旅の記録(5)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして。
二人は、同時に踏み出した。
地面を蹴る。
一瞬で距離が消える。
互いに構えた剣が、一直線に伸びた。
二人が選んだのは、同じ技だった。
必殺の突き。
寸分の狂いもない。
二本の剣が、まったく同じ軌道を描いて交差する。
互いの意思が、剣先に宿っていた。
そして――。
強い方が勝った。
「……ぐっ……!」
レオンハルトの身体が僅かに揺れる。
次の瞬間。
鋼の刃が兜を貫いた。
さらに、その奥へ。
肉体へと届く。
血が噴き出した。
赤い雫が、闘技場の石床へ落ちる。
一滴。
二滴。
やがて、その数を増やしていった。
……ガシャ。
重い音が響いた。
地面へ落ちたのは、レオンハルトの兜だった。
沈黙が、闘技場を支配する。
誰も声を上げない。
石床を染める血だけが、静かに広がっていく。
だが。
それはレオンハルトの血ではなかった。
レオンハルトの突きは、相手の剣を僅かに弾き飛ばしていた。
そのまま進んだ鋼の刃は、セレグナスの鎧を貫通している。
胸から。
背中まで。
「……勝負あった」
審議官の声が響いた。
「……刮目して見よ。神は裁定をくだされた」
レオンハルトの勝利。
その言葉が告げられる。
――勝った。
――これで、リオネーラを守れた。
レオンハルトは、観客席を見上げた。
そこにいるはずの彼女を。
「……リオネーラ」
だが。
彼女の顔を見た瞬間。
レオンハルトの胸に、冷たいものが走った。
違う。
その表情は、彼が望んでいたものではない。
喜んでいない。
安堵もしていない。
そこに浮かんでいたのは。
ただ一つ。
――何故。
そんな問いだった。
――どうしたんだ、リオネーラ。
――どうして俺を、そんな目で見る?
その時だった。
兜の中から、声がした。
「……私に刃を向けたな、レオンハルト」
低い声。
呪詛のような響きだった。
「……それを確かめたかったのだ」
「……セレグナス……?」
レオンハルトの顔から血の気が引く。
セレグナスは倒れない。
貫かれた身体のまま、ゆっくりと顔を上げる。
「この国に混乱をもたらしたのは誰なのか」
静かな声だった。
「今、わかった」
レオンハルトは剣から手を離した。
無意識に、一歩後ずさる。
何が起きている。
何を言っている。
そしてセレグナスは、レオンハルトではなく審議官へ顔を向けた。
「……審議官よ」
闘技場に、その声が響く。
「貴様は言ったな。〝勝敗は神が決める〟、と」
セレグナスの声には、もはや迷いがなかった。
「では、今から――」
一瞬の静寂。
「本物の〝神〟の言葉を聞かせてやろう」
その言葉が。
闘技場全体へと広がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「何を言っている、セレグナス!」
レオンハルトの叫びが、闘技場に響き渡った。
目の前にいる男。
それは、本当に自分の知るセレグナスなのか。
疑わずにはいられなかった。
公正で。
明大で。
誰よりも世界の平和を願っていた男。
今の言葉は、そんな友から出るものではない。
「刮目して見よ」
セレグナスは静かに告げる。
「この地に降りた、神の姿を!」
その直後だった。
鋼の鎧が、内側から大きく膨れ上がった。
――バキッ。
背中の装甲を突き破り、何かが姿を現す。
「……!」
最初に見えたのは、白い翅だった。
一枚ではない。
巨大な翅が、幾重にも開いていく。
そこには、蝶の斑紋を思わせる幾何学的な文様が浮かんでいた。
見る者によっては、美しいと思っただろう。
神々しい、と感じた者もいたかもしれない。
だが。
レオンハルトには、それが恐ろしいものにしか見えなかった。
まるで蛹の殻が割れるように、鎧そのものが砕けていく。
金属片が床へ落ちた。
その中心に、人の姿があった。
細身の身体。
人間離れした美貌。
そして、蝶や妖精を思わせる巨大な翼。
複数の翼が、その背に広がっている。
その顔だけは。
どれほど異形になろうとも。
見間違えるはずがなかった。
「……セレ……グナス……?」
レオンハルトの声が震える。
八枚の巨大な翅が、大きく開いた。
『……復活した神の力の一端を見せよう……』
声が響く。
セレグナスは、ゆっくりと天へ昇っていった。
