象徴
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おい、なんでレックスたちを行かせた」
ガロードが低く唸る。
琥珀色の瞳が、デルタを睨みつけていた。
ガロードには分かっていた。
デルタなら――
追撃できた。
だが男は動かなかった。
デルタは軽く肩をすくめる。
「邪魔することは出来たよ」
静かな声だった。
「でもね」
「君に与えられる被害も無視できない」
「だから遠慮したんだ」
まるで散歩の話でもするような口調。
その余裕が、ガロードの神経を逆撫でした。
「……あっちにいるシグマという同僚はね」
デルタが遠くの礼拝堂の方をちらりと見る。
「とにかくサディスティックな奴でね」
口角がわずかに上がる。
「まあ、僕と似たような強さだ」
「ちっ」
ガロードは舌打ちした。
つまり、こういうことだ。
デルタを早く倒さないと、レックスが危ない。
わざとだ。
この男は、それを理解したうえで言っている。
精神を揺さぶるために。
「そして」
デルタが続ける。
「君さえ倒せば、追撃してシグマと挟撃すればいい」
氷のような瞳が細められる。
「その方が確実だろう?」
―― やっかいな相手だ。
ガロードは奥歯を噛んだ。
デルタは格上だ。
だがそれ以上に厄介なのは――
油断が一切ない。
慢心もない。
ただ冷静に、相手を殺すことだけを考えている。
プロだ。
―― レックス。
ガロードの胸に一瞬、弟分の顔が浮かぶ。
―― 死ぬなよ。
「退くつもりはないんだよな」
ガロードが低く言う。
デルタは静かに笑う。
「もちろんだよ」
一歩前に出る。
「謹んでお断りする」
次の瞬間。
ガロードが咆哮した。
「――オォォッ!!」
床石が砕ける。
狼のような速度で、ガロードが突っ込んだ。
デルタも同時に踏み込む。
互いに接近格闘型。
次の瞬間。
空中で――
蹴りがぶつかった。
ドンッ!!
衝撃波が礼拝堂の外壁を震わせる。
炎と氷。
そう表現するしかない。
ガロードの蹴りは荒々しく重い。
デルタの蹴りは鋭く、正確だった。
二人の脚が交差する。
蹴り。
回し蹴り。
膝。
肘。
一瞬で十合以上の攻防が交錯した。
「早い……!」
ガロードが唸る。
デルタは最小動作で動く。
無駄がない。
ガロードの拳を、身体に触れる直前で弾き落とす。
「想像より重いな」
デルタは平然と言った。
「今回で三度目だ」
拳と拳がぶつかる。
「だから君の力は十分に評価している」
ガロードの拳を流しながら、デルタは続けた。
「戦士としては一流だろう」
「……てめえ」
ガロードが踏み込む。
だが。
デルタの手が伸びた。
右腕を――
掴む。
その瞬間。
空気が歪んだ。
ガロードの耳が、わずかな音を捉える。
――危険。
本能が叫んだ。
「!?」
ガロードは無理やり身体を引く。
だが。
遅い。
爆ぜる音。
肉が裂けた。
空気が焦げる匂いが広がる。
「……ッ!!」
ガロードが後退する。
右腕から血が流れていた。
デルタはその血を見つめる。
「君の血の匂い」
静かに言う。
「嫌いじゃない」
ガロードが腕を押さえる。
傷は深い。
「僕の刻印兵装はね」
デルタが掌を見せた。
「密着しないと威力が出ない」
「いいのかよ」
ガロードが睨む。
「自分の武器の秘密、喋って」
デルタは笑う。
「いいさ」
氷青の瞳が細められる。
「僕は手札を晒しても」
一歩踏み出す。
「強いよ」
―― こいつは危険だ。
ガロードは理解した。
背後の礼拝堂から、激しい戦闘音が響いてくる。
壁が震える。
シグマとレックスの戦いだ。
だが。
今は目の前の敵だ。
デルタが静かに構える。
「続けようか」
城壁前の戦いは――
デルタ有利で始まっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
礼拝堂の大扉が砕けるように開いた。
その中央に、レックスは立っていた。
息は荒い。
だが、その紅い瞳は真っ直ぐ前を見据えている。
その視線の先――
そこには、黒鉄の鎧を纏った女がいた。
血のような深紅のマントが、ゆらりと揺れる。
戦闘種族。
シグマ。
その背後には、礼拝堂の奥で息を呑むエルディナの姿があった。
「エルディナ様! ご無事ですか!」
少年の声が礼拝堂に響く。
「……はいっ!」
震える声。
しかしその顔には、安堵が浮かんでいた。
来てくれた。
レックスが。
その光景を見て、黒鎧の女がゆっくりと首を傾ける。
「何だ、お前は」
声は柔らかい。
だが、底に潜む嘲笑は隠そうともしない。
レックスは棍棒を構えた。
「……デルタの言ってた、帝國の戦闘種族か」
シグマの口元がわずかに歪む。
「邪魔だ」
次の瞬間――
消えた。
視界から完全に。
「遅いのよ」
背後。
声がした瞬間。
レックスの身体は反射で動いた。
棍棒を振り向きざまに叩きつける。
―― キィン!!
