旅の記録(6)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオンハルトは、失っていく。
無二の親友と、心の底から信じた男を。
誰よりも愛しいと思った女性を。
守りたかった人々を。
平和を。
そのすべてを奪われても、身体は動かない。
拘束されたまま、膝をつくことすら許されない。
気を失うこともできない。
目を閉じることさえ許されない。
人々が冥王の前で、まるで玩具のように砕かれていく。
その光景を。
ただ見続けることだけを強要される。
(なぜだ……)
(なぜ、こんなことをする!)
普通ならば、とうに心が壊れていてもおかしくない。
レオンハルトは、それでも耐えていた。
だが、耐えることすら苦痛だった。
地面を這い、許しを請う者たち。
慈悲を求める者たち。
その姿を、冥王は塵芥を見るような目で見下ろしている。
命そのものが、取るに足らないものとして扱われていた。
(こんなことに……何の意味がある!)
その問いが、胸の奥で燃え上がる。
恐怖よりも。
絶望よりも。
怒りが強かった。
劫火のような憎悪が、レオンハルトの心を焼き尽くしていく。
『ははは!己の身の程を思い知れ!!』
冥王の嘲笑が響いた。
レオンハルトは顔を上げる。
「……答えろ!」
声が震える。
それでも、言葉は止まらない。
「“冥王”っ!」
その瞬間だった。
レオンハルトの身体を縛っていた力が、わずかに揺らいだ。
そして――。
人間であるレオンハルトが、自らの力だけで拘束の一部を打ち破った。
『意味だと!?』
冥王の声が響く。
『何も分からぬくせに!』
拘束が一気に強まった。
骨が軋む。
身体が捻じ切られそうになる。
それでも。
レオンハルトは悲鳴を上げなかった。
『“意味”という言葉の意味すら分からぬくせに!』
「……っ!」
レオンハルトは睨み返す。
『これは――“神饌”だ』
「……なに……?」
『余だけに許された、人の差し出す生命という供物』
冥王は笑う。
『それを神食する。当然の行いだ』
「……き……さま……」
レオンハルトの瞳に、再び炎が宿る。
「それが……貴様の……本当の……」
言葉が続かない。
だが、心は決まった。
動かない右手。
その拳を、レオンハルトは握り締める。
震える腕を、強引に動かす。
そして――。
右足を、一歩。
地面へ踏み出した。
『逆らうというのか!?』
冥王が叫ぶ。
『勝てぬぞ!』
(こいつだけは……許せん)
(すべてを失っても――屈するわけにはいかん!)
レオンハルトは、さらに左足を前へ出した。
一歩。
また一歩。
天上にいる冥王へ、届かないことなど分かっている。
それでも。
レオンハルトは前へ進む。
勝つためではない。
逃げるためでもない。
ただ――反逆するために。
『ははは!バカめ!』
冥王は、その姿をただ嘲笑した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして――。
レオンハルトに、当然の結果が訪れた。
「――風?」
周囲を、穏やかな風が流れている。
強くはない。
むしろ、奇妙なほど静かな風だった。
だが。
レオンハルトは、それを感じ取った瞬間、喉の奥から込み上げてきたものを耐え切れず吐き出した。
「――がっ……!」
口から溢れたのは、ドス黒い液体。
血だった。
「……なんだ、これは……毒か……」
レオンハルトは理解する。
天から舞い落ちている。
鱗粉にも似た、微細な何か。
それが空気へ混じり、周囲そのものを毒へ変えていた。
口だけではない。
目からも。
耳からも。
黒い血が流れ落ちる。
それでも、レオンハルトの目だけは死んでいなかった。
冥王を睨みつける。
屈服しない。
それを嘲笑うように、冥王は何もしなかった。
ただ、風が変わる。
「――ぐっ!?」
次に吹き抜けたのは、熱風だった。
呼吸するだけで、喉の奥が焼ける。
肺が焼ける。
レオンハルトの鎧が、急激に熱を持ち始めた。
熱が鎧を通り抜ける。
服が燃える。
