魔王国の宗主
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……どういうことだ……」
思わず漏れた声は、グラーディス、イシュリアン、レオニスの三人で重なった。
フィデリアが滞在していた部屋の正面。
そこには、一際大きな肖像画が掲げられていた。
年月を重ねた油彩は色褪せながらも、幾度となく修復された跡が残っている。その一枚だけが、この部屋で特別な意味を持っていることは、一目で理解できた。
だが、三人の視線を奪ったのは年代ではない。
描かれている人物だった。
「……」
その女性に見覚えはない。
名前も知らない。
それでも、見間違えるはずがなかった。
赤いロングマントを優雅に羽織る少女。
そして、その肖像画の前には、まるで鏡合わせのような装束をまとったフィデリアが静かに立っている。
驚くほど似ていた。
偶然と呼ぶには出来過ぎている。
グラーディスも、イシュリアンも、レオニスも言葉を失った。
もしここへ来るまでの道中がなければ。
もし覇王ディアボロスという男の在り方を知らなければ。
勇者一行を動揺させるために仕組まれた偽物だと断じていただろう。
だが、この男は約束を守った。
勝負にも誇りを持ち、今さら小細工で相手を揺さぶるような人物ではない。
だからこそ、この光景には否応なく真実味が宿っていた。
静寂の中、ディアボロスが一歩前へ進み出る。
迷いのない足取りだった。
そして肖像画の前まで歩み寄ると、その場で膝をつき、深く頭を垂れた。
その姿に、勇者一行は再び息を呑む。
その動作だけで、勇者一行の常識が音を立てて崩れた。
覇王。
魔王国最強を名乗り、力による統一を掲げる男。
その男が、臣下の礼を取っていた。
「……この魔王国の宗主様だ……」
低く響く声が、部屋の静寂に溶ける。
「……宗主?」
グラーディスが、信じられないというように問い返す。
「……そう。この魔王国の礎を築かれた」
「……我らに、生きろと言ってくださった御方だ……」
ディアボロスはゆっくりと顔を上げ、肖像画を見つめた。
その眼差しには畏敬があった。
忠誠とも違う。
もっと深く、長い歳月を越えてなお失われない感謝が宿っていた。
「……その方は、いったい……」
絞り出すようにグラーディスが尋ねる。
フィデリアによく似た容姿。
それが事実なら、この女性は姫巫女の系譜に連なる存在なのではないか。
魔王国の覇王が、姫巫女へ跪く。
そんな歴史など、人間の世界では一度も語られていない。
「……この方の御名は、シャルバート様」
ディアボロスは厳かに告げる。
「……シャルバート・ウル・ヴァース様だ」
その名が放たれた瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
(……ヴァース……?)
レオニスの胸が大きく脈打つ。
聞き間違いであってほしい。
そう願っても、その名は確かに耳へ届いていた。
ヴァース。
その姓を名乗る一族は、この大陸に一つしか存在しない。
王国と長きにわたり対立を続ける国家。
ヴァース帝國。
つまり覇王ディアボロスが最も敬意を捧げる人物は、帝國皇族に連なる存在だったのである。
その事実だけが、勇者一行の常識を静かに覆していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(……しかも、“ウル”は共通語で『王』を意味する)
レオニスは、改めて肖像画の少女を見上げた。
柔らかな微笑みを浮かべるその姿は、どこか神々しくもある。
その名は――シャルバート・ウル・ヴァース。
つまり、この人物はヴァース帝國においても、皇帝の血を引く極めて高位の存在ということになる。
姫巫女は王国で勇者と共に歩む存在。
その姫巫女が、王国の敵国である帝國の皇族と繋がっている。
さらに魔王国では、覇王ディアボロスが宗主として頭を垂れる存在でもある。
三つの国を結ぶ、一人の巫女。
あまりにも常識から外れた事実だった。
「フィデリア様、これは……いったいどういうことなんですか!?」
思わず声が強くなる。
レオニス自身、そのことに気付く余裕もなかった。
少なくともフィデリアなら、この不可解な状況について何か知っているはず。
そう信じたかった。
「……どういうこと、とは?」
返ってきたのは、心底不思議そうな声だった。
フィデリアは本当に何を問われているのか分からない、といった表情で首を傾げる。
「その絵をご覧になって、何も思われないのですか?」
促されるまま、フィデリアはゆっくりと肖像画へ視線を向けた。
だが、その瞳に驚きも懐かしさも浮かばない。
「……綺麗な方ですね」
「……これは、どちら様でしょうか?」
小さく首を傾げる。
「ですが、私の、お会いしたことのない方ですね……。申し訳ありません」
本当に申し訳なさそうに微笑みながら謝る姿は、いつものフィデリアそのものだった。
「あ……こちらこそ失礼いたしました」
しまった、と後悔すし、レオニスは我に返る。
慌てて深く頭を下げた。
感情のまま問い詰めてしまった自分を恥じる。
だが、その胸の内は、さらに混乱していた。
(……フィデリア様が、ご存じない?)
