魔王国創世(2)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「聞いていたのか、第一使徒! 人は生きられないと言っただろう!」
誰かが叫んだ。
命を繋いだとしても、その先に生存がなければ意味はない。
その言葉は誰もが抱いていた現実だった。
「……第一使徒が言っているのは、君たちが考えているような話ではない」
静寂を裂いたのは第三使徒だった。
その声音は冷静というより、すべてを悟ってしまった者の響きを帯びていた。
「君と第二使徒が、何かを隠して研究を続けていたことには気付いていた」
「だが、それは……狂気だ」
「命への反逆ですらある」
第三使徒はゆっくりと視線を動かす。
第一使徒。
そして、その隣で固く手を握る第二使徒。
「……君たちは、生まれてくる子へ処置を施したのだな」
「この呪いの地でも生きられる、新たな命として」
「何も知らぬ命に、そのような運命を背負わせるとは……」
重い沈黙が落ちた。
否定する者は誰もいない。
「シャルバート様は仰いました」
「『絶望してはならない。生きろ』と」
第一使徒は静かに腹部へ手を添える。
「ならば、どのような姿であろうと、生き続けることこそ私たちの答えです」
その瞳に迷いはなかった。
第一使徒が選んだのは禁忌だった。
生まれてくる我が子を、人ではなく、この呪われた世界に適応する新たな種へと変える術。
人を救うため、人を変える。
その発想に、その場にいた者たちは息を呑んだ。
「……仮に成功したとしてもだ」
第三使徒は淡々と問いを続ける。
「赤子一人では生き残れない」
「親が死ねば終わる」
「そこはどうする」
「この技術を私たちにも施します」
第一使徒は即座に答えた。
「結界が失われても、呪いへの耐性を得られれば、あと十年は生きられるはずです」
「結界の残り時間と合わせれば十五年……」
十五年。
幼子が親の庇護を離れ、自ら生き始められるかもしれない年月だった。
絶望の中で初めて示された、未来という名の数字。
第三使徒は深く息を吐いた。
「……駄目だな」
「な、何がですか!」
「計画に穴がある」
第一使徒と第二使徒を真っ直ぐ見据える。
「君たちの子だけでは種は続かない」
「未来へ命を繋ぐというのなら、他の者たちも同じ道を歩まねばならん」
その一言に、第一使徒と第二使徒の肩が小さく震えた。
二人だけの覚悟では済まない。
民族そのものの選択になる。
「……その技術は」
「我々にも適用できるのか」
第三使徒は静かに尋ねた。
第二使徒は唇を強く結ぶ。
長い沈黙の末、ようやく口を開いた。
「……可能です」
「ですが、その瞬間から」
「私たちは、純粋な人間ではなくなります」
その言葉は誰一人反論できなかった。
生きるために、人であることを捨てる。
魔王国という国は、その選択の上に築かれようとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
闇に包まれた結界の中で、誰も言葉を発することができなかった。
静寂だけが、人々の呼吸を際立たせている。
やがて、一人の使徒が重々しく口を開いた。
「……その処置には、どのような副作用がある?」
第一使徒は静かに頷く。
そして何も言わず、自らの右腕を差し出した。
次の瞬間。
白く細い腕を覆う皮膚が波打ち、指先から鋭い爪が伸びる。
腕全体を灰色の体毛が覆い、人のものとは異なる獣の腕へと姿を変えた。
息を呑む音が、あちこちから漏れる。
「胎児へ処置を施す以上、母体も適応しなければならない」
第一使徒は淡々と言った。
「当然、父となる者にも同じ処置を施す」
その一言で、誰もが理解した。
この術は子だけを変えるものではない。
親もまた、人ではなくなる。
「……つまり」
使徒の一人が震える声を漏らす。
「人ではなく、獣になるということか……」
「……いや、それだけではない」
第二使徒は何かを言いかける。
しかし、途中で唇を閉ざした。
その沈黙を見た第三使徒が、小さく息を吐く。
「君は優れた術師だ。しかし、嘘を隠すのは苦手だな」
静かな声だった。
責める響きはない。
ただ事実だけを告げる。
「……その様子では、既に何人かへ処置を終えているのだろう」
第一使徒も第二使徒も否定しなかった。
それだけで十分だった。
第三使徒は胸中で悟る。
第一使徒は、自分が指摘する程度の問題など、とっくに乗り越えていたのだ。
計画は、もはや思いつきではない。
実行段階に入っている。
そして、ここまで来た以上。
二人が止まることはない。
