勇者の姿
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何が起きているのか。
レオニスには、まったく理解できなかった。
目の前では、信じがたい光景が続いている。
フィデリアの身体を伝っていた血が、ゆっくりと逆へ流れ始めていた。
地面へ落ちた赤い雫も同じだった。
まるで時を巻き戻すように。
血は地面から浮かび上がり、フィデリアの身体へと戻っていく。
そして。
びくり、と。
一度だけ、その身体が痙攣した。
明るい金髪が顔を覆っている。
だから、その表情は見えない。
しかし次の瞬間。
白い腕が動いた。
フィデリアの手が、己の胸を貫いていた黄金の聖剣を掴んだ。
強く。
まるで、それが自分を傷つけているものだと、今になって初めて理解したかのように。
「……何だ?」
レオニスの口から、声が漏れた。
樹王が動いた。
その透明な顔が、ゆっくりと上を向く。
何かを感じ取った。
そうとしか思えない動きだった。
次の瞬間。
樹王はフィデリアごと、聖剣を投げ捨てた。
大地に叩きつけられる小さな身体。
だが、樹王は追撃しない。
逆だった。
明らかに距離を取った。
まるで恐れているかのように。
レオニスの背筋を、冷たいものが走った。
フィデリアが動く。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
彼女は立ち上がった。
胸には、まだ黄金の聖剣が突き刺さっている。
それを見下ろすこともない。
フィデリアは片手を伸ばし、自らその柄を握った。
そして。
引き抜く。
ずるり、と。
血が零れた。
だが、次の瞬間には止まっていた。
まるで傷そのものが、存在しなかったかのように。
(……何が起きている)
レオニスには、フィデリアの背中しか見えない。
助かった。
本来なら、そう思うべきだった。
安堵するべきだった。
だというのに。
胸の奥から湧き上がったのは、喜びではない。
恐怖だった。
目の前にいる存在は。
本当にフィデリアなのか。
そんな疑いが、どうしても消えなかった。
フィデリアの肩が、僅かに揺れる。
その瞬間だった。
轟音が響いた。
「――っ!?」
勇者一行の攻撃を受けても。
微動だにしなかった樹王の身体が。
まるで風に舞う木の葉のように、宙へ吹き飛んだ。
(……馬鹿な)
レオニスの思考が止まった。
樹王は湖面へ叩きつけられる。
一度。
二度。
三度。
水切りで投げられた石のように、水面を跳ね続けた。
あれほどの強者が。
勇者たちを一方的に叩き伏せた魔王が。
今は。
フィデリアの前で、ただの小石のようだった。
湖の上で樹王が立ち上がる。
透明な外殻の奥で、黄金の骨格が揺らいだ。
右手を天へ掲げる。
すると。
湖面が盛り上がった。
一本。
二本。
三本。
黄金の聖剣が水中から姿を現す。
十本。
それらは樹王の周囲に浮かび、静かにフィデリアへと切っ先を向けた。
樹王が指を差す。
それだけだった。
十本の聖剣が、一斉に放たれる。
凄まじい速度だった。
だが。
フィデリアは動かない。
避けることすらしなかった。
黄金の刃が、次々とその身体を貫く。
一本。
二本。
そして、十本。
それでも。
フィデリアは悲鳴を上げなかった。
ただ自分が持っていた黄金の聖剣を、樹王へ向ける。
そして。
投げた。
甲高い音が響き渡った。
硝子が砕けるような音だった。
「……そんな」
レオニスは、言葉を失った。
勇者たちが何度攻撃しても。
傷一つ付かなかった、あの樹王の身体。
それなのに、フィデリアが投げた聖剣は。まるで紙を破るように容易く、その身体を貫通していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから。
フィデリアによる、樹王への一方的な攻撃が続いた。
自身の身体に突き刺さった黄金の聖剣を引き抜く。
そして。
投げる。
一本。
また一本。
聖剣は、狙い違わず樹王の右腕を貫いた。
続けて左腕。
右足。
左足。
黄金の刃が、その透明な身体を次々と穿っていく。
硝子が割れるような音が、禁奈備に響いた。
樹王は反撃する。
だが、届かない。
フィデリアは避けることすらしなかった。
攻撃を受けても。
聖剣に貫かれても。
何事もなかったかのように、その身体から剣を引き抜く。
そして、また投げる。
「も、もう……止めてください、フィデリア様!」
耐えかねたレオニスが叫んだ。
しかしフィデリアは動きを止めなかった。
「もう、勝負は決まっています!」
返事はない。
背を向けたまま。
振り返ることすらしない。
風が吹く。
長い金色の髪が揺れた。
赤いマントが、大きく靡く。
いつもなら、その姿は高潔だった。
誰かを導く者の姿に見えた。
だが今は違う。
レオニスには、その背中がひどく遠いものに見えた。
フィデリアは、また胸元に刺さった聖剣を掴む。
躊躇いもなく引き抜いた。
血が流れる。
それすら、彼女は気にしていない。
聖剣を構える。
投げるために。
樹王は、すでに満身創痍だった。
傷一つなかった透明な肉体には、無数の罅が走っている。
両腕は使えない。
左足も失われていた。
残された右足だけで。
それでも、樹王は立っていた。
次の一撃で終わる。
誰の目にも明らかだった。
樹王の死という結末で。
それでも。
樹王は逃げなかった。
フィデリアを見据えている。
レオニスには、その顔から何を考えているのかは分からない。
そもそも人間のような感情があるのかさえ、分からない。
だが。
その姿を見た瞬間。
レオニスは気付いた。
樹王の背後。
そこには、あの巨大な樹があった。
樹王は。
まるでそれを守るように。
一歩も退かず、その前に立っていた。
「……あれは」
思わず、声が漏れる。
盾だった。
自分の身を守るためではない。
背後にある何かを守るために。
樹王は、そこに立っている。
その姿は、レオニスが知る、勇者の姿そのものだった。
どれほど傷つこうとも。
どれほど勝ち目がなくとも。
守ると決めたものの前から、退かない。
最後まで。
絶対に守り抜く。
そんな揺るぎない意志が。
確かに、そこにあった。
先ほどレオニスは思った。
こんなものが、勇者であってたまるものか、と。
仲間が傷ついた。
フィデリアが殺されたと思った。
だから。
樹王を、ただの怪物だと決めつけた。
目を曇らせていたのは。
樹王ではない。
自分の方だったのかもしれない。
「待って――」
レオニスが叫ぶ。
しかし遅かった。
フィデリアは樹王へ向かって黄金の聖剣を投擲した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




