新たなる出会いと旅立ちの予感
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
荷馬車の車輪が、乾いた街道を軋ませながら進んでいく。
初夏の風が、幌の隙間から吹き込んだ。
干し草の匂いがふわりと広がる。
荷台の藁の上に、三人は並んで座っていた。
蒼い髪を風に揺らしながら、姫巫女ノエリアはふと首をかしげる。
「魔王様に会いに行かねばならないのですが……どこへ行けばお会いできますか?」
あまりにも自然な口調だった。
まるで、旅先で道を尋ねるような響き。
レックスは思わず瞬きをする。
「え……ま、魔王、ですか?」
「はい。魔王です」
ノエリアはにこりと微笑んだ。
「きっと、お話をしなければならないのです」
澄んだ緑色の瞳。
そこには恐れも、警戒もない。
ただ、純粋な疑問だけが浮かんでいた。
ガロードが頭を掻く。
「……おいおい」
呆れたように息を吐く。
「そんな近所の領主に会いに行くみてぇに言うなよ」
琥珀色の瞳が遠くの地平を見る。
「魔王国――ジュピターはな」
短く息を吐いた。
「王国より、ちょい広い。力もだいたい同じぐらいだ」
レックスが静かに頷く。
兄貴の説明は大雑把だが、核心を外さない。
「分断国家……なんですよね」
レックスが補足する。
「中央政府の力が弱いって聞いてます」
「ああ」
ガロードは腕を組んだ。
「族長だの、有力者だのが好き勝手やってる」
「ニア・ヒューマンも、ビーストマンもごちゃ混ぜだ」
「今いる“魔王”は二人」
そこで指を二本立てた。
「『覇王』と『樹王』だ」
ノエリアは目をぱちぱちとさせた。
「お二人もいらっしゃるのですか?」
「対立はしてねぇらしい」
ガロードは肩をすくめる。
「だが勢力は偏ってる」
「覇王が五割。樹王が三割。残りは小勢力」
ノエリアは小さく頷いた。
「覇王様の発言力が強い……ということですね」
「まあな」
ガロードは短く答える。
「けど俺も詳しくは知らねぇ」
顎でレックスを指す。
「師匠なら、もっと知ってるだろ」
「先生なら、ジュピターとも取引がありますし」
レックスが言う。
「鉱石の商いで、セルディアとも関わっています」
魔王国は鉄や銀が豊富だ。
セルディアの鍛冶師たちにとって、重要な交易相手でもある。
敵対しているだけの関係ではない。
ノエリアは胸元で手を組んだ。
少し困ったように微笑む。
「ですが……」
小さく首をかしげる。
「私、なぜ魔王様にお会いしなければならないのか、自分でもよく分からないのです」
レックスが目を丸くした。
「わからない……んですか?」
「はい」
ノエリアは穏やかに頷く。
「ただ、“会わねばならない”と感じるのです」
「きっと平和のためなのですよ」
幼い声。
だが、その言葉には不思議な重みがあった。
「綺麗ごとだな」
ガロードが鼻を鳴らす。
「平和、ねぇ」
腕を組み直す。
「魔王国相手に、簡単に言うなよ」
ノエリアは静かにガロードを見る。
まっすぐな瞳。
「ですが」
柔らかな声だった。
「争いが続けば、誰かが泣くのです」
ガロードの言葉が止まる。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、視線が揺れた。
そして、そっぽを向く。
「……とにかくだ」
少し乱暴に言う。
「魔王に会うなら、まずセルディアだ」
「師匠に聞け」
「先生に、ですか」
レックスが言う。
「ああ」
ガロードは頷いた。
「師匠なら、覇王でも樹王でも」
「会い方ぐらいは知ってるかもしれねぇ」
セルディア自由都市。
自治領主であり、鍛冶屋協会代表。
エルダードワーフのオルグラート。
彼ならば、魔王にすら繋がっていても不思議ではない。
「約一か月ぶりですね、兄貴」
レックスが笑う。
「ああ」
ガロードは頭を掻いた。
「ちったぁ強くなって帰るつもりだったがな」
苦笑する。
だが。
隣に座る小さな姫巫女の存在は、確実に“何か”を連れてきていた。
魔王に会う――。
それは、王国と魔王国。
均衡を保つ二つの大地の中心に触れるということだ。
荷馬車は、夕陽に染まる街道を進み続ける。
セルディアへ。
答えを持つであろう、師のもとへ。
そしてこの出会いが――
後に大きな運命の歯車を回すことになる。
まだ誰も、知らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
街道はゆるやかな丘陵を抜け、低い森へと差しかかっていた。
陽は高い。
風は穏やか。
だが――。
「……兄貴」
レックスは、棍棒を握る手にじわりと汗を滲ませた。
隣で手綱を預かるガロードも、琥珀色の瞳を細める。
「ああ」
短く答える。
「何か、来るぞ」
草が鳴る音が、不自然に途切れた。
風が止まる。
空気が、張り詰めた。
次の瞬間。
風が裂けた。
「――きゃ?」
蒼い髪がふわりと浮く。
荷台の中央に座っていたノエリアの姿が、消えた。
「ノエリア様!?」
レックスが振り返る。
街道脇。
そこに、ひとりの女が静かに着地していた。
その腕には、姫巫女が横抱きにされている。
艶やかな黒髪。
均整の取れた長身。
クラシックなメイド服。
だが、そのスカートの下から覗くのは――
鈍い光を放つ、鎖。
山賊でも、野盗でもない。
場違いなほど洗練された存在感。
女――アウラは、何も言わない。
ただ静かにノエリアを地面に立たせる。
そして一歩前へ出た。
次の瞬間。
スカートの内側から、鎖鉄球付きのフレイルが二振り。
音もなく滑り出る。
「っ――!」
レックスが棍棒を構える。
だが。
鉄球はすでに振り下ろされていた。
唸る風。
咄嗟に棍棒を振り上げる。
激突。
金属が弾け、火花が散った。
(速い……!)
