……なら、もういいよね……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
約束通り、ディアボロスは静かに自らの手を見下ろした。
そこに残るのは、刃を受け止めきれず傷ついた《常世樹斬》。
樹王を討つためだけに鍛え上げた試作品は、今まさに限界を示していた。
「……約束通りだ、認めよう……」
低く響く声には、悔しさも怒りもない。
ただ、一人の武人として敗北条件を受け入れる潔さだけがあった。
「……なら、もういいよね……」
アウレリアはゆっくりと息を吐き、聖剣を鞘へ納める。
甲高い納刀音が静寂へ溶けた。
それを合図に、勇者一行と覇王の戦いは終わる。
誰一人として命を落とすことなく。
(覇王を殺さず、この戦いを終える……そんな無茶を、本当に成し遂げたのか)
レオニスは言葉を失った。
ディアボロスは純粋な戦力だけなら、まだ衰えてはいない。
武器を失っても、その巨躯にはなお戦場を覆すだけの力が宿っている。
それでも剣を取らなかった。
己が交わした言葉を、力より重く置いたのである。
その姿勢だけで、この覇王がどれほど誇り高い存在なのか十分に伝わってきた。
「……フィデリアは無事なんでしょうね?」
「……無論だ。保証する」
短い返答。
しかし、その一言に嘘は感じられなかった。
ディアボロスは改めて勇者一行へ視線を向ける。
戦う前、フィデリアが静かな笑顔で語っていた言葉を思い出す。
――アウレリアたちは強いですよ。
「あの言葉に……偽りはなかったか」
ぽつりと漏れた独白には、どこか感心にも似た響きがあった。
これまで葬ってきた勇者たちとは違う。
力だけではない。
信念を曲げず、それでも相手を殺さず勝利へ辿り着く者たち。
張り詰めた空気が解けた、その瞬間――。
「あーーー!」
静まり返っていた空気をぶち壊すような大声が響く。
アウレリアが勢いよく腕を伸ばし、ある一点を指差した。
その先には、レオニスと、その腕に抱えられたイシュリアン。
「人が苦労して頑張ってたのに、何してんのよ!」
「こ、これはイシュリアン様がお怪我をされたので、その……」
突然の矛先に、レオニスは慌てて事情を説明する。
「骨が折れているので、レオニスに力を借りています」
イシュリアンはいつもの調子で淡々と答えた。
そしてさらに自然な動きで、レオニスの肩へ身体を預ける。
「ついでに、お姫様抱っこの体験もさせてもらっています」
「感覚も戻ってきました。なるほど、こういうものですか。なかなか良いものです」
「な、な、な……!」
顔を真っ赤にするレオニス。
一方でアウレリアは肩を震わせ、怒るべきか呆れるべきか分からない表情で二人を睨みつける。
その騒がしい光景を見つめながら、ディアボロスは小さく口元を緩めた。
「……少なくとも」
静かな声が戦場に落ちる。
「魔王国へ災いを撒く者たちではなさそうだ」
その一言をもって、覇王が勇者一行を敵ではないと認めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオニスがゆっくりと目を開く。
そこには、森の奥深くに佇む一つの宮殿があった。
豪壮でありながら、必要以上に威圧感はない。
むしろ、誰にも見つからぬよう静かに息を潜めてきた建物という印象だった。
周囲を見渡したイシュリアンが、小さく息を呑む。
「……人払いと隠蔽の術式が、至る所に張り巡らされていますね」
彼女は静かに杖を掲げ、探知魔法を展開する。
その表情はすぐに驚きへと変わった。
「これほど巧妙な術式……意図して調べなければ存在すら気づけません」
感嘆の声が漏れる。
「すごいですね。武器だけではなく、魔法技術まで一流……いえ、超一流です」
「そうですね……」
レオニスも静かに頷いた。
ここへ来るまで使われた転移魔法だけでも異常だった。
王国にも転移術式は存在する。
だが、これほど大人数を、ここまで精密に移動させる技術は秘匿級ですら届かない。
覇王ディアボロスは、それを当然のように扱っていた。
改めて、その底知れなさを思い知らされる。
そんな中、一人だけ足を止める者がいた。
アウレリアだった。
彼女は宮殿を見つめ、小さく唇を震わせる。
「……あれは……」
あまりにも小さな呟き。
誰の耳にも届かなかった。
「どうした、アウレリア?」
グラーディスが不思議そうに尋ねる。
「何でもないわよ、グラディ」
返ってきたのは、いつもの調子だった。
笑顔さえ浮かべている。
だが、その一瞬だけ見せた表情は、どこか懐かしいものを見るようでもあり、戸惑っているようでもあった。
