また会う日まで
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レックスにとって、それは夢物語のはずだった。
騎士。
その言葉は、物語の中でしか聞いたことがない。
姫を守る騎士。
民のために剣を振るう騎士。
幼い頃、そんな物語に胸を躍らせたことはある。
だが。
それは、あくまで物語だった。
自分は勇者ではない。
血筋も、名誉もない。
ただの鍛冶見習いの少年。
だからこそ、分かっていた。
―― あれは、自分の人生には関係のない世界だと。
「一度、考えてほしい」
「……それだけです」
そう言ったエルディナは、視線を少し逸らしていた。
普段の彼女は、こんな言い方はしない。
堂々としている。
迷いなど見せない。
だが今は違った。
胸の奥に、言葉にできない不安があった。
もし断られたらどうするのか。
そんなことは考えたくなかった。
だから、逃げるようにその場を離れようとした。
その瞬間。
腕を掴まれた。
「――逃げないでください」
レックスの声だった。
その声は、震えていた。
驚いて振り返る。
赤い瞳が、真っ直ぐこちらを見ている。
いつもより強い視線。
逃げ場を失ったのは、むしろこちらだった。
心臓が跳ねた。
「僕は……」
レックスの言葉は、どこかぎこちない。
それでも必死に紡がれていく。
「僕は、エルディナ様の騎士に相応しいか……まだ、自分に自信がありません」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、少し痛んだ。
やはりそう思っているのか。
当然だ。
彼は貴族ではない。
騎士教育を受けたわけでもない。
それでも――
レックスは膝をついた。
剣を横に置く。
その動作は、ぎこちない。
だが。
騎士の誓いの姿勢だった。
その瞬間。
胸の奥で、何かが強く揺れた。
「だけど」
レックスが顔を上げる。
赤い瞳。
そこにあるのは迷いではなく、覚悟だった。
「今の僕は……」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続く。
「エルディナ様の剣が、僕以外になるのは――」
その先の言葉を、エルディナは無意識に待っていた。
呼吸が浅くなる。
胸の鼓動が早い。
「……嫌だと思ってしまいました」
その瞬間。
胸の奥で何かが弾けた。
それは怒りではない。
困惑でもない。
ただ――
どうしようもなく、嬉しかった。
だが同時に、恥ずかしさも押し寄せる。
頬が熱い。
なぜこんな気持ちになるのか。
理解できない。
「だから」
レックスは続ける。
「少しだけ、待ってください」
「次に会うまでに……」
拳を握る。
震えている。
それでも、逃げない。
「エルディナ様に相応しい剣になれるように、僕は自分を磨きます」
沈黙が落ちる。
ほんの数秒。
だが、エルディナにはとても長く感じられた。
心臓の音がうるさい。
顔が熱い。
このまま何も言わなければ、どうなるのか。
そんなことを考える余裕はなかった。
「――嘘は、今さら受け入れられません」
気づけば、言葉が出ていた。
自分でも驚くほど、強い声だった。
「覚悟してください」
剣を抜く。
細身のレイピア。
その刃が、わずかに震えていた。
レックスは動かない。
ただ跪いたまま、受け入れている。
剣の平を右肩へ。
そして左肩へ。
騎士叙任の儀式。
本来なら、父が行うもの。
だが今は違う。
それでも――
この誓いは偽物ではない。
「レックス」
声を整える。
胸の鼓動を抑えながら。
「将来、あなたを――わたしの騎士に任命します」
言った瞬間。
胸の奥に温かいものが広がった。
剣を鞘に戻す。
終わった。
そう思った。
だが。
レックスが立ち上がる。
そして。
手を取られた。
「え……?」
思わず声が漏れる。
レックスはその手を持ち上げ――
口づけた。
「は、えっ……?」
頭が真っ白になる。
手の甲への口づけ。
敬愛の証。
知識としては知っていた。
だが。
実際にされると、理解が追いつかない。
さらに。
レックスは膝をつき直した。
足元へ。
つま先に、そっと口づける。
爪先への口づけ。
それは――
崇拝。
頭が真っ白になる。
頬の熱は、もう隠しようがなかった。
なぜ彼がこんな作法を知っているのか。
分からない。
だが。