二つの刃が、火花を散らす。
左右から振るわれた魔剣が、同時に棍棒へ食い込んでいた。
シグマの目が、わずかに細まる。
「……何、それ」
鉄すら両断する刃。
それが、少年の棍棒を斬れない。
レックスは答えない。
彼自身も、この武器の異様な耐久を完全には理解していない。
だが――
今はどうでもいい。
「エルディナ様!」
叫ぶ。
「皆を連れて脱出を!」
そのまま踏み込み、棍棒を突き出す。
だが。
シグマは軽く身体を捻った。
まるで舞うように。
攻撃は空を切る。
その瞬間。
チッ。
頬に小さな痛み。
「……!」
レックスが後退する。
一拍遅れて。
赤い血が頬を伝った。
「レックス!」
エルディナの悲鳴。
シグマは、すれ違いざまに剣先で頬を撫でただけだった。
それだけ。
それだけで、血が流れる。
レックスの背筋が冷える。
シグマは剣先を眺めながら、楽しげに呟いた。
「なるほど」
「血が出るのね」
「物の怪ではない、と」
―― キィン。
遅れて、音。
レックスの背後の石柱が、斜めに滑り落ちた。
切断面は鏡のように滑らかだった。
「武器の問題ではなさそうね」
シグマが微笑む。
次の瞬間。
嵐が来た。
左手の剣だけ。
それだけで、凄まじい連撃が降り注ぐ。
音がない。
風切り音すらない。
だが。
レックスは、動いた。
避ける。
弾く。
受ける。
棍棒が火花を散らす。
シグマの瞳が、僅かに見開かれた。
「……童の太刀筋を追えるのか」
興味。
純粋な、戦闘への興味。
だがレックスには分かる。
この女は――
自分を敵だと思っていない。
狩りだ。
獲物だ。
娯楽。
それでも。
レックスは退かない。
浅い傷が増える。
肩。
腕。
脇腹。
血が床に落ちる。
それでも、棍棒は止まらない。
「すごい……どうして……」
遠くでエルディナが呟く。
彼女の隣で、老貴族が静かに言った。
「間合いだ」
アルドリック・ヴァルハイト侯爵。
鋭い目で戦いを見ている。
「肩の振り、腕の長さ、剣の軌道」
「それを読んで避けている」
だが。
侯爵の表情は険しい。
「しかし……」
レックスの攻撃は。
一度も当たらない。
シグマは、軽く避け続けている。
「……面白いじゃない」
瞬間。
血が弾けた。
レックスの左肩。
深く斬られる。
「くっ……!」
シグマの笑みが深くなる。
「いいわ」
「もっと踊りましょう?」
レックスは歯を食いしばる。
そして叫んだ。
「早く行け!」
「エルディナ!」
声はもう、少年のものではない。
戦場の声だった。
「男爵領の人たちが危ない!」
礼拝堂に沈黙が落ちる。
そして。
侯爵が静かに言う。
「行きなさい」
「エルディナ・ヴァルディア」
「彼の覚悟を、無駄にするな」
エルディナは震えながら立ち上がった。
「……はい」
そして走り出す。
礼拝堂の外へ。
シグマが剣を掲げた。
「逃げられるとでも?」
雷が集まる。
「させるか!」
レックスが踏み込む。
全力の突き。
だが。
シグマはわずかに頭を傾けた。
回避。
そして――
「死ね」
雷光が放たれる。
「エルディナ!!」
だが。
バチッ。
空中に魔法障壁が現れた。
雷が弾け散る。
「今だ! 走れ!」
侯爵の刻印魔法。
エルディナは振り返らない。
そのまま戦場へ走り去る。
やがて礼拝堂に残ったのは。
二人。
レックス。
そして。
シグマ。
黒鎧の女は、愉快そうに笑った。
「羽虫を逃がす褒美よ」
「童を楽しませよ」
赤紫の瞳が細くなる。
「できなければ――」
「羽虫が死ぬだけ」
レックスは棍棒を握り直す。
震えは止まっていた。
勝てない。
それは分かっている。
だが。
負けるとは、まだ決まっていない。
レックスは小さく息を吐く。
紅い瞳が、鋭くなる。
戦いは。
ここからだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
