遠い昔の記憶
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
覇王ディアボロスは、遠い昔の記憶を思い返していた。
それは、かつて一人の弟子が訪ねてきた日のことだった。
「これは珍客だな」
「……そう言うなよ。久しぶりに弟子が訪ねてきたんだ。もっと歓迎してくれてもいいだろ?」
訪問者は、牙王ライガ。
かつてディアボロスが自らの手で鍛え、世に送り出した若者だった。
あの日、旅立ったライガは、正義感の強い青年にすぎなかった。
だが、今、目の前に立つ男には、確かな王の風格が備わっている。
魔王国の統一を成し遂げた者だけが持つ、重みだった。
「今更、何をしに来た? 用などあるまい」
「なーに、あんたに評価してもらいたくてね。わざわざやって来たんだ」
「魔王国を統一したことか?」
「いや、そんなことじゃない」
ライガは首を横に振った。
そして、持参した鞄から一本の瓶と、小さなグラスを取り出す。
グラスをディアボロスに渡すと、瓶の中身を静かに注いだ。
淡い琥珀色の液体が、グラスの底から満ちていく。
「この香り……酒か?」
「蒸留酒という。俺たちが復活させたんだ」
「ほう」
ディアボロスはグラスを持ち上げ、香りを確かめた。
それから、少しだけ口に含む。
酒が喉を通り、芳醇な香りが鼻へ抜けていく。
やがて、空になったグラスを見つめ、素直な感想を口にした。
「……美味いな。見事なものだ」
「だろう?」
ライガは誇らしげに笑った。
「統一を記念してな。新しい時代の乾杯に間に合うよう、作ってもらったんだ。失われた文化の復活ってやつさ。こういうことにも価値はあるだろう?」
魔王国を統一する。
それは、敵を倒し、従わせるだけで成し遂げられるものではない。
人々が暮らしを取り戻し、失われた文化を再び手にする。
ライガは、その一つを師に見せに来たのだった。
しかし、笑みを浮かべていた男は、やがて表情を引き締めた。
「……統一を経て、魔王国は変わっていくだろう。いずれは、俺の手を離れていく。それは避けられないし、先のことは誰にもわからない」
ライガは自分のグラスにも酒を注ぎ、口をつけた。
「これから先、魔王国はどう進むべきなんだろうな」
「陳腐な悩みだ」
「意味を教えてくれよ」
ディアボロスは、ライガの顔を見た。
「お前は、お前の時代を作る役目を果たした。次の時代のことなど、次の奴らに任せればいい」
重々しい声が、静かに響く。
「お前がやることは、今できる限り良い土壌を作り、それを渡してやることだけだ」
ライガは一瞬、目を見開いた。
そして、喉の奥で笑い声を漏らした。
「そんな風に言ってくれるのは、あんただけだ。少し気分が軽くなったよ」
そう言って、ライガは再びディアボロスのグラスに酒を注いだ。
「会いに来てよかったよ、師匠。乾杯に付き合ってくれ」
「お前に教えたのは、戦い方だけだ。立派になったものだ」
ディアボロスはグラスを手に取った。
そして、ライガと向かい合う。
かつて師と弟子だった二人は、今、互いを認める者同士として、同じ高さでグラスを掲げた。
静かな音を立てて、二つのグラスが触れ合った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「実は、師匠を訪ねた時、俺はあんたがもう死んでいる可能性も考えていた」
ライガは、正面に座るディアボロスを見つめた。
その姿は、かつて送り出された時と何一つ変わっていない。
年を重ねたライガとは対照的に、師の姿には時の流れを感じさせるものがなかった。
「俺は、必要な時に目覚め、そうでなければ眠る存在だ。不滅ではないが、そうやって力を制御することで、全盛時の姿を保っている」
「なるほどな。今回は、俺が来たから目を覚ましているというわけか」
「ああ」
ライガは納得したように頷いた。
「なら、本来の目的は何なんだ?」
ディアボロスの表情が、わずかに引き締まった。
「シャルバート・ウル・ヴァースが俺に命じたのは、監視だ。彼女の仇敵が蘇ったなら、迷わず討てとな」
「そんな奴がいるのか?」
「まだ会ったことはない。だが、彼女が言うことだ。間違いはない」
「誰なんだ、それは?」
「冥王……」
その名を口にした時、ディアボロスの声から、普段の豪胆さとは異なる重みが滲んだ。
「魔王国が誕生する前から、悪い意味で神を名乗っていた輩だ」
ライガは黙って師の言葉を聞いた。
魔王国の統一を果たした今も、世界には自分の知らない脅威が存在している。
だが、ディアボロスは臆していなかった。
「案ずるな。どんな相手であれ、お前たちの世界を好きにはさせん。その前に、俺が奴を討つ」
「師匠が約束するなら、千金以上の信頼があるがな……」
ライガは、力強く笑った。
「その時は、当然俺も力を貸すぞ」
言葉だけではない。
その眼差しは、自分も頼りにしろと告げていた。
「ああ。その時がくればな」
「任せろ」
ライガは胸を張った。