重さも、軌道も、正確すぎる。
だが。
それは囮だった。
もう一本の鎖が、蛇のように足元を這う。
「しまっ――」
絡む。
締まる。
脚。
腕。
胴。
鎖が一瞬で全身を縛り上げた。
引き倒される。
背中から地面へ。
「ぐっ……!」
肺から空気が抜けた。
鎖は急所を避けている。
だが逃げ場は完全に塞がれている。
(……締め方が、戦場のそれだ)
ただの拘束ではない。
戦闘技術。
レックスは悟った。
この女は――
危険だ。
だがアウラは、レックスに視線すら向けない。
すでに目標は、ガロード。
「……なるほどな」
銀髪の少年が低く唸る。
「ただ者じゃねぇ」
地面を蹴る。
距離を詰める。
鎖の間合いに入る前に、懐へ。
そう判断した。
だが。
視界から、女が消えた。
「なっ――!?」
背後。
気配。
次の瞬間。
両腕が、ガロードの腰に回る。
がっちりと、胴をクラッチ。
強烈な密着。
「――っ!」
反射で肘を振るう。
だが遅い。
女はそのまま背を反らせた。
容赦のない反り投げ。
重力を超える角度。
ガロードの身体が宙を舞う。
受け身の暇もない。
頭から地面へ。
鈍い衝撃音。
土煙が上がる。
静寂。
「……兄貴?」
返事はない。
銀髪の少年は、白目をむき、ぴくりとも動かない。
レックスの背筋に冷たいものが走った。
(……一撃で?)
あの兄貴が。
王国兵士数人を相手にしても勝つ男が。
一撃で。
(……勝てない)
結論は早かった。
女はフレイルを静かに巻き取る。
黒い瞳が、こちらを見る。
理知的で。
冷たい。
圧が、ある。
そのとき。
「だめですよ、アウラ。戦っては」
ぽわぽわとした声が、空気を和らげた。
ノエリアが、少し困ったように微笑んでいる。
両手を胸の前で合わせていた。
「この方たちは、悪い方ではありませんのです」
アウラは一瞬だけ目を閉じた。
それから、深く一礼する。
「失礼いたしました、姫巫女様」
声は落ち着いている。
だが、わずかに温度がある。
「危険を感じましたので、排除を優先いたしました。私の不徳です」
「排除って……!」
レックスが叫ぶ。
鎖に縛られたまま。
アウラは視線だけで制する。
「あなた方」
淡々と告げる。
「姫巫女様の至近に位置しながら、殺気への反応が半拍遅い」
静かな叱責。
「護衛としては失格ですね」
姉のような声音だった。
「次はありません」
その圧に、レックスは言葉を失う。
だが。
ノエリアはにこりと笑った。
「アウラ。ほどいてあげてくださいな」
少し首をかしげる。
「痛そうなのです」
「……承知いたしました」
鎖がほどける。
レックスは咳き込みながら、意識を失った兄貴分を見る。
(この人が……侍女?)
