冥王からの指令
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『存外、ボクらも間抜けなことをした』
死王ノクスは、わずかな明かりしかない暗い部屋で、チェスの駒を並べ直していた。
黒と白の駒が、盤上に整然と並んでいく。
『まさか、替え玉を使うとはね』
聖剣の魔力反応を探知した時、誤認はなかった。
間違いなく、聖剣を持つ勇者がそこにいた。
だからこそ、ノクスは死王レヴェナントと共に奇襲を仕掛けたのだ。
飽和攻撃による包囲撃滅。
逃げ道を塞ぎ、数で押し潰す。相手が包囲を突破したところをレヴェナントが仕留める。
勝利を確信できる、合理的な手順だった。
実際、包囲は見事にはまった。
勇者は追い詰められ、包囲を破るために動いた。あとはレヴェナントが止めを刺すだけだった。
『だが、肝心の奴はいなかった』
ノクスの指先が、盤上の駒をひとつ摘まみ上げる。
確かに、そこにあったのは聖剣だ。
しかし、あれは自分たちが追っていた勇者の持つものとは別物だった。
聖剣が二本。
そして、勇者も二人。
『くっ、くっ……そう来たか、って感じだよ』
仮面の奥から、暗い笑い声が漏れる。
ノクスは最後の駒を置き、盤上を見下ろした。
すべての駒が、あるべき位置に収まっている。
美しいほどに整った配置だった。
次の瞬間。
ガシャーンッ!
ノクスは盤を拳で殴りつけた。
チェスの駒も盤も、粉々に砕け散る。
『確かに、あいつはあそこにいたはずだ!』
細い指が震えていた。
怒りに打ち震える拳を、ノクスはゆっくりと握り締める。
『今、どこにいる!』
この街で、自分たちの探知をすり抜けて動けるはずがない。
少なくとも、ノクスはそう考えていた。
それなのに、見つからない。
確かに存在したはずの勇者が、まるで最初からいなかったかのように姿を消している。
ノクスは部屋の奥へ目を向けた。
そこには、ピアノの前に腰掛け、沈黙を保つ死王カオスがいた。
『確かに、ノクスの言う通りです。そして、取り逃がしたのは私の失態……』
カオスは静かに口を開いた。
『冥王様を不愉快にする虫の分際で、この私に……』
声音は丁寧だった。
だが、その奥に潜むものは、ノクスにも理解できない。
『許せぬ。すべて許せぬ』
唐突に、カオスが天井を見上げた。
そのまま、ゆっくりと顔を下ろす。
『……しかし、冥王様のお言葉は絶対。今は、まだ、直接手を出せん……』
その言葉を聞いた瞬間、ノクスの足が動いた。
半歩。
ほんのわずかに、後ずさっていた。
(……このボクが?)
ノクスは、自らの足を疑った。
限りなく不死に近い存在である自分が、恐怖を感じている。
しかも、それは敗北への恐れではなかった。
死への恐怖だった。
ノクスはカオスのことを、ほとんど知らない。
冥王様が造り上げた、最後の死王。
与えられている知識は、それだけだった。
(……冥王様から、どれほどの力を与えられているんだ、こいつは)
同じ死王であるはずの存在。
それなのに、ノクスは目の前のカオスに戦慄を覚えずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『冥王様からの指令が下りました』
不意に、死王カオスが口を開いた。
ピアノの前に立つ漆黒のローブ。その姿には、先ほどまでの静けさと変わらぬ落ち着きがあった。
「……ボクには届いていないけど?」
死王ノクスは疑わしげに両腕を組んだ。
『私に直接届きました』
「へえ。それはまた、随分と特別扱いだね」
軽い口調とは裏腹に、仮面の奥の視線は鋭い。
(……こいつ、冥王様の最大の腹心という立場を利用して、ボクたちを私物化するつもりじゃないだろうな)
ノクスに冥王への背信など、微塵もなかった。
冥王は絶対の存在。疑うことすら許されない、神にも等しい主である。
だからこそ、警戒すべきはその名を利用する者だった。
(仮にカオスが、冥王様を利用するつもりであれば……)
そこまで考えたところで、カオスが静かに告げた。
『貴方達にとっては、願ってもない勅命です』
カオスは椅子から立ち上がる。
『冥王様が完全に復活される前に、邪魔者は確実に消せ、と』
「それは今までも承知していることだよ」
ノクスの声から、僅かに笑みが消えた。
「ボクたちは、常に冥王様のために活動している。今さら君に言われるまでもないんだけどね」
そこには、隠しきれない怒りがあった。
冥王の腹心として仕えてきた自分が、新参者に指図される筋合いはない。
その反応に呼応するかのように、部屋の隅の影が揺らいだ。
黒い鎧を纏った死王レヴェナントが、音もなく姿を現す。
死王カオス。
死王ノクス。
死王レヴェナント。
三体の死王が、互いに睨み合うような構図となった。
『すべては、冥王様の御心のままに』
カオスは、恭しくそう告げた。
そして、片手を掲げる。
「――っ!?」
次の瞬間、ノクスの身体が硬直した。
見えない鎖に縛られたかのように、指一本動かせない。
隣のレヴェナントも同じだった。
「な、何をする!? いや、ボクたちに何をした!?」
ノクスの声が裏返る。
カオスは答えない。
ただ、静かに二人を見据えていた。
『冥王様の勅命を伝える』
「ギャァァッ――!」
ノクスの全身を、凄まじい激痛が駆け抜けた。
肉体を引き裂かれるような苦痛。
意識すら砕かれそうな衝撃。
限りなく不死に近い存在であるノクスでさえ、悲鳴を上げずにはいられなかった。
しかし、カオスは微動だにしない。
『更なる力を授ける。邪魔者たちを確実に消せ。それが冥王様のお言葉だ』
「こ、これは……!」
やがて、激痛が徐々に和らいでいく。
ノクスは荒い呼吸を繰り返しながら、自らの内側に生じた変化を感じ取っていた。
今までとは違う。
まるで、一度死に、別の存在へと生まれ変わったかのような感覚だった。
「……これは、素晴らしい」
仮面の奥から、低い笑いが漏れる。
ノクスが隣を見ると、レヴェナントもまた、同じ変化を受け入れているようだった。
『私は、これから冥王様の完全覚醒の準備に入る。お前たちは、何人にも邪魔をさせるな』
「……承知した」
今度の返答に、反発の色はなかった。
三体の死王は、揃ってその場に膝をつく。
『すべては、冥王様のために』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