ディアボロスは、そんな弟子の姿を見て、わずかに口元を緩めた。
「頼もしいな。では、そんなお前に、これからの魔王国に必要なものをやろう」
そう言って立ち上がると、部屋の棚へ向かう。
戻ってきたディアボロスの手には、一本の瓶があった。
「試してみろ」
師はライガのグラスに、淡い琥珀色の液体を注いだ。
「……酒か? しかし、この香りは」
ライガはグラスを口元へ運び、一口含んだ。
次の瞬間、目を見開く。
「まさか、蒸留酒か? しかも、俺が持ってきたものより遥かに洗練されている。美味い……何故だ?」
「酒は、仕込んでから寝かせることで、深みを増すものもある」
ディアボロスは自分のグラスにも酒を注いだ。
「お前が魔王国という名の器に酒を注げば、後の時代では味が変わる」
「……なるほど。いいことを聞いたよ」
ライガは、師の言わんとする意味を理解した。
今、自分が作り上げたものが、完成形とは限らない。
時代が変わり、人々が工夫を重ねれば、今よりも優れたものが生まれるかもしれない。
「だから持っていけ。今あるものが到達点ではないと知るためにな」
「いいのか? 貴重なものだろ?」
「ただし、これを超えるものを用意しておけ。冥王を倒した時の祝杯にするためにな」
「そりゃ、やりがいのある大仕事だな」
ライガは笑い、瓶を受け取った。
「実は他にもある。試すか?」
「そりゃ、断る理由はないだろう」
ディアボロスは新たな酒を取り出した。
師と弟子は、再びグラスを掲げる。
それは、まだ見ぬ未来へ向けた乾杯だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ディアボロスは、静かに目を開いた。
眼前には、ロウガがいる。
銀の髪に混じる蒼。強い意志を宿した琥珀色の瞳。その姿を見つめながら、覇王は胸の内で呟いた。
(ライガが作り上げた土壌から、再びこうした者が現れたか)
かつて、ライガは魔王国を統一した。
力によって争いを制し、その後に残されたものを守り、育てようとした男。
彼が魔王国に注いだものは、統一という結果だけではない。
酒もそうだった。
一度は失われた文化を掘り起こし、再び人々の手に取り戻した。
時を経て味わいを深める酒のように、彼が残したものもまた、時代を越えて変化しながら受け継がれていく。
ライガの時代が終わっても、その酒は消えなかった。
そして今、目の前にはロウガがいる。
(今の魔王国は、冥王という存在に侵されている。だが……土壌のすべてが腐り果てたわけではない)
戦乱は人を変える。
力を求める者もいれば、力に屈する者もいる。
かつての理想が失われ、残されたものさえ踏みにじられることもある。
それでも、すべてが失われたわけではない。
ライガが残したもの。その濃いエキスの一部が、こうしてロウガの中に生きている。
ならば、次へ渡せばいい。
未来がどのような形になるのか、ディアボロスにも分からない。
ロウガが何を選び、魔王国がどこへ向かうのか。それを今、決めつけることはできない。
それでも、託す価値はある。
「……さて、本心か……」
ディアボロスは低く呟いた。
ロウガに何を語るべきか。どこまで明かすべきか。
その答えを考えようとした、その時だった。
「失礼します、覇王様!」
陣幕の外から、慌ただしい声が響いた。
「かまわん。話せ」
「はっ!」
伝令兵が駆け込んでくる。息を整える間も惜しむように、彼は報告した。
「冥王軍を名乗る軍勢が現れました!これまでに確認された中で、最大規模の軍勢です!」
伝令兵は一度、生唾を飲み込んだ。
「敵将は――剛天明王!」
その名を聞いた瞬間、ロウガの表情が険しくなった。
「ついに、来たか……」
剛天明王。
冥王の派閥に下る以前は、魔王国最大の勢力を誇った存在だ。樹王を除けば、覇王が台頭するより前、魔王国最強と謳われた魔王でもある。
ディアボロスが冥王を目指して進む以上、いつかは必ず立ちはだかる相手だった。
「奴が自ら前線に出てきたということは……」
ディアボロスは腰を上げた。
「冥王軍がまとめて動かせる戦力も、これで最後ということだな」
覇王と冥王。その間に立ち塞がる、最後の大きな障害。
逆に言えば、剛天明王を倒せば、その先に残るものは冥王だけとなる。
戦争は、いよいよ終わりに近づいていた。
ディアボロスはロウガへと向き直る。
「ロウガ。話は戦いが終わってからにしよう」
ロウガは短く頷いた。
今は、目の前の敵に集中すべき時だ。
だが、ディアボロスの胸中には、もう一つの思いがあった。
剛天明王もまた、魔王国の歴史から生まれた存在。ライガという土壌から派生した者の一人でもある。
だからこそ、その行く末を見届ける責任がある。
敵として立ちはだかるのならば、全力で打ち倒す。
それもまた、魔王国を背負う者の務めだった。
覇王は歩き出す。
冥王との決着へ向けて、戦争の最終局面が動き始めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