礼拝堂の外へ出たエルディナを、二人の侍女が迎えた。
「エルディナ様、ご無事で……!」
クラリッサとミレイユが同時に駆け寄る。
二人の顔には明らかな安堵が浮かんでいた。
「大丈夫です」
エルディナは静かに微笑み、二人を安心させるように頷いた。
だがその目はすでに、礼拝堂の外――
煙と怒号が上がる城内へ向けられていた。
「状況を」
近くにいた衛兵へ短く告げる。
「はっ!」
兵士は敬礼し、すぐに報告を始めた。
「現在、ルシアン殿が指揮をとり帝國軍の侵入を食い止めております」
「しかし……戦況は芳しくありません」
兵士の声は重かった。
「城壁の破壊による混乱、奇襲による士気低下」
「さらにグレイヴァス閣下が重傷を負われ、指揮系統が……」
そこまで聞いたところで、エルディナは侍女たちへ振り返る。
「鎧と兜を」
「……はい!」
クラリッサとミレイユはすぐに動いた。
程なくして、軽装の騎士鎧が運ばれてくる。
エルディナは迷いなく袖を通した。
金糸の髪をまとめ、兜を被る。
腰にレイピアを差した。
「お父様」
エルディナは父、アルベリオ・ヴァルディアを見た。
「わたしが陣頭指揮をとります」
その言葉に周囲がざわめく。
だがエルディナは続けた。
「叔父様は重傷です」
「レオナルト様も戦線離脱」
「今、指揮系統を立て直さなければ――」
「ヴァルディアは墜ちます」
アルベリオはしばらく娘を見つめていた。
そして、短く頷く。
「……わかった」
「お前に全権を託す」
迷う時間はなかった。
「エルディナ様、馬の用意ができました!」
兵士が軍馬を引いてくる。
エルディナは鐙に足をかけ、軽やかに馬上へ上がった。
だが――
手綱を握る手が、わずかに震える。
胸の奥が冷たい。
怖い。
戦場に向かうのは初めてではない。
それでも、恐怖は消えない。
逃げたい。
そんな感情が胸をよぎる。
そのとき。
―― 早く行け、エルディナ!
―― 男爵領の人たちが危ない!
レックスの声が脳裏によみがえった。
命を懸けて、彼は自分を行かせてくれた。
ならば。
応えなければならない。
エルディナは息を吸った。
震えは止まる。
青い瞳がまっすぐ前を向いた。
「行きます!」
軍馬が駆け出した。
向かう先は――戦場。
ヴァルディア内城門前。
石畳の広場は、すでに戦場と化していた。
剣戟の音。
怒号。
逃げ惑う住民。
帝國軍が押し寄せ、ヴァルディア兵が必死に食い止めている。
「隊列を崩すな!」
鋭い声が響いた。
ルシアン・ヴァルツァー。
若き騎士隊長が剣を振るいながら叫ぶ。
だが状況は悪い。
兵は散り、陣形は崩れていた。
このままでは崩壊する。
―― まずい。
ミレーネは舌打ちした。
「隊列を立て直せ! 狼狽えるな!」
そのときだった。
戦場に、よく通る声が響いた。
「ヴァルディアの兵士たち!」
ミレーネが振り向く。
そこにいたのは――
「エルディナ様……!」
軍馬にまたがる少女。
軽鎧を纏い、レイピアを掲げる姿。
金色の髪が戦場の風に揺れる。
まるで戦乙女だった。
「ヴァルディア男爵領の兵士たちよ!」
エルディナの声が戦場を貫く。
「我らの民を守りなさい!」
「暴力に屈してはなりません!」
「帝國を追い出すのです!」
剣が掲げられる。
その姿を見た瞬間。
兵士たちの顔が変わった。
「令嬢様が……前線に!?」
ざわめき。
そして――
歓声。
エルディナは領民に愛されていた。
その令嬢が。
逃げず。
前線に立ち。
共に戦う。
それだけで兵の士気は跳ね上がった。
「隊列を再編する!」
ルシアンが叫ぶ。
「押し返すぞ!」
剣が振るわれる。
ヴァルディア兵が前へ出る。
帝國軍が押し返され始めた。
ミレーネは小さく笑う。
「……本当に」
剣を抜いた。
「無茶な令嬢ですね」
そして駆け出す。
「護衛泣かせですよ、エルディナ様」
銀髪が風を切る。
その横で、ルシアンが静かに呟いた。