山賊でも。
暗殺者でもない。
メイド服を纏った、圧倒的な戦士。
そして――
姫巫女を至上とする、影の護衛。
街道の風が、再び吹き始める。
戦いは。
ほんの一瞬で終わっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
土煙が、ようやく落ち着いた。
だが、街道の空気に残る緊張はまだ消えない。
アウラは鎖を巻き取ると、フレイルを静かにスカートの内へ戻した。
動作は優雅。
だがその黒い瞳は、まだ鋭い。
レックスとガロードを、静かに測るように見ている。
対する二人も、油断などできるはずがなかった。
男爵領での死闘を越え、少しは強くなったと思っていた。
だが――。
現実はどうだ。
メイド服姿の女に、文字通り叩き伏せられた。
ガロードは後頭部を押さえながら舌打ちする。
「……クソ。なんだあの投げは」
「受け身も取らせない速さだった」
レックスも、内心では冷や汗が止まらない。
(強い……)
先生とも違う。
兄貴とも違う。
まるで戦場そのものを体に染み込ませたような強さだ。
そんな空気を、ふわりとほどいたのは――やはりノエリアだった。
「アウラ。もう大丈夫なのですよ」
ぽわぽわとした声。
その一言で、アウラの肩の力がわずかに抜ける。
「……姫巫女様がそう仰るのであれば」
彼女は一歩下がり、戦闘態勢を解いた。
そして。
背筋を伸ばす。
優雅に一礼した。
「改めまして。私はアウラ」
「姫巫女様付きの侍女兼、護衛でございます」
その姿は、先ほどの戦士とは別人のようだった。
「追っ手を撒くため、姫巫女様とは別行動を取っておりました」
淡々と説明が続く。
「ですが荷馬車に乗せられている姫巫女様を確認し、拉致と判断いたしました」
「拉致って……!」
ガロードが思わず声を上げる。
アウラは一切動じない。
「相手は複数。先制攻撃こそ最大の防御と考えました」
静かな声。
「それだけのことです」
レックスとガロードは、顔を見合わせた。
(危険人物だ)
(間違いねぇ)
心の中で、同時にメモを刻む。
ノエリアは、のほほんと首を傾げた。
「アウラは心配性なのです」
「姫巫女様の安全は、私の存在理由ですので」
アウラの声だけ、少しだけ柔らかい。
そこでレックスは、ずっと引っかかっていた疑問を口にした。
「あの……失礼ですが」
少し言いづらそうに続ける。
「本当に、姫巫女様……なんですか?」
空気が、ぴりりと張る。
アウラの瞳が細くなる。
「当然です」
声に、わずかな熱が宿った。
「この方は王国より正式に認められた姫巫女」
「神殿印、王印、双方の承認を得ております」
懐から革袋を取り出す。
中から数枚の羊皮紙を広げた。
精緻な紋章。
赤い封蝋。
びっしりと並ぶ文字。
「こちらが証明書類です。ご確認ください」
レックスは慎重に受け取った。
じっと見る。
……読めない。
正確には読める。
だが意味がわからない。
専門用語と儀礼文言ばかりだ。
ガロードも横から覗き込む。
そして三秒で視線を逸らした。
「……おいレックス」
「わかるか?」
「……いえ」
二人は無言で頷き合う。
(さっぱりだ)
(俺ら向きじゃねぇ)
ノエリアは、申し訳なさそうに笑った。
「難しいですよね」
「私も最初はよく分からなかったのです」
「姫巫女様は理解なさっております」
すぐにアウラの訂正が入る。
レックスは小さく咳払いした。
「ええと……」
話題を戻す。
「それで、ノエリア様は魔王に会うためセルディアへ」
「はい」
ノエリアは頷く。
「セルディアにいらっしゃるオルグラート様にお会いすれば」
少し空を見上げた。
「道が開ける気がするのです」
アウラの眉が、わずかに動く。
「魔王に会う……危険です」
静かな声だった。
「王国も魔王国も、均衡の上に立っている状況」
「軽々しく踏み込むべきではありません」
「ですが」
ノエリアはまっすぐ見上げた。
柔らかい瞳。
だが揺るがない。
「必要なのです」
沈黙が落ちる。
数秒。
やがてアウラは小さく息を吐いた。
「……承知いたしました」
「姫巫女様が望まれるのであれば」
深く一礼する。
「私は従います」
その声音には、絶対の忠義があった。
ガロードが小声で呟く。
「……甘くねぇか?」
レックスは小さく首を振る。
(違う)
(あの人は――)
姫巫女を中心に世界を見ている。
だから強い。
そして、少し危うい。
だが行き先は決まっていた。
自由交易都市セルディア。
エルダードワーフ、オルグラートの待つ街。
「先生に任せれば……きっと何とかなる」
「師匠なら、な」
二人は顔を見合わせた。
こうして――。
姫巫女ノエリア。
その侍女アウラ。
新たな二人を加えた荷馬車は、再び軋みを上げて進み出す。
目指すはセルディア。
夕暮れの街道を。
四人を乗せた馬車が、ゆっくりと走っていった。
そのとき。
ノエリアがふと空を見上げた。
「……今、予知しました」
三人が同時に振り向く。
ノエリアは、やわらかく微笑んだ。
「この旅は、とても賑やかになります」
その言葉の意味を。
まだ誰も知らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




