旅の記録(10)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それならば、原典の所在は分からないのか?」
レオンハルトが問う。
それは、当然の疑問だった。
(確かに……)
レオニスも同じことを考えていた。
(写本があるのなら、原典が存在するのは道理だ)
だが。
「どこかに存在するのでしょう」
シャルバートは静かに答えた。
「ですが、私も所在は知りません」
「……」
「そもそも、その写本ですら、どこから来たものなのか未だに謎なのです」
シャルバートの口調は淡々としていた。
まるで、当然の事実を語っているだけだった。
だが、レオンハルトには、もう一つ確認すべきことがあった。
「……シャルバート」
「はい」
「君は、八割を読んだと言っていたな?」
「……はい」
「ということは」
レオンハルトは、シャルバートを真っ直ぐ見た。
「その写本が、どこにあるのかは知っているのだな?」
道理だった。
原典の所在が分からなくても。
写本は、この世界のどこかに存在している。
そしてシャルバートは、その内容を実際に読んだ。
「では、もう一つ問いたい」
レオンハルトは続ける。
「なぜ、残りを読まなかった?」
(……レオンハルトの言う通りだ)
レオニスも、その疑問に行き着いていた。
シャルバートは「記憶しようとして目にしたものは忘れない」と言った。
そして実際に、読んだ内容を記憶している。
それなのに八割しか知らない。
自ら読むことを止めたとは考えにくい。
何か理由がある。
「君は、アウレリアに聖弓の模造品すら与えている」
「……」
「決して、自ら読むことを止めたわけではないのだな?」
「そうですね」
シャルバートは、静かに頷いた。
「あなたの指摘なさった通りです」
そして、小さく溜息をつく。
「私が止めたわけではありません」
「……では?」
「理由は単純です」
シャルバートは、少しだけ目を伏せた。
「読めなかったのです」
「読めなかった?」
「勘違いなさらないように」
シャルバートは、ゆっくりと手を上げる。
「写本は、一つではありません」
そして五本の指を立てた。
「……五冊?」
「はい」
五本の指が、静かに示される。
「写本は五冊の本に分けられています。最後の一冊は、読むことを許されませんでした」
「……」
「私が読むことができたのは、残り四冊です」
(……そういうことか)
レオニスは納得した。
八割。
それは、シャルバートの記憶能力を示す数字ではなかった。
五冊に分けられた写本。
そのうち、読めたのが四冊。
だから八割。
シャルバートは嘘をついていない。
「……では」
レオンハルトが、低く呟く。
「残り一冊があれば……」
言葉が途切れる。
だが、その先にあるものは明白だった。
冥王を打ち破る力。
それに、限りなく近づける。
その可能性が、まだ残されている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……君の感想で良い。どのようなことが危険なのだ?」
レオンハルトの問いに、シャルバートは少しだけ沈黙した。
「……レオンハルト。聖録の写本は、単純な善悪という価値では量れないものです」
「……善悪では、量れない?」
「その力は、分け隔てなく万人に使うことが可能です」
シャルバートは目を伏せる。
レオニスには、その真意までは見えなかった。
ただ、強大な力だというだけなのか。
そう考えた時、シャルバートが静かに続ける。
「……私が危険だと思う部分の一つは、この力は与えられる時に対価を求めないことです」
「何?」
「試練によって力を得る。修行によって力を得る。それ自体は、当然のことだと私は考えています」
レオンハルトにとっても、それは理解できる話だった。
武人ならば、力を得るために鍛える。
命を懸けて試練に挑む。
その過程で何かを失うことさえ、覚悟の内だ。
しかし。
「危険なのは、得るために対価が不要という部分です」
「……」
「ですが、使う時には対価を求めてくる。そう解釈することもできます」
シャルバートが、レオンハルトを見る。
「これは、危険だと思いませんか?」
「……確かにな。危険な話だ」
力を得る時には、何も求められない。
だが、その力を使う時になって初めて、代償を要求される。
それは、あまりにも残酷な仕組みだった。
たとえば。
レオンハルトが冥王を倒すための力を欲したとする。
その力は、何のリスクもなく手に入る。
だが、いざ冥王を倒すために使おうとした瞬間。
途方もない代償を要求される。
そして、それを支払わなければ力は使えない。
最も必要な瞬間になって、それを知る。
それは力を得た者に、とてつもない絶望を与えるだろう。
(……ただ、この解釈には頷けない部分がある)
レオニスが知るアウレリアは、聖剣を振るうたび、そのような危険を抱えているようには見えない。
シャルバートの言葉が正しいのなら。
何度も聖剣を使っているアウレリアに、何らかのリスクの兆候が現れていても不思議ではない。
(……謎かけでもない。だが、やはり何か隠されたものがあるのか?)
聖録の写本。
そこには、一体何が隠されているのか。
レオニスが考える中、シャルバートは別の話を続けた。
「レオンハルト」
「……何だ?」
「貴方が求めるならば、素材さえ揃えば、時間はかかりますが――」
シャルバートは静かに告げる。
「アウレリアの“聖弓”に匹敵するものなら、与えても良いのですよ」
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