第三使徒はゆっくりと一同を見渡した。
「さて、諸君」
穏やかな声が響く。
「彼らは、新たな道を見出した」
「だが、その道は倫理に叛く道でもある」
誰も反論しない。
「たとえ他に道がないとしても、それは免罪符にはならない」
静かに視線を巡らせる。
第一使徒。
第二使徒。
そして、それ以外の使徒たち。
「だからこそ願う」
「彼らの選択に反対であっても、どうか断罪しないでほしい」
重い沈黙が広がる。
誰も責められない。
誰も正しいとは言い切れない。
「……逆もまた同じだ」
第三使徒は続けた。
「彼らに賛同する者がいても、その者を責める資格も我らにはない」
理不尽な滅びを前に。
誰も好き好んで、この選択をしたわけではない。
「人として滅ぶ」
「それもまた、一つの正しい終わりだ」
「我らは力の限り抗い、それでも届かなかった」
「始まりが、どれほど理不尽であろうともな」
言葉を終えた第三使徒は、静かに両手を組んだ。
宗主シャルバートへ捧げる祈り。
そして、この世界で命を繋ごうとする者たちへの祈り。
一人、また一人と頭を垂れる。
誰も涙を流さない。
涙すら、もう枯れていた。
ただ、祈る。
人として終わる未来も。
人であることを捨てて生きる未来も。
そのどちらも、理不尽に抗い続けた者たちが選び取ろうとした道であることだけは、誰も否定できなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
残酷なまでに、時は流れた。
止まることなく。
確実に。
人としての歴史が終わる、その瞬間へ近づいていく。
第一使徒が禁忌の計画を宣言してから、およそ三年。
結界の中は、かつてとは比べものにならないほど静かになっていた。
「……ずいぶんと少なくなったものだな」
第三使徒は、小さく息を吐く。
そこに広がるのは、もはや人々を未来へ運ぶ箱舟ではない。
沈むことだけが決まった、小さな箱庭だった。
第一使徒たちの選択に賛同しなかった者たちは、一人、また一人と姿を消していった。
しかし、誰一人として命を粗末にはしなかった。
誰も争わず。
誰も恨まず。
ただ、自らの魔力を結界へと捧げ、シャルバートが最後に選んだ道を継ぐように眠りについた。
賛同はできない。
それでも、生きようとする者たちを憎まない。
その在り方を見た第一使徒たちは、人目もはばからず涙を流した。
人が減ったことで、結界に注がれる魔力には余裕が生まれた。
消費する食料も減った。
皮肉なことに、その結果として第一使徒たちへ残された時間は、さらに延びた。
その事実について、誰も口にはしなかった。
「……第三使徒」
「第一使徒か」
穏やかな声が響く。
振り返った第三使徒の前には、一人の女性が立っていた。
知性を宿す瞳は、昔と何も変わらない。
だが、その姿は既に半ば人ではなかった。
獣の特徴を宿した身体。
その腕の中では、小さな命が静かな寝息を立てている。
「ずいぶん大きくなったものだ」
第三使徒は自然と口元を緩めた。
「とはいえ、まだ乳離れもできぬ小さな命だ」
「ええ」
第一使徒は優しく微笑む。
「この子には、まだ私が必要なの」
第三使徒はそっと赤子の頭を撫でた。
柔らかな温もりだけは、人も獣も変わらなかった。
第一使徒は、その横顔を見つめる。
そして、何度目になるか分からない言葉を口にした。
「……ねぇ」
「まだ、考えは変わらない?」
「これからの世界には、有能な人が一人でも必要なの」
「これから生まれてくる命たちのためにも……あなたは必要だわ」
その眼差しは真剣だった。
第三使徒は、この三年間で数え切れないほど彼らを助けてきた。
不足する労働力を補うため、ホムンクルス技術を完成させた。
その知識も技術も、惜しむことなく第一使徒たちへ託してきた。
だからこそ、第一使徒は諦めきれない。
しかし第三使徒は、静かに首を横へ振った。
「君の夫にも、何度となく誘われた」
「だが、答えは変わらない」
「私は、君たちとは行かない」
その拒絶は穏やかだった。
責める色も、迷いもない。
第一使徒は黙ってその言葉を受け止める。
だが、今回は引き下がらなかった。
互いに沈黙が続く。
やがて第三使徒は、小さく目を閉じた。
折れたのは、その意思ではない。
これ以上、本当の理由を隠し続けることだった。
このまま何も語らなければ、苦しむのは第一使徒だけではない。
自分自身もまた、その沈黙に耐えられなくなる。
そう悟った第三使徒は、ゆっくりと口を開こうとしていた。
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