魔王国の覇王と牙王
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
長く続いた地下回廊を抜けた瞬間、空気が変わった。
湿った石の匂いが消え、代わりに風の匂いが流れ込む。
レックスは思わず目を細めた。
「……明るい」
回廊の出口の先には、広い大地が広がっていた。
なだらかな丘。
遠くまで続く街道。
その脇に点在する森と畑。
どこにでもありそうな田園風景だった。
「ここが魔王国」
レックスはぽつりと呟く。
禍々しい城。
黒い雲。
邪悪な魔物。
そんなものを想像していたが、実際に広がっているのは――
「……普通だな」
この前訪れた王国、ヴァルディア男爵領の周辺と、ほとんど変わらない。
拍子抜けしたように呟くと、ガロードが鼻で笑った。
「魔王国だからって、常に地獄みたいな景色だと思ったか?」
レックスは肩をすくめる。
「まあ、ちょっとは」
ガロードは腕を組み、背後の森を指さした。
「レックスが最初に見る魔王。あれが『樹王』だ」
レックスは振り返る。
そして、思わず息をのんだ。
森の奥に――
一本だけ、異様に巨大な樹が立っていた。
山のように太い幹。
空を突き刺すような高さ。
この距離からでも、その巨大さが分かる。
(あれで……森の奥?)
レックスは思わず呟く。
「近づいたらどれだけ大きいんだろう……」
ノエリアも感嘆の声を漏らした。
「すごい……おっきな木です」
だが、アウラは冷静だった。
「近づく必要はありません」
彼女は淡々と言う。
「まずは情報を集めるべきです」
視線をロザリーへ向ける。
「ロザリー殿の村を訪れましょう」
こうして一行は、ロザリーの村へと向かった。
村は、小さな集落だった。
粗末だが整えられた家々。
畑。
干された作物。
住民たちは獣人が多い。
レックスたちを見ると、何人かが警戒するように視線を向けた。
どうやら、この辺りでは人間との交易もあるらしい。
商人らしき人間が荷車を引いて村に入ってくるのが見えた。
「止まれ」
村の入口で、数人の男が立ちはだかった。
だが次の瞬間。
「……ロザリー?」
男の一人が目を丸くした。
レックスたちの後ろで、ロザリーは縄で縛られている。
「お前……何してんだ?」
その瞬間、アウラが前に出た。
「話があります」
静かな声だった。
「ロザリー殿は、我々を襲撃しました」
村人たちがざわめく。
アウラは淡々と続けた。
「その件について、我々は正式に抗議します」
村の奥から、一人の年老いた獣人が現れた。
村の代表らしい。
「……事情を聞こう」
アウラは軽く頷く。
「代わりに、情報を提供していただきたい」
代表は深く頭を下げた。
「申し訳ない」
そしてロザリーを睨みつける。
「なぜこんなことをした!」
ロザリーは顔を歪めた。
「……仕方なかったんだ」
悔しそうに拳を握る。
「村の水が……もう限界なんだ」
「水?」
代表がため息をつく。
「水源が汚染されている」
「泉の水が濁り、作物も育たない」
「このままでは村が干上がる」
ロザリーは叫ぶ。
「だから……!」
「金が必要だったんだ!」
その場が沈黙した。
その時。
「それなら」
ノエリアが静かに前に出た。
「見せてもらえますか?」
村の奥にある泉。
水は確かに濁っていた。
黒いものがゆらゆらと漂っている。
「うわ……」
レックスは顔をしかめる。
「これは酷い」
何もいわずノエリアは泉の縁にしゃがみ込んだ。
そして――
「えい」
指先を水に突っ込んだ。
それだけだった。
一瞬。
泉の水が光った。
次の瞬間。
濁っていた水が、透き通るような透明に変わる。
泉の底まで、はっきり見える。
村人たちは固まった。
「……え?」
一人が呟く。
代表が恐る恐る水をすくう。
そして口に含んだ。
目を見開く。
「きれいだ……!」
次の瞬間。
村人たちは一斉に地面にひれ伏した。
額が土につくほど深く頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
