旅の記録(23)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオンハルトは、何も言わなかった。
ただ聖剣を握りしめたまま、静かに冥王を見つめている。
その足元から――一本の亀裂が走った。
一直線だった。
冥王の真下から、大地を裂きながら伸びていく。
冥王は逃げない。
いや。
逃げることすら、できなかった。
直後。
もう一本の亀裂が、大地を横切った。
地面が大きく割れる。
二本の亀裂が交差する。
巨大な十字。
その中心に、冥王がいる。
「……お前にくれてやる。死の十字架だ」
レオンハルトが呟いた。
すると、大地がさらに沈んだ。
十字に走った亀裂が、深く、深く沈んでいく。
それはもはや裂け目ではない。
冥王を地の底へ呑み込む、巨大な顎だった。
これこそが、レオンハルトの手にした聖剣の本質。
敵を斬るのではない。
逃げられる場所そのものを消し去る。
大地そのものを剣へと変える。
「……聖剣――」
レオンハルトが、聖剣を構えた。
「断罪・十字断裂!」
瞬間。
大地が、牙を剥いた。
冥王の身体が十字の裂け目へと引きずり込まれる。
抵抗する。
しかし、逃げ場はない。
直後。
十字の裂け目が、ゆっくりと閉じ始めた。
『……グオァァァァァァァァァ!?』
冥王の絶叫が、大地を震わせる。
まるで巨大な万力に挟まれたかのように、その身体が地面によって圧し潰されていく。
「……」
レオンハルトは、何も言わなかった。
何も感じなかった。
ただ。
ようやく終わる。
ようやく、冥王を葬ることができる。
そう確信した。
なのに――。
その光景は、ひどく殺風景だった。
十字に裂けた大地。
押し潰される冥王。
そして、それを見つめる自分。
そこにあるのは、ただそれだけだった。
まるで――。
意味のない風景そのもの。
その感情が、レオニスへと流れ込んでくる。
復讐を果たす。
それだけを求めて、ここまで来た。
それなのに。
その先にあったものは、何もなかった。
その時だった。
『……レオンハルト!』
「……っ」
レオンハルトの身体が、初めて大きく揺れた。
聞き間違えるはずがない。
忘れるはずがない。
かつて、共に戦った友。
そして――自らの前に立ちはだかった男。
冥王の身体から聞こえたのは。
確かに。
あの男――セレグナスの声だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『……レオンハルト!』
「……セレグナス!」
今度は、幻ではなかった。
確かに聞こえた。
大地の底から。
かつて共に戦った、友の声が。
レオンハルトは、身体を引きずるようにして十字の裂け目を覗き込んだ。
『……俺は、お前が憎い!』
声が響く。
『お前がいたから、リオネーラは……!』
レオンハルトの身体が止まった。
『……彼女は俺のものだった!』
『それなのに、お前がいたから……リオネーラの心は、俺だけのものにはならなかった!』
それは、セレグナスが隠していた感情だった。
憎悪。
嫉妬。
そして、愛情。
レオンハルトが知らなかった真実だった。
リオネーラは高位の神官の娘だった。
そしてセレグナスもまた、神官の家系に生まれた男だった。
二人の婚約は、親同士。
いや。
血統同士によって決められたものだった。
今の時代では、珍しいことではない。
もともとリオネーラを愛していたセレグナスは、その婚約を心から喜んだ。
だが――。
婚約を受け入れたリオネーラは、喜んではいなかった。
そこには、迷いがあった。
セレグナスは、その理由にすぐ気づいた。
そして婚約した後も。
リオネーラは、一人でレオンハルトに会いに行った。
『……お前に未練があったんだ!』
『リオネーラは、俺を心から愛してくれなかった!』
叫び声が、大地の底から響き続ける。
『だから俺は、冥王を受け入れた!』
『この世界は間違っている!』
『……そんな世界なら――』
『滅びてしまえ!』
「…………」
レオンハルトの目の前が、血の色に染まったように感じられた。
――俺のせいだったと言うのか。
――すべて、俺が悪いからこうなったと言うのか。
――俺が、すべての元凶だと言うのなら。
――俺は、どうすればよかった?