そして――。
皮膚が焼けた。
肉が焼けた。
全身が、一斉にどす黒く焼け爛れていく。
炎がレオンハルトの身体を包み込む。
「――め……冥王……」
焼け落ちていく肉体。
その瞳だけが、最後まで冥王を睨んでいた。
これまで積み重ねてきた修練。
幾多の戦場を生き抜いた経験。
最強の戦士と呼ばれるに至った肉体。
そのすべてが。
ただの炎によって、炭へと変えられていく。
(……レオンハルト)
レオニスには、分かっていた。
これは記憶の中の出来事だ。
何もできない。
手を伸ばすことも。
声を掛けることも。
この運命を変えることもできない。
(……しかし、この状況は……)
レオニスから見ても、起死回生など存在しない。
完全な敗北。
死を待つしかない。
――それでも。
レオニスは知っている。
目の前にいる男が、後世で“原初の勇者”と呼ばれる存在だということを。
この男が、ここで終わるはずがない。
それは、既定の事実だった。
だからこそ――。
異変が起こった。
『ぐおっ!?』
遠くから、一条の光が飛来した。
それは瞬きよりも速く、空を裂き――。
冥王の身体を貫通した。
初めてだった。
それまで何者をも見下していた冥王の貌に。
苦悶の表情が浮かんだ。
(……誰だ!?)
レオニスは、光が飛んできた先を見る。
だが。
レオンハルトの視界からは、その人物の姿を確認することができなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして――。
目の前が、闇になった。
「――ここは、俺は……」
そこまで呟いたところで、意識が途切れる。
次にレオンハルトが目を覚ました時。
そこには、見知らぬ天井があった。
「……?」
視線を動かす。
身体は重い。
まともに動かすことすらできない。
「ああ、目を覚ましたんだ」
不意に、女の声が聞こえた。
「怪物のような生命力だね、君。あれで助かるなんて」
「…………」
レオンハルトは声のした方を見る。
だが、その瞬間だった。
レオニスの中に、奇妙な感覚が走った。
(……この声……?)
聞き覚えがある。
いや。
正確には――。
知っている。
そう思った瞬間、レオニスの背中から汗が噴き出したような錯覚が走った。
(……知っている)
(だけど、ありえない……)
(……あってはならない。そんなことは……)
レオニスは知っていた。
この声を。
この気配を。
忘れることなど、できるはずがない。
それほどまでに、その人物はレオニスにとって大きな存在だった。
感じるはずのない動悸が、激しくなる。
そして――。
声の主が、レオンハルトの前へと歩いてくる。
レオンハルトの黒い瞳が、その少女へ向けられた。
その顔が、はっきりと見える。
レオニスにも、その貌が映った。
(……何だよ、これ……)
知らない顔だった。
少なくとも、レオニスの知る当人ではない。
だが。
それでも理解できてしまう。
あまりにも似ている。
目元。
輪郭。
表情。
細かな違いこそある。
それでも――。
(……アウレリア……!?)
レオンハルトを覗き込んでいる少女。
それは、レオニスの生きる時代で聖剣を授かり、勇者となった少女と瓜二つと言ってもいい存在だった。
「……どうして、俺は生きている……」
レオンハルトが、ようやく声を絞り出す。
自分が生きている理由など、分からない。
セレグナス。
否――。
冥王に致命傷を負わされたはずだった。
それなのに、自分は生きている。
そして目の前には、見知らぬ少女がいる。
「……お前は、誰だ?」
「うん?」
少女は少しだけ首を傾げる。
「ああ。名乗らないと失礼だね」
そして――。
少女は、にっと笑った。
「あたしの名前は――アウレリア」
(……な!?)
今度こそ。
レオニスは、息が詰まるほどの驚愕を覚えた。
原初の勇者の記憶。
その中でレオニスは――。
もう一人のアウレリアと、出会ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




