異変
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオニスの目に映ったのは。
信じられない光景だった。
「馬鹿な!」
誰の叫びだったのか。
レオニスには分からなかった。
アウレリアの聖剣が、下方から樹王へと切り上がる。
光を収束させた。
彼女の最大の一撃。
それを。
樹王は避けることすらしなかった。
透明な身体が動く。
高速。
あまりにも速い。
振り上げられていた腕が、上から叩き落とされる。
――肘打ち。
ただ、それだけだった。
轟音が響いた。
聖剣が弾かれる。
「なっ――」
アウレリアの身体が崩れた。
その一瞬を樹王は逃さない。
透明な手が、彼女の首を掴んだ。
「っ、かはっ……!」
そのまま。
高々と持ち上げる。
アウレリアの足が地面から離れた。
細い首に、樹王の指が食い込む。
万力のような握力だった。
アウレリアは苦しげに顔を歪める。
それでも。
手にした聖剣を振るった。
何度も。
何度も。
樹王の腕を。
胴を。
斬りつける。
だが。
傷は付かない。
透明な身体には。
何一つ変化がなかった。
樹王の手は離れない。
むしろ、さらに指に力が込められた。
「ぐっ……!」
首が。
軋む。
アウレリアの身体は聖剣によって強化されている。
普通の人間なら、とっくに耐えられない力にも。
それでも樹王の拘束は、その強化すら上回っていた。
「アウレリア!」
イシュリアンが叫ぶ。
聖杖から光が放たれた。
防御魔法。
アウレリアの身体を覆う魔力の膜。
だが、それすらも樹王の力を止めるには足りない。
わずかな延命。
それだけだった。
この拘束が解けなければ。
首を折られる。
いや。
その前に。
息が続かない。
(嘘だろ……こんなの)
レオニスの目の前で。
アウレリアがもがいていた。
勇者が。
これまで誰よりも前へ進んできた少女が。
今、殺されようとしている。
グラーディスも動いた。
無駄だと分かっていても。
大剣を振るう。
樹王へ。
何度も。
何度も。
だが。
届かない。
傷一つ。
与えられない。
そして樹王は、ほぼ意識を失ったアウレリアを突然、手放した。
違う、投げた。
「アウレリア!」
宙高く。
まるで、もう必要なくなった物を捨てるように。
少女の身体が空へと舞い上がる。
一瞬。
すべての音が遠ざかった。
そして。
アウレリアは落ちてくる。
自由落下。
その下で樹王が待っていた。
黄金の骨格。
透明な肉体。
そして。
手にした聖剣。
黄金の刀身が真っ直ぐにアウレリアへ向けられている。
串刺しにする。
それ以外の意味はなかった。
誰も間に合わない。
誰も止められない。
絶望が。
その場を支配した。
――アウレリア達が死にます。
フィデリアの声が。
レオニスの脳裏に蘇った。
目の前で。
それが現実になろうとしている。
勇者が魔王に負ける。
違う。
そんな言葉では足りない。
命を絶たれる。
これまでの出来事が。
走馬灯のように。
ゆっくりと。
頭の中を流れていく。
樹王が動いた。
黄金の聖剣が突き出される。
落下するアウレリアへ。
真っ直ぐに。
その切っ先が。
届こうとした。
そして空が赤く染まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あまりの出来事に、誰も言葉を失っていた。
グラーディスも。
イシュリアンも。
そして、レオニスも。
目の前で起きている光景の意味を、すぐには理解できなかった。
樹王は、黄金の聖剣を天へ向けたまま立っている。
透明な外殻の表面を、赤い血がゆっくりと伝っていた。
刀身から滴り落ちた血が、樹王の身体を赤く染めていく。
やがて地面に落ちたそれは、足元に小さな水溜まりを作った。
黄金の聖剣。
その刃には確かに、誰かの命を奪ったかのような血が付着している。
だが。
そこにあるはずの肉体が、ない。
「……何で」
声にもならない声が、レオニスの喉から漏れた。
理解できない。
理解したくない。
樹王の聖剣は、確かにアウレリアへ向かっていたはずだった。
その瞬間を、レオニスは見ていた。
誰も間に合わなかった。
誰にも止められなかった。
だからこそ。
――フィデリアの言葉が、頭の奥から消えない。
『アウレリアたちが死にます』
「……っ」
そのときだった。
すぐ隣で、何かが地面へ落ちる音がした。
鈍い音。
肉体が石の床に打ちつけられる音。
レオニスは弾かれたように視線を落とした。
「アウレリア!?」
そこに倒れていたのは、間違いなくアウレリアだった。
白銀の鎧。
乱れた黒髪。
意識を失っている。
しかし。
