魔王国創世(4)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時は、なおも残酷に流れ続けた。
結界が築かれてから、長い歳月が過ぎる。
そして、ついにその日が訪れた。
シャルバートの結界は、いつ崩壊しても不思議ではないところまで弱まっていた。
広場には、人々が静かに集まっている。
三十組ほどの家族。
総勢、およそ百名。
かつて人であった者たちは、今では二足歩行という面影だけを残した獣人となっていた。
それでも、その瞳に宿る意志だけは、人の頃と何一つ変わっていない。
第一使徒は一歩前へ出る。
「皆さん。我々も、旅立つ時が来ました!」
その声は、誰一人として俯かせなかった。
「外部の呪いの濃度は現在、二・〇から二・一。想定していた生存圏内の数値です」
その報告に、安堵と緊張が入り混じった空気が広がる。
目の前には、自分たちを何十年もの間守り続けてくれた結界。
そして、その中心には、今なお眠り続ける宗主シャルバートがいる。
「我々は本日をもって、この地を離れます」
「新天地を目指し、旅立ちましょう」
この地へ残るという意見も、決して少なくはなかった。
だが、それは退けられた。
結界は限界を迎えている。
それ以上に深刻なのは食糧だった。
この地には、未来がない。
残された備蓄が尽きる前に、新たな生活基盤を築かなければならない。
狩猟を覚え。
採取を覚え。
新しい土地で生き抜く術を身につける。
それが、生き残った者たちに課せられた使命だった。
一方で、幼い子どもたちは事情を知らない。
遊び慣れた場所を離れることだけが悲しく、友との別れを惜しんでいた。
その姿を見つめる大人たちは、誰も涙を見せなかった。
片方は獣。
片方は人。
進む道は違っても、待ち受ける未来が過酷であることだけは同じだった。
第一使徒は獣の側から。
第三使徒は人の側から。
それぞれが、それぞれの未来を守る責務を背負う。
すべては、命を未来へ届けるためだった。
「きっと、旅の役に立つ」
第三使徒は微笑み、水を生成する魔道具をはじめ、旅路に必要となる貴重な魔法具を密かに第一使徒へ託した。
受け取る手には、自然と力が入る。
「シャルバート様は、きっと君たちを祝福してくださる」
「……はい」
第一使徒は深く頭を下げた。
続いて第三使徒は、小さな魔道具を差し出す。
凍てついた人々を未来で目覚めさせるための、解呪の鍵。
「……忘れてくれていい」
「果たす義務も、責任もない」
「君たちは、君たち自身の未来だけを考えろ」
それは命令ではなかった。
最後まで相手を縛りたくないという、願いだった。
しかし第一使徒は、静かに首を横へ振る。
そして迷うことなく、その魔道具を受け取る。
互いに、それ以上の言葉は必要なかった。
「では――出発します!」
第一使徒の号令とともに、人々は歩き始める。
「宗主様――行ってまいります」
長く守り続けてくれた結界へ最後の一礼を捧げ。
誰一人振り返ることなく、その境界を越えた。
この旅だけは、必ず成功させる。
その決意を胸に抱きながら、新たな魔王国の歴史は静かに歩み始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
旅は、過酷という言葉では足りなかった。
結界の外に広がっていたのは、世界の死だった。
呪いによって荒廃した国土。
その存在は頭では理解していた。
だが、自分たちの目で見た現実は、想像を遥かに超えていた。
崩れ落ちた家々。
黒く変色した畑。
干上がった井戸。
風が吹くたびに、灰のような塵が舞い上がる。
これが、ほんの十年ほど前まで、人々が笑い、泣き、暮らしていた場所なのか。
誰もが疑いたくなった。
旅の途中で、いくつもの町の跡を見つけた。
使えそうな物資を回収するたび、皆で立ち止まり、祈りを捧げた。
「いつか、必ずあなたたちも弔います」
その言葉を残し、足早にその場を離れる。
長く留まれば、心が折れてしまう。
第一使徒は、今さらながら思い知らされていた。
自分たちは、どれほどシャルバートと仲間たちに守られて生きていたのかを。
やがて、人々が「新天地」と呼ぶ場所へ向かう道筋が近づいてくる。
その場所は、偶然から始まった。
第一使徒と夫が呪いの濃度を調査するため放った、探査用の魔法道具。
本来なら周囲を測定して戻るだけのはずだった。
しかし、帰還した魔法道具は、ひとつの果実を持ち帰った。
食べられる果実だった。
その事実は、人々を震わせた。
健全な植物が育つ環境が存在する。
それは、土が死んでいないことを意味する。
さらに、受粉に必要な昆虫が生き残っている可能性すらあった。
