魔王国へ旅立つ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
セルディアの夜は、澄んでいる。
鍛冶場の火は落ち、街を包むのは星明かりだけだ。
石畳に残る昼の熱が、ゆっくりと冷えていく。
屋根の上に、俺は一人腰を下ろしていた。
銀の髪を夜風が揺らす。
耳がぴくりと動く。
遠くで酒場の笑い声。
猫が瓦を走る音。
全部、聞こえる。
でも――。
鼻の奥に残る匂いは、十年以上前のものだった。
血の匂いだ。
「……牙王」
小さく呟く。
その名を口にするだけで、胸の奥が焼ける。
忘れたことなんて、一度もない。
レオニスがその名を口にした瞬間。
閉じ込めていた記憶が、無理やり引きずり出された。
――あの日。
夜は、赤かった。
炎が集落を舐めていた。
家が燃え、木が爆ぜ、空は煙で歪んでいた。
獣人たちの怒号。
爪がぶつかる音。
鉄の匂い。
血の匂い。
そして。
あいつがいた。
黒と白の鎧。
全身を覆う重い装甲。
肩や腕から突き出した鋭いスパイク。
狼の顔を模した兜。
顔は見えない。
なのに――
そこにいるだけで、わかった。
強い。
理屈じゃない。
本能がそう言っていた。
一族最強の戦士だった父が、前に出た。
「下がれ」
短い言葉だった。
あの声には、逆らえない。
父は強かった。
俺にとっては世界一の戦士だった。
戦いが始まる。
爪が鎧を裂く。
刃が地面をえぐる。
火花が散る。
父は互角に渡り合っていた。
いや――押していた。
(いける)
子供だった俺は、そう思った。
父は強い。
負けるはずがない。
その時だった。
距離があったから、よく見えなかった。
だが。
父とあいつが、顔を近づけた瞬間。
牙王が、何かを囁いた。
次の瞬間。
父の目が ―― 凍りついた。
「……」
動きが、止まる。
一瞬だけ。
ほんの、一瞬だけ。
それだけだった。
「ルシェナ! ガロードを連れて逃げろ!」
怒鳴り声。
理解できなかった。
なぜ?
父は何もされていない。
なのに。
牙王の刃が振り下ろされた。
迷いなく。
父の身体は、真っ二つになった。
地面に落ちる赤。
世界が、歪む。
牙王は ―― 笑っていた。
音は聞こえなかった。
だが、わかった。
倒れた父を、鎧の足で踏みつける。
そして。
ゆっくり、こちらを向いた。
兜の奥。
視線が、俺を見た。
背筋が凍った。
その後は、地獄だった。
一族の戦士たちが次々と立ち向かう。
「逃げろ!」
「子を守れ!」
母に向かって叫ぶ声。
だが、勝てない。
誰一人、勝てない。
母が俺を抱き上げた。
「逃げるのよ!」
森を走る。
枝が頬を切る。
背後から悲鳴が聞こえる。
血の匂いが、風に乗る。
追ってきている。
わかる。
あいつだ。
母が突然、震えた。
衝撃。
母の背中に刀が突き刺さっていた。
それでも――母は走った。
血を流しながら。
森の奥へ。
川に飛び込み、流れに乗り、必死に逃げた。
岸に上がったとき。
母の息はもう浅かった。
「……ガロード」
震える手が、俺の髪を撫でる。
優しい手だった。
「ごめんなさい……」
何を謝っているのか、わからない。
「牙王は……」
その言葉を残して。
母は、動かなくなった。
夜は静かだった。
静かすぎて、耳が痛かった。
俺は泣いた。
涙が枯れるまで。
それからだ。
強さを求めたのは。
弱いから、守れなかった。
弱いから、全部奪われた。
だから――強くなる。
牙王を、殺すために。
だがある日、噂を聞いた。
牙王は討たれた、と。
誰かが倒した、と。
「……信じられるかよ」
俺は空を睨む。
誰も死体を見ていない。
鎧の中身すら、誰も知らない。
あんな化け物が――そう簡単に死ぬわけがない。
「生きてやがったんだな」
胸の奥が熱くなる。
恐怖じゃない。
怒りでもない。
もっと重い何かだ。
執念。
爪がグローブに食い込む。
「今度は――」
絶対に。
俺が、お前を殺す。
夜風が吹く。
セルディアの屋根の上。
星を背に。
俺は拳を握った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。
セルディアの空は澄み渡っていた。