身体には、黄金の聖剣に貫かれた傷がなかった。
「……どうして」
助かった。
そう思うべきだった。
なのに、レオニスの背筋を冷たいものが走った。
アウレリアがここにいる。
ならば。
樹王の聖剣に貫かれたのは、誰なのか。
レオニスは周囲を見た。
そして。
ようやく気づいた。
先ほどまで、すぐ近くにいた人物がいない。
「……まさか」
ゆっくりと。
信じたくないものを確かめるように、顔を上げる。
そしてレオニスは、本当の絶望を知った。
そこには、いてはいけない人物がいた。
明るい金色の長い髪が、ゆっくりと揺れている。
赤いマントも。
風に揺られていた。
その赤い布を。
さらに濃い赤が、染めている。
背中から黄金の刃が、突き出していた。
「……フィデリア様……」
レオニスの声は震えていた。
聖剣は、本来、姫巫女を守るためのもの。
王国で語られる勇者の物語では、そうなっている。
勇者は戦う。
姫巫女を守る。
そして最後には、皆が救われる。
そんな物語だ。
けれど。
現実は違った。
物語は、誰も守ってくれない。
英雄だから助かるわけではない。
勇者だから勝てるわけでもない。
目の前にあるのは。
ただ一つの残酷な真実だった。
黄金の聖剣に貫かれたのは。
アウレリアではない。
フィデリアだった。
いつ。
どうやって。
そんなことを考える余裕さえなかった。
「嘘だ……!」
レオニスの膝から、力が抜けた。
その場に崩れ落ちる。
否定したかった。
これは間違いだと。
夢だと。
だが血に濡れた赤いマントだけが、それを許さなかった。
フィデリアは、そこにいた。
黄金の聖剣に貫かれたままで。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高々と掲げられた黄金の聖剣。
その刀身に、フィデリアは貫かれていた。
いつも皆に柔らかな言葉をかけていた少女。
その身体は、今は力なく垂れ下がっている。
赤いマントが揺れた。
そして、黄金の刃を伝って血が滴り落ちる。
樹王は何も言わない。
勝ち誇ることもしない。
ただ、その光景を見せつけているだけだった。
それだけで十分だった。
勇者一行を、絶望の底へ叩き落とすには。
戦う者ではないフィデリアが。
戦うべき者たちの目の前で。
無残に貫かれている。
「おのれ!」
「許しません!」
グラーディスとイシュリアンが、ほとんど同時に叫んだ。
二人は樹王へ向かって駆け出す。
攻撃が通用しないことなど、分かっている。
何度も試した。
大剣も。
魔法も。
聖なる力さえも。
あの透明な身体に、決定的な傷を与えることはできなかった。
それでも。
そんな理屈など関係なかった。
目の前で仲間が殺されようとしている。
それを見て。
黙って立っていることなど、できるはずがない。
純粋な怒りだった。
抑えることのできない、感情の爆発だった。
「駄目です!」
レオニスも叫んだ。
届かない。
そう理解していた。
それでも、声を出さずにはいられなかった。
グラーディスの大剣が振り下ろされる。
イシュリアンの魔法が樹王を撃ち抜く。
確かに、攻撃は届いた。
だが。
傷一つ、付かない。
樹王の身体は揺らぎ。
黄金の骨格だけを一瞬、強く浮かび上がらせた。
そして。
次の瞬間には反撃していた。
拳が振るわれる。
それだけだった。
「ぐっ――!」
「きゃあっ!」
二人の身体が宙を舞う。
地面に叩きつけられた。
「グラーディス様!イシュリアン様!」
レオニスは駆け寄ろうとして。
しかし、足を止めた。
二人はまだ動いている。
それでも。
もう戦える状態ではないことは、誰の目にも明らかだった。
勇者一行は樹王という存在に完全に敗北していた。
「……終わった、のか」
レオニスは呟いた。
その視線の先。
ただ一人。
樹王だけが大地に立っている。
戦うと決めた時から。
敗北も。
死ぬことも。
覚悟していた。
勇者とは、そういうものだと思っていた。
だが。
心の奥から、どうしても消えない感情があった。
(こんなものが……勇者であってたまるものか)
ただの負け惜しみだ。
そんなことは分かっている。
勝てなかった者が。
自分たちを納得させるために吐く言葉に過ぎない。
それでも。
レオニスは、そう思わずにはいられなかった。
フィデリアは倒れた。
アウレリアも意識を失っている。
グラーディスとイシュリアンも、もう立てない。
残されたのは。
何もできない自分だけだった。
その時だった。
絶望の中で。
レオニスの目の前で異変が起きた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