それよりも――
この少年が、本気で誓っていることだけは分かった。
レックスが顔を上げる。
頬は真っ赤だった。
「……はい」
小さく息を吐く。
「将来、エルディナ様の騎士になることを――ここに誓います」
胸が締め付けられる。
言葉が出ない。
数秒、沈黙してしまう。
そして。
やっと声が出た。
「……はい」
頷く。
「約束ですよ、レックス」
その声は、思ったよりも小さかった。
だが。
その約束は、確かなものだった。
少年の告白を受けた少女。
本来なら、誰も知らないはずの光景。
しかし。
少し離れた柱の影。
そこには三人の姿があった。
腕を組んで静かに見守るミレーネ。
感動のあまり目を潤ませているクラリッサ。
そして、口元を押さえて顔を赤くしているミレイユ。
三人は、声を出さない。
ただ。
同じことを思っていた。
――これは。
完全に。
告白ではないのか、と。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝の城下町は、まだ静かだった。
石畳には夜の冷気が残り、空気は澄んでいる。
城門の外には、セルディアへ向かう荷馬車が一台だけ停まっていた。
荷台には旅荷物。
そして、その横で腕を組んで待っている少年が一人。
「レックスの野郎、遅いなぁ」
ガロードは大きく欠伸をした。
どこにいるかは、だいたい想像がつく。
城のどこかで別れの挨拶をしているのだろう。
急かすつもりはない。
だが、さすがに暇だった。
その時だった。
「ガロード様」
振り向くと、侍女服の少女が立っていた。
それを合図にしたように、周囲から次々と侍女たちが集まってくる。
「ガロード様、レックス様を守ってくださいね」
「ぜったいですよ」
「これ、私達で集めたお金です」
小袋が差し出された。
「これでレックス様を守ってください」
他の侍女たちも、同じように頭を下げる。
ガロードは少し驚いた顔をしたが、すぐに苦笑した。
「そんなに言われなくても大丈夫だ」
差し出された袋をそっと押し返す。
「レックスは弟分だ」
「俺が守るに決まってんだろ」
侍女たちは安心したように顔を見合わせた。
その様子を遠くから見ていた男がいる。
「ガロード君には残ってもらいたかったんだがね」
声をかけてきたのはルシアンだった。
鎧姿のまま腕を組み、城門の影に立っている。
「帝国との情勢は悪い」
「腕の立つ者はいくらでも欲しい」
ガロードは肩をすくめた。
「悪いな」
「俺にはやることがある」
琥珀色の瞳がわずかに細くなる。
「それに、あの戦いでわかった」
「まだ足りねぇ」
デルタとの戦い。
思い出すだけで、拳が自然と握られる。
「師匠にもう一度鍛え直してもらう」
ルシアンは少しだけ笑った。
「……そうでしょうね」
そして静かに言った。
「いずれ戦争になる」
「その時は、また力を貸してください」
「起きないほうがいいことだぞ、それ」
短い返事だった。
代わりに、別の声が割り込む。
「本当に帰るのですか?」
ミレーネだった。
腕を組み、少し呆れた顔をしている。
「残ってもよかったでしょう」
その言葉の裏にある意図は、ガロードにも分かっていた。
「レックスが残る可能性があった?」
そう言うと、ミレーネは咳払いをした。
「……否定はしません」
ガロードは笑う。
「心配すんな」
「?」
「レックスはまた来る」
その言葉に、ミレーネの目が見開かれた。
「本当ですか」
周囲の侍女たちも一斉に振り向く。
「ああ」
「あいつが言ってた」
すると侍女たちが歓声を上げた。
「本当ですか!」
「よかった……!」
「またレックス様に会えるんですね!」
手を取り合って喜び始める。
ミレーネは小さく息を吐いた。
「……これで将来のヴァルディアは安泰ですね」
ガロードは肩をすくめる。
―― レックス、お前。
―― 勝手に未来決められてるぞ。
その時だった。
「兄貴、お待たせ」
振り向くと、赤褐色の髪の少年が立っていた。
「遅いぞ!」
「ごめん、ごめん」
レックスは苦笑して頭を掻く。
だが次の瞬間、侍女たちが一斉に群がった。
「レックス様!」
「また来てくださいね!」
「お体に気をつけて!」
「レックス様ぁ!」
「おーい!」
ガロードが大声を出す。
「出発時間あるんだからな!」
「わかってるよ、兄貴」
レックスは笑って答えた。
