旅の記録(13)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「かつての帝國は、そのような姿でした」
エメラルダスは静かに語った。
「他国を物の数ともしないほどの強大な力を持ち、力によって支配する。それこそが争いのない世界を作るのだと」
それは、理想だった。
少なくとも、その時代を生きた者たちにとっては。
「しかし、その強固な理念も、時代が変わり、力を持つ者が変われば、砂のように脆くなります」
エメラルダスの黒い瞳が、シャルバートを見つめる。
「敵を容易く排除できる力が傍にあれば、その誘惑に勝ち続けることは困難でしょう」
力を使えば、簡単に問題を解決できる。
それを何度も繰り返せば、やがて人は思い始める。
力を使うことが、当然なのだと。
「それが、自分たちに与えられた当然の権利のように感じるようになってしまえば……なおさらです」
「……」
シャルバートは答えなかった。
その言葉は、彼女自身が求めている力にも向けられている。
レオニスの胸にも、エメラルダスの言葉は深く突き刺さっていた。
物語の中では、語られないことがある。
勇者の伝承は、悪しき魔王を倒して終わる。
魔王が倒れれば、世界には明るい未来が訪れる。
後世の聞き手も、物語を読む者も、その先にあるものを自然とそう想像する。
(……確かに。現実は違う……)
巨大な力を持つ者が倒れても、その力そのものまで消えるとは限らない。
それを正しい心で持ち続ければいい。
そう考えることはできる。
だが、生命には等しく寿命がある。
今の使い手がいなくなった後、その力を次の世代が正しく使う保証などない。
あるいは、力を持つ者自身の心が変わらないとも限らない。
かつて正義のために生み出された力が、後の時代では悪意のために使われる。
そんな物語は、決して珍しくない。
そして、そこから語られる教訓もまた同じだ。
身に余る力は、いつか己自身を滅ぼす。
(……エメラルダスという人は、そこまで考えろと言っている……)
レオニスには、反論できなかった。
「シャルバート」
エメラルダスが、シャルバートへ向き直る。
「私は一つの答えを、貴方に示します」
その声には、一切の迷いがなかった。
「あなたが“聖録”を見て力を得た場合――帝國がそれを悪しきものと判断したなら、全力でそれを討ちます」
「!?」
「かつて世界を救った。そんな過去のことなど関係ありません」
「……」
「たとえ、貴方が私の妹であろうと」
エメラルダスの表情は変わらない。
「その時は、迷わず敵対します」
「……姉さん」
「それが、力を渡す者の譲ってはならない部分だと、私は考えています」
それは、脅しではなかった。
エメラルダス自身と、ヴァース帝國が背負う覚悟だった。
力を与える。
力を認める。
だからこそ、その力が道を外れた時には、与えた側が止めなければならない。
レオニスは、その言葉の意味を理解し始めていた。
なぜ、彼の時代の帝國が王国の勇者を敵視しているのか。
それは、単なる憎しみではない。
かつてエメラルダスが示した理念。
その覚悟が形となり、時代を越えて受け継がれた結果なのだと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……姉さんは、危険な力を止めるために、帝國という巨大な力を使う。それもまた同じことだと理解しているのですね」
シャルバートは、そう言った。
エメラルダスという人間を知っているからこそ、口にしなければならなかった。
「……もし、帝國が悪しき者だと判断できるのであれば、迷わず討ちなさい」
「そんな帝國の存続に、意味などありません」
エメラルダスは淡々と答えた。
「その時代で最も正しき理念に滅ぼされるなら、それも理でしょう」
僅かに、黒い瞳が細められる。
「何といっても、古今東西、悪しき国が栄えた歴史はありません」
「……」
その言葉を聞いたシャルバートは、静かに息を吐いた。
「……姉さんが、皇妃で良かった」
その声には、安堵があった。
同時に、自分には到底できないという諦めも混じっていた。
「私は、そこまで帝國や世界を割り切って考えることはできません」
シャルバートは苦笑する。
「私は、目の前にいる苦しんでいる人々を、自分の力で救えるのなら救いたい。そう考える、平凡な思想ですから」
その言葉の後、シャルバートはレオンハルトを見る。
仮面に覆われた顔。
それでも、その男が何を決意しているのかは分かった。
「……皇妃エメラルダス」
レオンハルトが口を開いた。
「貴方の言葉は、俺なりに理解したつもりです」
低く、落ち着いた声だった。
「それでも、冥王を俺は見過ごすわけにはいかないのです」
レオンハルトは、深く頭を下げた。
「“聖録の写本”の閲覧を、シャルバートに許していただけますよう、お願いします」
そして、続ける。
「俺が間違った時は、躊躇なく討っていただいてかまいません」
「……」
「そして、俺が冥王を討った後は、その力を捨て、この世界を去りましょう」
迷いのない言葉だった。
「元より、俺はそれだけのために、今も生きながらえているのです」
それが、レオンハルトの覚悟だった。
だが――。
「……」
エメラルダスから、返答はない。
沈黙だけが続いていた。
(……どうなる)
レオニスには、その時間がひどく長く感じられた。
だが、レオニスが見ているのはレオンハルトの記憶に過ぎない。
レオンハルトが見ていない場所にいるエメラルダス。
その表情までは、見ることができなかった。
どれほどの時間が流れたのかも分からない。
やがて――。
エメラルダスが、沈黙を破った。
「シャルバート」
その声は静かだった。
「貴方が、帝國の皇族に連なる人間として責任を取りなさい」
「!?」
「この者の言葉に、偽りはなさそうです」
それでも、エメラルダスの意志は変わらない。
「ですが、私が示したことも曲げるつもりはありません」
エメラルダスは、妹をまっすぐ見据える。
「“聖録の写本”を閲覧し、貴方が彼に力を与えるというのであれば――」
その言葉には、皇妃としての命令にも似た重みがあった。
「責任を果たしなさい」
「……」
「シャルバート・ウル・ヴァース」
名を呼ばれ、シャルバートの表情が強張る。
「……私に、レオンハルトの監視者になれと?」
「その通りです」
エメラルダスは答えた。
力を求める者だけではない。
力を与える者にも、責任がある。
それを、彼女はシャルバートにも求めていた。
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