魔王国創世(1)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
覇王ディアボロスの語った話は、誰もが知る歴史とは似て非なるものだった。
遠い昔。
この世界には、"邪悪の化身"と呼ばれる存在が現れた。
その正体を知る者は、もはやいない。
ただ一つ確かなことは、それが世界を滅ぼしかねない災厄だったということだけだ。
それに立ち向かったのが、聖剣を授かった原初の勇者だった。
二つの力は激突した。
大地は裂け、山は砕け、空さえ震えたという。
まさに、大陸そのものを二つに引き裂くほどの決戦。
その戦いの末、勝者となったのは勇者だった。
"邪悪の化身"は討たれた。
だが、それは完全な勝利ではなかった。
滅びゆく最後の瞬間。
"邪悪の化身"は世界へ"呪い"を残した。
黒い瘴気は大地へ染み込み、命あるものを侵し、際限なく広がっていった。
世界は再び滅びへ向かう。
その時だった。
勇者は最後に、力を解放した。
それは敵を斬る力ではない。
世界を守る力。
その壁によって、呪いはそれ以上先へ進めなくなった。
壁の向こう側。
そこは呪いから守られた世界となる。
だが。
壁はこちら側を守るためのものではなかった。
こちら側には、まだ人がいた。
町があり、家族がいた。
逃げ遅れた者たち。
故郷を捨てられなかった者たち。
そのすべてが、呪いと共に閉じ込められた。
重苦しい沈黙が部屋を包む。
誰も言葉を挟めない。
その静寂を破るように、ディアボロスは低く語った。
「そんな世界に、人々は絶望した」
声は静かだった。
しかし、その奥底には押し殺した激情が宿っている。
「生活を奪われた」
「家族を奪われた」
「仲間を奪われた」
「命を、理不尽に奪われた」
一つ一つの言葉が、長い年月を経ても消えない怨嗟のように響く。
その場にいた誰も、その光景を見たわけではない。
それでも。
どれほど凄惨な地獄だったのかだけは、容易に想像できた。
ディアボロスは静かに顔を上げる。
その視線は、部屋に飾られた少女の肖像画へ向けられていた。
「そして」
「我らの前に、あのお方が現れた」
誰もが、その視線を追う。
姫巫女の衣をまとった、一人の少女。
シャルバート・ウル・ヴァース。
ディアボロスは、その名を敬意を込めて口にした。
「我らと同じく」
「壁のこちら側へ取り残された御方」
そう告げると、ゆっくりと目を閉じる。
まるで、その姿を今も鮮明に思い出しているかのようだった。
「あのお方は言われた」
短い沈黙。
そして、力強く紡がれる。
「――絶望してはならん」
「――生きろ」
その一言だけだった。
だが、その言葉こそが、絶望しか残らなかった世界で、人々を再び立ち上がらせた。
ディアボロスは静かに目を開く。
「……そこから、魔王国の歴史は始まったのだ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
シャルバート・ウル・ヴァースは、自らの魔力を注ぎ込み、広大な結界を築き上げた。
その内側へ、生き残った人々と、わずかな食料や道具を集める。
そこは、呪いから身を守る避難所だった。
いや、滅びゆく世界を渡るための、小さな箱舟だった。
やがて全員が集まると、シャルバートは静かに口を開く。
「この結界も、長くは持たないでしょう」
穏やかな声だった。
だが、その言葉に偽りはない。
「私たちは生き残るため、この呪いに打ち勝つ術を見つけなければなりません」
その瞬間から、彼らは時間との戦いを強いられた。
結界はいずれ破られる。
備蓄も、いつか尽きる。
どちらが先でも、待つ結末は"死"だった。
最初は誰も動かなかった。
家族を失い、故郷を失い、明日すら見えない。
絶望した人々には、生きる気力さえ残っていなかった。
だからこそ、最初に動いたのはシャルバートだった。
命を繋ぐため、水を生み出す。
闇を退けるため、光を灯す。
凍える夜を越えるため、炎を熾す。
自らの魔力を惜しみなく使い、人々の生活を支え続けた。
そんな姿を見つめていた、一人の幼い少女が立ち上がる。
「……私にも、教えてください」
魔力に恵まれていた少女は、驚くほどの速さで水の魔法を習得した。
自分の力で、人々の命を支える水を生み出せるようになる。
その姿は、周囲の人々の心を動かした。
一人が立ち上がれば、二人目が続く。
二人が学べば、三人目へと教える。