そして、ふと視線を上げる。
城壁の上。
朝の光の中で、風に金色の髪が揺れていた。
遠くからでも、青い瞳がまっすぐこちらを見ているのが分かる。
レックスは小さく頭を下げた。
それだけだった。
だが、十分だった。
「さて」
ガロードが荷馬車に飛び乗る。
「帰るか」
セルディアに。
「うん」
レックスも荷台に乗った。
東の空から、朝日が昇る。
光が城壁を照らし、ヴァルディアの町を黄金色に染めていく。
やがて馬車はゆっくり動き出した。
石畳の音が遠ざかる。
城門が小さくなっていく。
少年たちは振り返らなかった。
だが確かに、この地に何かを残していった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
人狼の少年ガロードだ。
しばらく無言が続く。
やがてガロードが口を開いた。
「なぁ、レックス」
なぜかジト目だった。
「言いたくねぇんだけどよ」
聞きにくそうな顔をしている。
「何、兄貴?」
レックスは首をかしげた。
するとガロードは、あっさり聞いた。
「エルディナ様とチュチュして、どうだった?」
「なっ!?」
レックスが盛大に吹き出した。
顔が一瞬で赤くなる。
「そ、そんなこと……してないよ!」
慌てて否定する。
だがガロードは、じっとレックスの顔を見ていた。
「お前の口の端に……」
そこまで言いかけた瞬間。
レックスは慌てて腕で口元を拭った。
「……いや、嘘だ」
ガロードは顔をそらした。
肩が震えている。
声を殺して笑っていた。
「兄貴!」
レックスが抗議する。
「そんなに未練あるならよ」
ガロードは藁に寝転がりながら言った。
「残ってもよかったんだぜ」
その言葉に、レックスは少しだけ黙った。
そして遠くの街の方を見る。
「大丈夫だよ」
小さく笑う。
「また、ちゃんと会いに行くから」
ガロードは横目で見た。
「そっか」
短く言う。
「そうなりゃいいな」
「うん」
レックスはうなずいた。
その時だった。
「……う、ん」
荷台の藁が、もぞもぞと動いた。
二人は同時に振り向く。
「な、なんだ!?」
ガロードが身構える。
「えっ、何!?」
レックスも目を見開いた。
藁が大きく盛り上がる。
そして――
「ぶはぁっ!」
誰かが勢いよく飛び出した。
藁の山の中から現れたのは、一人の少女だった。
蒼い髪。
緑色の瞳。
年齢は十四歳ほど。
小柄で、華奢な体つき。
赤いベレー帽を被り、長い赤いクロークに身を包んでいる。
その下には黒いハイネックの衣装。
胸元には金と黒の丸いペンダントが揺れていた。
神秘的な雰囲気の少女だった。
だが今は、藁まみれで咳き込んでいる。
「お、女の子?」
レックスが驚く。
「だ、誰だこいつは?」
ガロードが眉をひそめる。
思わず二人は御者台を見る。
商人は困った顔で首を振った。
どうやら知らないらしい。
少女は周囲をきょろきょろ見回した。
そして小さく首をかしげる。
「えーと……」
ぽわっとした声だった。
「ここは何処でしょうか?」
レックスとガロードは顔を見合わせた。
完全に理解が追いついていない。
だが少女は、何かに気づいたようだった。
ぽん、と手を叩く。
「ああ」
「こういう時は、まずご挨拶でしたね」
少し困ったように笑う。
「アウラに言われたことを忘れていました」
少女は藁の上で姿勢を正した。
そして丁寧に三つ指をつく。
「私はノエリアと申します」
穏やかな微笑み。
「王国では“姫巫女”と呼ばれたりもします」
深く頭を下げた。
そのまま動かない。
レックスは慌てて頭を下げた。
「あ、僕はレックスって言います!」
つられてガロードも名乗る。
「……ガロードだ」
ただし視線は鋭い。
少女を観察していた。
やがてノエリアが顔を上げる。
にっこりと微笑んだ。
「レックス様と、ガロード様ですね」
初対面のはずなのに、迷いがない。
そして次の言葉を言った。
「私は魔王国の魔王様に会いに行きたいのですが」
穏やかな声。
まるで世間話のように続ける。
「どうすればよいか、ご存じでしょうか?」
荷馬車の上で。
レックスとガロードは、姫巫女ノエリアと出会った。
それが――
この先の運命を大きく動かす出会いになることを。
まだ誰も知らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