「……この方こそ」
「男爵領の未来でしょう」
戦場の流れが変わり始めていた。
ヴァルディア男爵領軍は――
帝國軍を押し戻しつつあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「こいつは……」
帝国軍の戦列を見渡しながら、デルタは小さく呟いた。
軍人としての経験が告げている。
戦場の流れが変わった。
理由は明白だった。
城門広場の中央。
軍馬にまたがり、剣を掲げる少女。
エルディナ・ヴァルディア。
「あの娘か」
デルタは静かに息を吐く。
作戦でも戦術でもない。
だが、戦場では時として最も危険な要素。
―― 象徴。
兵士たちの目に、明らかな光が戻っている。
ヴァルディア兵は押し返し始めていた。
帝国兵がじりじりと後退している。
「……面倒だね」
デルタは舌打ちした。
計算外。
だが、馬鹿にはできない。
このままでは戦線が崩れる。
ならば――
早く終わらせるしかない。
視線を戻す。
目の前にいるのは、銀髪の少年。
ガロード。
同時に。
ガロードも戦場の変化に気づいていた。
遠くで響く歓声。
ヴァルディア軍の士気が上がっている。
「……エルディナ様、やるじゃねえか」
小さく呟く。
状況は同じだ。
お互い、急ぐ必要がある。
レックスを救うために。
帝国軍を救うために。
互いの目的が、剣のようにぶつかる。
そして次の瞬間。
二人は同時に動いた。
ガロードが地面を蹴る。
デルタも前へ出る。
正面衝突。
拳と掌がぶつかる。
衝撃が石畳を震わせた。
「速いね」
デルタの声は静かだった。
だが、その掌が閃く。
魔力を帯びた打撃。
ガロードが腕で受ける。
衝撃。
骨が軋む。
「……ッ!」
ガロードの体が吹き飛ぶ。
地面を転がり、すぐに立ち上がる。
だが。
次の瞬間には、もうデルタが目の前にいた。
掌打。
肘。
蹴り。
無駄がない。
まるで機械のような連撃。
ガロードは反撃する。
拳を叩き込む。
だが――
軽く躱される。
「残念だ」
デルタは淡々と言った。
「君は強い」
「でも、まだ壊れる瞬間が見える」
掌がガロードの腹に触れる。
爆ぜた。
魔力の爆発。
衝撃が体内を揺らす。
「ぐッ……!」
ガロードの膝が沈む。
血の味が口に広がる。
デルタは静かに微笑んだ。
「壊れる瞬間の表情が好きなんだ」
拳が振り下ろされる。
ガロードはかろうじて腕で受ける。
だが、防ぎきれない。
打撃。
衝撃。
ダメージが蓄積していく。
視界が揺れる。
膝が震える。
その時。
―― ガロード。
師の声が、脳裏に響いた。
オルグラート。
滅多に教えない武の師。
だが、時折。
ぽつりと核心を突く言葉を残す。
―― お前は、お前を理解しておらん。
あの巨大な男はそう言った。
―― お前の血は、魔王国でも自由を愛した銀狼族の末裔。
―― 奴らは捕まえられぬ。
―― 疾風だ。
視界の端で、デルタが動く。
次の一撃。
その瞬間。
ガロードの口元に、笑みが浮かんだ。
口の中は血の味なのに。
笑っていた。
「……そうかよ」
地面を蹴る。
大きく後ろへ跳んだ。
石畳を削りながら距離を取る。
デルタは追わない。
静かに観察している。
「逃げるのかい?」
「違う」
ガロードは息を吸った。
胸いっぱいに空気を取り込む。
背筋が伸びる。
肩が落ちる。
全身の力を抜く。
そして。
大きく咆哮した。
狼の遠吠えのような声。
「俺は――」
銀髪が風に揺れる。
琥珀の瞳が光る。
「疾風だ!」
瞬間。
心臓が跳ね上がった。
ドクン。
ドクン。
血が駆け巡る。
本能が解放される。
風が巻き起こる。
砂塵が舞い上がる。
デルタの目が、わずかに見開かれた。
「……なるほど」
その瞬間。
ガロードの姿が――
消えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