感謝の声が村に響いた。
レックスは思わず苦笑する。
(ノエリアって……やっぱり規格外だ)
ノエリアはきょとんとしていた。
「そんなにすごいことでしたか?」
その無邪気な言葉に、村人たちはさらに深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
代表は何度も頭を下げながら言った。
「約束通り、お話ししましょう」
少し間を置く。
「――『牙王』のことを」
村人たちは静まり返った。
焚き火の小さな音だけが、夜の村に響いている。
代表はゆっくりと語り始めた。
「牙王様は……かつて覇王様の盟友として、今の魔王国の礎を築いたと言われています」
レックスたちは顔を見合わせる。
魔王同士の盟友。
それだけでも、想像以上の話だった。
代表は続ける。
「魔王国が今の形になる前。各地の豪族が争っていた時代がありました」
「その争いを終わらせたのが――覇王様と牙王様です」
「二人は力を合わせ、豪族たちを平定した」
「そして、分裂していた魔王国を再び一つの国として再建したのです」
レックスは小さく息を呑んだ。
「……じゃあ」
「国を復活させた英雄じゃないか」
代表はゆっくり頷いた。
「ですが」
声が低くなる。
「牙王様は、粛正されました」
村に重い沈黙が落ちた。
「なぜですか?」
レックスが思わず聞く。
代表は目を伏せた。
「牙王様が――」
「人間の国に侵攻しようとしたからです」
空気が凍りつく。
レックスの表情が固まる。
代表は続けた。
「ですが」
「五十年ほど前から、魔王国と人間の国の間には不可侵の盟約があります」
「互いに領土へ侵攻しない」
「それが破られれば――」
「再び戦争です」
ガロードが小さく呟く。
「だから……か」
代表は頷いた。
「魔王国側から盟約を反故にするわけにはいきません」
「しかも」
「その盟約に署名した一人が、牙王様なのです」
レックスは眉をひそめた。
「……じゃあ」
「なんでそんなことを」
代表は静かに首を振る。
「牙王様が人間の国へ侵攻したのは」
「野心ではありません」
村人たちの表情が暗くなる。
代表は低い声で言った。
「魔王国の一部が――」
「人間に情報を流したのです」
「何だって!?」
レックスが思わず立ち上がった。
村の空気がさらに重くなる。
代表はゆっくり言葉を続けた。
「牙王様の妻」
「麗王様が弱っている」
「麗王様は、覇王様や牙王様にも匹敵すると言われるほどの強者」
「ですが、病に伏していた」
焚き火の火が揺れる。
「今なら殺せる」
「そう人間に伝えた者がいたのです」
レックスの拳が震えた。
同じ人間が。
そんなことをしたのか。
顔を上げることができなかった。
代表は静かに言う。
「麗王様は襲撃され――」
「命を落としました」
村人の一人が目を伏せる。
「牙王様を疎ましく思う者たちが……」
「仕組んだことだと言われています」
ガロードの拳が、わずかに震えた。
「覇王様は」
代表は続ける。
「その裏切り者たちを、すべて粛正したそうです」
「ですが――」
少し間を置く。
「愛する者を奪われた牙王様の怒りは止まりませんでした」
レックスの胸が重くなる。
「そして牙王様は」
「人間の国へ報復に向かった」
夜風が吹いた。
焚き火の炎が揺れる。
代表は遠くを見るように言った。
「覇王様と牙王様は……」
「義兄弟の契りを交わすほどの仲だったとも言われています」
その言葉に、空気がさらに重くなる。
「ですが」
代表はゆっくり言った。
「魔王国を混乱させないため」
「覇王様は」
一拍。
「友を討ったのです」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ロザリーの村の代表は、静かに言葉を続けた。
「覇王様は……表向きには、牙王様を粛正されました」
焚き火の炎が、ぱちりと小さく弾ける。
村の空気が、わずかに重くなる。
「だが、その場にいた者は皆知っています