鍛冶場の煙がまっすぐに立ちのぼり、朝日が石造りの屋根を淡く照らしている。
街はゆっくりと目を覚まし始めていた。
鍛冶屋の作業場には、静かな緊張が漂っていた。
レオニスは卓上に置かれた羊皮紙を手に取り、ノエリアへ差し出した。
「これが、地下交易路を通るための推薦状じゃ」
「セルディア名義で正式な通行許可を得られる」
羊皮紙には、重厚な封蝋が押されている。
赤い印章が朝日を受け、わずかに光った。
ノエリアはそれを両手で受け取る。
「レオニス様、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
隣でアウラも、同じように優雅に礼をした。
寸分違わぬ所作。
訓練された動きだった。
「レックス様も、ガロード様も、お母様も」
「ご厚情、忘れません」
柔らかな声でそう言うと、ノエリアは微笑んだ。
「魔王様とお話して、またご縁があれば、お会いしましょう」
さらりと言う。
その場にいた全員が、わずかに言葉を失った。
レックスは思わず眉をひそめる。
(……冷静に考えるとすごいこと言ってるよな)
魔王に会いに行くことが、まるで町へ買い物に行くような口調だった。
十四歳の少女とは思えない落ち着きだ。
その空気を破ったのは、ガロードだった。
「待った、姫巫女さん」
一歩前へ出る。
銀の髪が朝日に光った。
狼の耳がわずかに動く。
「俺も魔王国へ行く」
場の空気が、静かに変わった。
「姫巫女さんの邪魔はしねぇ」
「魔王国まで、あんたらに便乗させてくれ」
いつもの軽い口調だった。
だが、瞳の奥にあるものは軽くない。
固い意志。
胸の奥に刻まれた名――牙王。
ノエリアは驚く様子もなく、まっすぐ見上げた。
「ガロード様も、魔王国に?」
「ああ」
短い返事だった。
理由は語らない。
だが、それ以上聞く必要もないと感じさせる声だった。
レックスは小さく息を吐いた。
(……やっぱり言うと思った)
そして、少しだけ肩をすくめる。
「お母さん、じいちゃん」
「僕も行くよ」
母が思わず声を上げる。
「レックス!?」
「だって兄貴だけじゃ心配だしさ」
軽く笑う。
「ノエリア様は、昔じいちゃんが世話になった人の縁なんだろ?」
「だったら恩返ししないと」
そう言いながら、少しだけ視線を逸らす。
「それに……魔王国、ちょっと興味あるし」
未知の国。
王国と拮抗する勢力。
ニア・ヒューマン。
ビーストマン。
人とは違う文化を持つ国。
少年として、好奇心を抑えることは難しかった。
母は何か言いかける。
だが、その前にレオニスが静かに口を開いた。
「止めるでない」
老いた声だった。
しかし、その言葉には重みがあった。
「魔王国は、人とは違う文化の国じゃ」
ゆっくりと言葉を続ける。
「長命のニア・ヒューマン。
誇り高いビーストマン。
価値観も、礼節も異なる」
二人の少年を見据える。
「己の常識を押し付けるでない。
よく見て、よく学び、よく考えよ」
「……うん」
レックスが頷く。
「おう」
ガロードも短く答えた。
それで十分だった。
レックスはノエリアへ向き直る。
「じゃあ、ノエリア様。
よろしくお願いします」
「はい。
レックス様、よろしくお願いいたします」
小さな手が胸元で重なった。
その様子を見ていたアウラが、一歩だけ近づく。
ノエリアの耳元へ、そっと囁いた。
「……よろしいのですか」
「足手まといでは」
声は低い。
警戒は解かれていない。
ノエリアは一瞬だけ目を閉じた。
朝の風が、蒼い髪を揺らす。
「いえ、アウラ」
静かに目を開く。
「今、予知しました」
「……」
「これで良いのだと思います」
柔らかな微笑みだった。
だが、その瞳には確信が宿っていた。
アウラはしばらく沈黙し、やがて小さく頷く。
「承知いたしました」
セルディアの朝が、明るく広がる。
地下へと続く交易路。
その先にある魔王国。
覇王。
そして――牙王。
四人は、同じ方向を見ていた。
それぞれ違う理由で。
それでも、歩む道は一つになる。
新しい旅路が、静かに動き出していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




