えないのに。
あの僭王を退かせた存在。
「力で文句言うのは、やめた方がいいよ」
静かに言う。
ロザリーは何も答えない。
ただ。
矢を見ている。
しばらくして。
小さく息を吐いた。
「……分かっている」
その声は。
いつもより、わずかに弱かった。
レックスは地面を見つめる。
助けられたのか。
それとも。
取るに足らない存在として見逃されたのか。
分からない。
どちらでもいい。
ただ。
ガロードは生きている。
あの戦いで。
全員が生き残った。
それでいい。
レックスは、そう考えることにした。
森の奥。
風が吹く。
巨大な矢は、微動だにしない。
まるで。
この地に刻まれた
魔王の爪痕のようだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