人々は動けなかった。
あまりにも現実離れした光景に、逃げることさえ忘れている。
その周囲に、小さな炎が灯った。
一つ。
二つ。
三つ。
数は瞬く間に増えていく。
百を超える。
さらに増える。
そして。
無数の火球が、一斉に地上へ降り注いだ。
まるで、炎の流星だった。
轟音。
爆炎。
悲鳴。
逃げ惑う人々。
闘技場は一瞬にして、阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
「リオネーラ!」
レオンハルトは走った。
自分が何者になったのか。
セレグナスが何をしようとしているのか。
今は考えている暇などない。
せめて彼女だけでも。
その一心で、観客席へ向かう。
「無粋な真似は止め、黙ってみていたまえ」
だが。
その進路を遮る者がいた。
「何者だ、貴様!」
レオンハルトは足を止める。
「お前こそ邪魔をするな!そこをどけ!」
近くに落ちていた剣を拾う。
迷いはなかった。
一閃。
黒い仮面をつけた男の身体が、真っ二つに斬り裂かれた。
――だが。
血は流れない。
裂けた身体が、まるで時間を巻き戻すように修復されていく。
「……!?」
レオンハルトが息を呑む。
黒い仮面の奥から、笑い声が漏れた。
「そんな鉄くずで、ボクに傷一つ残せはしない」
完全に元へ戻った男が、楽しそうに告げる。
「ボクはノクス」
その仮面の笑みが、さらに深くなった。
「偉大なる冥王様の僕だ」
死王ノクス。
その異形の存在が、レオンハルトの前に立ち塞がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――“冥王”だって……!?
聞こえてきたその名に、レオニスは驚愕した。
それは、レオニスたちの生きる時代に台頭している魔王の一人。
まさか。
その名を、原初の勇者の記憶の中で聞くことになるとは思わなかった。
(こんな昔から活動していたのか……。しかもノクスまでいる。ロウガ様が言っていた魔王の一人まで……)
レオニスは、ただ見ることしかできない。
それでも、その記憶は容赦なく続きを見せてくる。
『……ノクスよ。通してやると良い……』
「御意」
ノクスは一礼した。
そして、大きく後ろへ退く。
その先にいる存在。
セレグナス。
否。
今や、そう呼ぶべきではない。
――冥王。
「貴様……」
レオンハルトが睨み上げる。
冥王は、地面に立っていなかった。
空中に浮かんでいる。
まるで地上にいる者すべてを見下ろすかのように。
レオンハルトは剣を握り直した。
せめて一撃。
そう考え、剣を投げようとした、その瞬間だった。
『……誰の許しを得て動こうとしている……』
声が響く。
同時に、レオンハルトの足元へ魔法陣が浮かび上がった。
光が走る。
それだけだった。
それだけで――。
レオンハルトの身体が止まった。
「……っ」
指一本、動かない。
声すら出せない。
最強の戦士。
数多の戦場を生き抜いてきた男。
そのすべての自由が、たった一つの魔法陣によって奪われた。
できるのは。
見ることだけ。
『……これで終わりだ……』
冥王の視線が動く。
向けられた先にいたのは、リオネーラだった。
「!?」
彼女の身体も、動かない。
見えない力に引かれ、冥王の傍らへと引き寄せられる。
「レオンハルト……!」
その声さえ、届かない。
冥王は、静かにリオネーラへ手を伸ばした。
そして――。
彼女の唇を、強引に奪った。
――。
――――。
声にならない慟哭が、レオンハルトの中から溢れた。
叫ぶことすら許されない。
身体も動かない。
ただ、目の前で起きている現実だけを見せつけられる。
『……セレグナスよ。余から褒美をとらせよう……』
その言葉とともに。
『神の寵愛を授けた、誉れとしろ。神に仕えた娘よ』
次の瞬間。
リオネーラの身体が、弾け飛んだ。
レオニスは息を呑んだ。
レオンハルトの目の前で。
世界が変わっていく。
信じていたものも。
守ろうとしていたものも。
積み重ねてきた誇りさえも。
すべてが、理不尽という名の現実に塗り潰されていく。
(どうして、こうなった……)
(俺は……何をすればよかったんだ……)
答えはない。
ただ、冥王だけがそこにいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