答えがあるのなら。
答えてみろ。
その声が、レオニスにははっきり聞こえた。
今まで聞こえなかった、レオンハルトの心の声だった。
冥王という悪を討った、その先。
待っていたのは、勝利の歓喜ではなかった。
理不尽な罵倒だった。
それでも。
レオンハルトは声を絞り出す。
「……俺を憎みたいのなら、気の済むまで恨め」
静かな声だった。
「……だが、お前のやったことは、紛れもない悪だ」
仮面の奥で、涙が流れた。
「……だから滅びろ」
「……気にせず、地獄へ行け。セレグナス」
一度、言葉を切る。
「……お前の言う通りなら、俺の行く先も地獄だ」
「……お互い、リオネーラには逢えないだろう」
「……彼女は、もう俺たちに微笑んではくれないだろう」
そして――。
レオンハルトの目の前で。
大地の十字架が、完全に閉じた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……レオンハルト」
静まり返った大地に、シャルバートの声が響いた。
レオンハルトは振り返る。
彼女は、少し離れた場所に立っていた。
「……君には感謝している」
レオンハルトの手には、まだ聖剣が残っている。
「すべて、君が与えてくれた」
聖剣を見つめる。
それは、命を燃やしてまで冥王へ挑むために与えられた力だった。
「……砕け、滅びるなら、それで構わんと思っていた」
声に悔いはなかった。
「……だが、どのみち終わりだな」
レオンハルトは、自らの身体を見下ろした。
継ぎ接ぎだらけの身体。
冥王との戦いで失った手足。
もう、人間だった頃の姿には戻れない。
「……この仮初の命も、長くはないだろう」
そして、静かにシャルバートを見る。
「……どうせ消える命だ」
「俺に、何かできることはあるか?」
シャルバートは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく首を横に振る。
「……何も、ありません……」
「……そうか」
レオンハルトは目を伏せた。
「……未練だったな」
その言葉には、ほんの少しだけ残念そうな響きがあった。
だが――。
『……見事なものだ!レオンハルトとやら!』
「……!?」
空気が震えた。
「……冥王!?」
姿はない。
それでも、その声だけははっきりと聞こえた。
『……何も得られなかった男よ』
『余から褒美をやろう』
『余は、この世界よりしばらく去る』
「……何!?」
『そして、余が舞い戻るまで――』
大地の底から、黒い何かが滲み出した。
『死の呪いをくれてやろう』
『次に余が舞い戻るまで、世界は苦しむ』
『多くの者が死ぬだろう』
「……貴様――っ!」
『しかし、残念だ』
冥王の声が、愉快そうに響く。
『勝者となったお前の顔を、もう見られないとはな』
笑い声が、大地に木霊した。
その時だった。
「……ならば」
テレサが、一歩前へ出た。
「お前は、私たちの永劫の敵だ!」
冥王の笑いが止まる。
「……お前が何度蘇っても、私は勇者をその度に送り込む!」
小さな身体で、テレサは冥王へ言い放った。
「勇者は滅びない!」
「何度でも、蘇る!」
『……ほう』
冥王は、嘲笑うように答えた。
『しばしの別れだ!』
『余は何度でも蘇る!』
そして――。
声が消えた。
「…………」
残された者たちは、誰も言葉を発しなかった。
レオニスは、その光景を見つめていた。
歴史の始まり。
勇者と冥王。
繰り返される戦い。
その最初の一歩が、今ここに刻まれた。
(これが……勇者の儀の、はじまりなのか)
レオニスは、まだすべてを理解していたわけではない。
それでも。
ひとつだけ、確かに辿り着いた。
後世に語り継がれる、勇者と冥王の因縁。
その歴史は――。
この場所から、始まったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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