「こっちだ。ついて来い」
ディアボロスは振り返ることなく歩き出す。
勇者一行も、その背を追った。
宮殿の正面玄関では、多くの侍女たちが整列して待っていた。
全員が一糸乱れぬ動きで頭を下げる。
「お帰りなさいませ、マスター・ディアボロス」
「俺の客人だ。礼を欠くことなく扱え」
「承知いたしました」
侍女たちは再び深く一礼する。
その所作は洗練されており、魔族の宮殿というより、人間の王宮に仕える者たちを思わせた。
内部へ足を踏み入れる。
外観よりも広く感じる空間。
磨き上げられた床。
繊細な柱。
壁面を彩る装飾。
規模こそ王国の王宮には及ばない。
しかし、その気品は決して引けを取らなかった。
「……あれ?」
レオニスは思わず足を止める。
胸の奥に、説明できない違和感が走る。
(どこかで……見たことがある)
見慣れた柱頭の意匠。
天井を支えるアーチ。
窓枠の曲線。
記憶の奥底を刺激する何かがある。
隣を見ると、グラーディスも同じように立ち止まり、静かに顎へ手を添えていた。
その時だった。
イシュリアンが目を見開く。
「……これは」
普段の冷静な彼女には珍しく、声に驚きが滲む。
「法国の建築様式です……」
その場の空気が止まった。
ここは魔王国。
人間の国家とは敵対する土地。
その最深部とも言える場所に、人間世界、それも法国の様式そのままの宮殿が存在している。
偶然で済ませられる一致ではない。
勇者一行はまだ知らない。
目の前にある光景こそが、魔王国という国に隠され続けてきた秘密の入口であることを。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ディアボロスを先頭に、勇者一行は静かな宮殿の奥へと歩を進めていた。
通されているのは、来客を迎えるために整えられた回廊なのだろう。
黒い石畳は隅々まで磨き上げられ、天井には繊細な彫刻が施されている。壁には等間隔に燭台が並び、柔らかな灯火が静かに揺れていた。
戦場だった外とは、まるで別世界だった。
(……これは)
レオニスは思わず視線を止める。
回廊の両脇には、年代を感じさせる彫刻や絵画が飾られていた。
王宮にも引けを取らない品々だ。
だが、彼の心を揺らしたのは、その芸術性ではなかった。
描かれている人物だった。
(……どう見ても、人間だ)
男。
女。
幼い子供。
白髪の老人。
家族と思われる肖像画まで残されている。
どれも想像で描いたとは思えないほど自然で、生きた人間を見て描いたような写実性があった。
魔王国なら、本来は亜人や獣人を題材にした作品が並ぶはずだ。
人間が描かれていること自体は不思議ではない。
魔の森を越え、この国へ流れ着く者もいる。
しかし、その程度の人数で、この規模の作品群が残されるとは考えにくかった。
しかも――。
(亜人や獣人を題材にした作品が、一つもない……)
違和感だけが静かに積み重なっていく。
レオニスだけではない。
グラーディスも無言で壁画を見つめ、イシュリアンも周囲を注意深く観察していた。
誰も口にはしない。
だが、この宮殿が魔王国の常識から外れていることだけは、全員が理解していた。
そんな思考を断ち切るように、低い声が響く。
「ここだ」
ディアボロスが巨大な扉の前で足を止める。
両脇には武装した衛兵が控えており、その姿勢は一糸乱れない。
覇王の姿を見るや、全員が同時に敬礼した。
「彼女は?」
「はい。特に変わりなく、お過ごしいただいております」
「不自由はさせていないか」
「もちろんです」
短いやり取りに嘘は感じられない。
ディアボロスは小さく頷いた。
「では、扉を開け」
重厚な扉が、ゆっくりと左右へ開かれていく。
「あっ――フィデリア!」
アウレリアが駆け出した。
部屋の中央には、攫われた時と変わらぬ姿のフィデリアが立っていた。
傷一つない。
怯えた様子もない。
アウレリアはそのまま抱き締める。
「来てくれたのですね」
「当たり前でしょ。無事でよかった」
「私は大丈夫です。特に何もされていませんよ」
フィデリアは普段と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
その姿を見て、勇者一行の肩から緊張が抜ける。
だが、その安堵はほんの一瞬だった。
部屋の奥へ視線を向けた彼らは、一人、また一人と言葉を失う。
そこに広がる光景は、この魔王国に対する常識を根底から覆そうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