そんなことがあるのだろうか。
嘘をついているようには、とても見えない。
誤魔化している気配もない。
困惑したまま、レオニスは隣に立つグラーディスとイシュリアンへ視線を向けた。
「……やめるんだ、レオニス」
静かな声でグラーディスが告げる。
「フィデリア様は、嘘をつかれてはいない」
「グラーディス様……」
「……フィデリア様は、過去の姫巫女様についてはご存じありません」
続けたのはイシュリアンだった。
冷静な口調に、迷いは一切ない。
「イシュリアン様……?」
理解が追いつかない。
しかし二人は、フィデリアが知らないという事実を疑ってすらいなかった。
その瞬間だった。
(……あ)
レオニスの脳裏に、一つの事実が蘇る。
イシュリアンと目が合う。
彼女は小さく頷いた。
その仕草だけで十分だった。
(そうだ……忘れていた)
知らなくて当然なのだ。
フィデリアは、この世界で生まれ育った人間ではない。
王国が勇者の儀によって、神の世界から召喚した存在。
この世界の歴史も、過去の姫巫女も、知っているはずがない。
レオニスはようやく息を吐いた。
だが、一つの疑問が解けた代わりに、新たな謎はさらに深く、重く胸に沈んでいくのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
フィデリアは、レオニスに促されるまま、改めて肖像画へと視線を向けた。
描かれているのは、赤い長衣を纏う一人の少女。
確かに、その装いは自分が身に着ける衣とよく似ている。
だが、それだけだった。
(……この方は、誰でしょうか……)
胸に浮かんだのは純粋な疑問だけだった。
この衣は、自ら望んで選んだものではない。
異界から召喚された時、『選定の儀』によって与えられた『裁定者の衣』。
儀式が必要と判断し、用意した装束。
それ以上でも、それ以下でもない。
ならば、同じような衣を纏う人物が過去に存在していても、不思議とは思わなかった。
それは裁定者に与えられる衣なのかもしれない。
あるいは、全く別の意味を持つ衣なのかもしれない。
そのどちらであっても、フィデリアには違いがなかった。
だからこそ、肖像画に描かれた『シャルバート・ウル・ヴァース』という人物へ興味は向かなかった。
知ろうとも思わなかった。
たとえ、その人物が自分と同じ『裁定者』であったとしても。
(……私の使命は、今の選定者のために『選定の儀』を進めること……)
その役目だけは決して揺らがない。
選定者であるアウレリアを導くこと。
必要な道具を授けること。
そして、最後には――。
そこまで思考が進いたところで、フィデリアの視線は自然とアウレリアへ向いた。
「?」
目が合う。
しかし、その表情を見た瞬間、わずかな違和感が胸をよぎった。
フィデリアの知るアウレリアなら、このような未知の出来事に出会えば目を輝かせる。
興味の赴くまま質問を重ね、思ったことを口にし、周囲を振り回すほどの勢いで笑う。
それが彼女だった。
だが今は違う。
肖像画を見つめる瞳は静かで。
その奥では、何かを必死に押し込めているように見えた。
悲しみなのか。
怒りなのか。
あるいは後悔なのか。
その感情の正体までは分からない。
それでも一つだけ確かなことがあった。
(……アウレリアは、この方を知っている?)
そう思った瞬間、すべてが腑に落ちた。
知らない者の顔ではない。
知っているからこそ、感情を隠している。
そう見えた。
「アウレリア?」
「何、フィデリア?」
名前を呼ばれた途端、アウレリアはいつもの笑顔を浮かべた。
まるで先ほどまでの沈んだ空気など存在しなかったかのように。
「どしたの?喉でも乾いた?何かもらってきてあげようか?」
「いえ、大丈夫です。……呼んでみたかっただけです」
フィデリアは微笑み返す。
アウレリアの胸に秘めた想いを暴こうとは思わなかった。
肖像画の少女の正体を知りたいとも思わなかった。
それらは今の自分に必要なことではない。
(……私は、私の役目を果たします)
その静かな決意だけが、誰にも知られることなく胸の奥で揺らぐことなく灯り続けていた。
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