老人はゆっくりと目を閉じた。
まるで、遠い昔の光景を思い出すように。
「覇王様は――」
「牙王様の遺体を、自ら回収されたのです」
レックスは思わず顔を上げた。
「戦場に残されていた牙王様の亡骸を……」
「誰にも触れさせず」
「覇王様ご自身の手で、運ばれました」
夜風が、静かに吹き抜ける。
村人たちは誰も口を開かない。
老人の声だけが、静かに響いていた。
「そして」
「牙王様は、妻である麗王様と共に葬られました」
その声は、どこか祈りのようだった。
「場所は、覇王領の聖墓所」
「古い石造りの墓所の奥」
「覇王様の盟友のみが眠る場所です」
老人は続ける。
「その葬儀は」
「覇王様ご自身が執り行われたそうです」
「余人を許さず」
「すべてを、自らの手で」
焚き火の炎が、静かに揺れる。
「牙王様の武具は、すべて棺に納められ」
「戦士としての礼を尽くした上で」
「大地に還されたのです」
その光景を思い浮かべ、レックスは息を呑んだ。
友を討ち。
その友を、自ら葬る。
どれほどの覚悟だったのか。
老人はさらに続けた。
「その後」
「覇王様は側近たちに命じました」
声が少しだけ強くなる。
「牙王を侮辱することは許さない」
「牙王を貶める言葉は」
「覇王への侮辱と同じである」
村人たちは静かに頷いた。
その言葉は、今も語り継がれているのだろう。
「覇王様ご自身は」
老人はゆっくり言う。
「友を討った冷酷な王として」
「その汚名を、甘んじて受け入れられました」
レックスは黙って聞いていた。
胸の奥が、妙に重い。
「それは結果として」
「覇王様の支配体制を強くしました」
老人は続ける。
「魔王国の者たちは理解したのです」
「この王は、情では動かない」
「国のためならば」
「友すら、自らの手で斬る」
焚き火の火が、揺れる。
レックスは視線を落とした。
(この覇王って人は……)
思わず考える。
尊敬に値する人物だ。
もし、自分だったらどうするだろう。
もし――
ガロードが暴走したら。
自分は止められるのか。
答えは出ない。
いや。
もしかしたら。
(僕は……)
ガロードと一緒に。
自分の憎しみに流される側に回るかもしれない。
そんな考えが、一瞬頭をよぎった。
レックスは小さく息を吐いた。
その時だった。
老人が再び口を開いた。
「しかし」
「十年ほど前」
「ある事件が起きました」
空気が、わずかに張り詰める。
「牙王様の墓が」
「暴かれたのです」
レックスが顔を上げた。
「何だって?」
「墓所が荒らされ」
「牙王様の遺装……武具が盗まれました」
村人たちの表情に怒りが浮かぶ。
「覇王様は犯人を徹底的に探させました」
「ですが」
老人はゆっくり首を振る。
「見つからなかった」
「単独犯なのか」
「組織だった犯行なのか」
「何も分からないまま」
「牙王様の武具は」
「墓所から消えました」
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは――
ガロードだった。
「……十年前か」
低い声だった。
老人は頷く。
「ええ」
ガロードはゆっくり言う。
「その武具は」
「全身を硬質の装甲で覆う」
「鎧騎士のような姿だったか」
老人の目が少し見開く。
ガロードは続ける。
「棘のように突き出た装甲」
「そして」
「狼の頭のような兜」
老人は完全に目を見開いた。
「……なぜそれを」
「その通りです」
「まさにその姿」
「牙王様の武具です」
レックスがガロードを見る。
ガロードの顔は焚き火の影に沈んでいた。
表情が見えない。
「奴だ」
低い声が漏れる。
誰にも聞こえないほど小さく。
「……奴だ」
拳が、ゆっくり握られる。
骨が軋むほど強く。
「遂に見つけた」
その瞳の奥には。
獣のような殺意が。
静かに燃えていた。
まるで――
長い狩りの終わりを告げるように。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