水の魔法は人から人へ受け継がれ、やがて誰か一人の力ではなく、生きるための知恵となって広がっていった。
少女はさらに新たな魔法を学び、他の者たちも後に続く。
そうして魔法は、絶望を退けるための術として磨かれていった。
そんな日々の中、新しい命も生まれる。
産声が響いた瞬間、人々は初めて未来というものを思い出した。
この子だけは、生き延びさせなければならない。
その想いが、再び人々を立ち上がらせる。
互いに助け合い、知恵を出し合い、少しずつ生き延びる時間を伸ばしていく。
その間も、シャルバートをはじめとする者たちは、呪いから脱する方法を探し続けた。
絶望から脱出する。
ただ、その一つだけを目標に。
魔法はさらに研ぎ澄まされ、昨日できなかったことが今日には可能になっていく。
それでも、決定的な突破口だけは見つからなかった。
焦りは、ゆっくりと人々の心を蝕んでいく。
そして、誰も望まなかった事態が訪れる。
結界を維持し続けていた張本人――シャルバート・ウル・ヴァース自身が、限界を迎えようとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
千切れそうな希望を、なお繋ぎ止めようとする者がいた。
結界が築かれてから、幾年もの歳月が流れていた。
その頃には、シャルバート・ウル・ヴァースの教えを受けた者たちは、自らを「使徒」と名乗るようになっていた。
人々もまた、彼女を宗主と崇めるようになる。
その呼び名は、敬意と感謝の象徴だった。
宗主の意思を未来へ繋ぐ者。それが使徒だった。
「宗主様」
そう呼ぶ声には、救われた者たちの願いが込められていた。
使徒の中には、結界術を修める者も現れた。
しかし、誰一人としてシャルバートの領域には届かない。
彼女だけが、呪いそのものと渡り合える存在だった。
それでも、シャルバートは諦めなかった。
自らの命が尽きようとしていることを知りながら。
残された魔力のすべてを結界維持へ注ぎ込み、自らは深い眠りにつく。
命を燃やし尽くしてなお、人々を守ろうとしていた。
そんなある日。
結界の外を観測していた使徒の一人が、小さく息を呑んだ。
「……呪いが、薄まっている」
一瞬だけ、人々の目に光が宿り、周囲が一斉に振り向く。
「最初の時を十とするなら……今は八ほどまで弱まっています」
その報告に、一瞬だけ空気が揺れた。
しかし次の瞬間には、鋭い怒号が飛ぶ。
「それがどうした!」
「それでは人間は生きられない!」
希望になりかけた言葉は、現実によって叩き落とされた。
誰もが理解していた。
観測を続けた結果、結界が失われる頃になっても、呪いは半分ほど残る。
その濃度では、人は生きられない。
つまり。
結界が尽きる時こそ、人類の終わりだった。
部屋を満たす沈黙は、絶望そのものだった。
誰も口を開けない。
知恵は尽くした。
魔法も研究した。
物資も工夫した。
命を削り続けて、当初の予測を十年以上も上回る期間、結界を維持した。
それでも、届かなかった。
「終わらせません」
静かな声が響く。
だが、その一言は誰よりも強かった。
全員の視線が、一人の女性へ集まる。
それは、最初にシャルバートから水魔法を学んだ少女だった。
今では誰もが、彼女を第一使徒と呼んでいる。
「シャルバート様の救いを、終わらせるわけにはいきません!」
その叫びには、涙も恐怖も混じっていた。
それでも、その瞳だけは折れていなかった。
彼女を見つめる使徒たちの心は、限界まで擦り減っている。
完全に崩れなかったのは、宗主という支柱が存在していたからに過ぎない。
「どうするというのだ」
誰かが力なく問いかけた。
責める声ではない。
答えを求める、最後の願いだった。
自分たちは怠けたわけではない。
考え得る限りの策を試し、知識を持ち寄り、生き延びるためだけに歩み続けた。
その果てが、今なのだ。
もう、新しい道など残っていない。
誰もがそう思っていた。
第一使徒は、その場を静かに見渡した。
そして、自らの下腹部へ、そっと手を添える。
「この呪われた地で生き残れる命を造り……」
その言葉に、誰も息を呑む。
彼女はひとりひとりの顔を見つめ、迷いなく宣言した。
「私たちの歴史を、未来へ繋げます」
その決意だけが、絶望に沈みかけた世界で、なお消えない希望として灯っていた。
言葉は、自らの命ではなく、次の命へ希望を託す誓いだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