第一使徒たちは、飛行経路の記録を解析した。
そして、何度も秘密裏に追加調査を行った。
そこで見つかったのは、希望だった。
植物だけではない。
動物も存在していた。
鳥の羽。
小型獣の足跡。
水辺に残された生き物の痕跡。
仲間たちは狂喜した。
涙を流して抱き合う者もいた。
だが、最大の難問は消えていなかった。
呪い。
たとえ健全な土地が存在しても、そこへ辿り着く術がない。
呪いに耐える魔法道具はいくつか開発された。
しかし、魔力を動力とする以上、行動時間には限界がある。
人を数百人運ぶなど、不可能だった。
だから第一使徒は決断した。
誰にも告げず、計画を立てた。
呪いに耐えるのではない。
呪いに抵抗できる肉体を得る。
その禁忌を成したのが、今の自分たちの身体だった。
獣の力を宿した、新しい肉体。
第一使徒は、隣で眠る我が子を見つめる。
小さな胸が、静かに上下している。
「必ず、成し遂げる」
その呟きには、決意だけではなく、祈りも混じっていた。
シャルバートの願い。
眠りについた仲間たちの想い。
人を捨てると決めた者たちの覚悟。
すべてを背負いながら、彼らは歩き続けた。
呪いの風が止み、遠くに緑が見えた。
黒く染まっていない草原を見た瞬間、誰かが泣き崩れた。
そしてついに、呪われた大地の果てで、新天地へと辿り着いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
新天地へ辿り着いた第一使徒たちは、休む間もなく生活基盤の構築へと取り掛かった。
住居を築く。
畑を耕す。
水路を引く。
狩猟路を整え、備蓄を作る。
誰もが未来のためだけに手を動かした。
彼らに残された時間は、長く見積もっても十年ほど。
その事実を知る者は、一日一日が何よりも重いことを理解していた。
時間は決して待ってはくれない。
だからこそ立ち止まることは許されない。
命を削りながら、未来へ続く礎だけを積み上げていく。
それが、彼らが選んだ生き方だった。
数年が過ぎた頃だった。
初期から共に歩いてきた仲間の一人が、ついに命数を使い果たした。
病ではない。
寿命でもない。
呪いへ抗い続けた代償が、限界を迎えたのである。
痩せ細った手を第一使徒へ伸ばし、穏やかに微笑んだ。
「ここまで来れたのは、君のおかげだ」
「最後まで君達と仕事が出来なくて、すまない」
最期まで残したのは感謝だった。
そして家族へ向き直る。
これまでありがとう。
どうか生きてほしい。
そう言葉を残し、静かに息を引き取った。
誰も泣き叫ばなかった。
その覚悟は、皆が共有していたからだ。
それでも仲間の死は重かった。
悲しみよりも、自分たちの残り時間が確実に削られている現実を突きつけられる。
未来を託す者たちは、もう多く残されていない。
だから歩みを止めることだけは出来なかった。
さらに年月は流れる。
生活はようやく安定し始め、人々にも笑顔が戻り始めた頃。
今度は第二使徒が、その命を終えようとしていた。
第一使徒は夫の手を強く握る。
もう、その手にはかつての力は残っていない。
「……私は、やり遂げたよな……」
震える声だった。
それでも後悔だけは滲んでいなかった。
「……はい。立派にやり遂げました……」
第一使徒は涙をこらえながら答える。
その言葉を聞き、第二使徒は安堵したように目を細めた。
「……私も、いずれ傍に参ります」
「……すぐじゃなくてもいい」
「君と一緒になれて、よかった……」
その一言を最後に残し、夫は静かに眠りについた。
第一使徒は、しばらくその手を離せなかった。
それでも翌日には立ち上がる。
残された者が前へ進まなければ、託された未来は途絶えてしまうからだ。
さらに時は流れる。
そして、その日は何の前触れもなく訪れた。
「……母さん。俺、この人と一緒になる」
振り返れば、少年だった我が子が一人の女性を伴って立っていた。
幼かった面影は消え、立派な大人になっている。
その隣に立つ女性は少し照れくさそうに頭を下げ、そっと自らの腹部へ手を添えた。
そこには、新しい命が宿っていた。
その瞬間。
第一使徒の頬を涙が伝った。
苦しみ続けた年月。
失われた仲間たち。
命を削って繋いできた未来。
そのすべてが、この小さな命へ繋がったのだと理解したからだった。
「……恥ずかしくなく、厳しく育てたつもりです」
「この子を、お願いします」
第一使徒は静かに頭を下げる。
そして天を見上げ、亡き仲間たちと宗主シャルバートへ祈りを捧げた。
――あなた方の願いは、確かに未来へ届きました、と。
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