惜しいとも考える
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
静かに掲げられた《常世樹斬》が、音もなく振り下ろされた。
その一太刀は、派手な轟音を伴わない。
それでも、アウレリアのすぐ脇を走った大地は、まるで紙を裂くように真っ二つへと割れた。
裂け目が一直線に伸びる。
そのあとを追うように、ようやく暴風が吹き荒れた。
「っ!?」
突如として巻き起こった竜巻が、後方で魔力を整えていたイシュリアンを呑み込む。
細い身体は抵抗する間もなく宙へ舞い上がった。
「イシュリアン様!」
レオニスは反射的に駆け出した。
受け止められる保証などない。
いや、本来なら人一人を空中から受け止められるはずがない。
それでも走った。
せめて落下の衝撃を少しでも和らげられるなら、それだけで十分だった。
空高く舞い上げられたイシュリアンが、今度は重力に従って落ちてくる。
(間に合え……!)
レオニスは最後の一歩を踏み込み、両腕を伸ばした。
次の瞬間。
ふわり、と軽い感触が腕の中へ収まる。
「あれ……?」
思っていた衝撃がない。
勢いよく叩きつけられるはずだった身体は、不思議なほど穏やかに腕の中へ降り立っていた。
「……イシュリアン様?」
横抱きにされたイシュリアンは、乱れた前髪を揺らしながら淡々と答える。
「とっさに浮遊魔法で速度を殺しました」
その一言で、レオニスはようやく状況を理解した。
同時に、自分が思わず抱きかかえていることにも気づく。
「あ、あの……余計なことをしましたか?」
慌てて尋ねると、イシュリアンは静かに首を横へ振った。
「いいえ。余計ではありません」
少し息を整えてから続ける。
腕がわずかに震える。
「実は、骨を何本か損傷しました」
「えっ」
「今は立てません」
その声音は相変わらず落ち着いていた。
しかし、その直後。
ほんのわずかに残念そうな表情を浮かべる。
「残念です。痛覚遮断魔法を使ったため、せっかくの経験が分からなくなりました」
「経験?」
「本で読んだ、お姫様だっこというものですね」
真面目な口調のまま首をかしげる。
「これは、貴重な経験ではないでしょうか?」
「な、何を言っているんですか!今はそんな場合じゃありませんよ、イシュリアン様!」
顔を真っ赤にして慌てるレオニス。
そんな反応を見て、イシュリアンは小さく口元を緩めた。
「助けに来てくださったのですね」
その微笑みは、いつもの無表情からは想像できないほど柔らかい。
「……とても嬉しいですよ」
レオニスは返事もできず、ただ照れたように視線を逸らした。
「回復まで、少し時間がかかります」
イシュリアンは覇王ディアボロスへ視線を向ける。
「今は、彼女に頑張ってもらうしかありません」
「……はい」
レオニスもその視線を追う。
戦場の中心では、白銀の聖剣を構える勇者アウレリアと、常世樹斬を携えた覇王ディアボロスが、互いに一歩ずつ間合いを詰めていた。
決戦は、いよいよ新たな局面へ入ろうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦場は静まり返っていた。
勇者アウレリアと覇王ディアボロス。
互いに剣を構えたまま、一歩も動かない。
聞こえるのは、互いの呼吸だけ。
大気すら、この一瞬を待っているようだった。
ディアボロスは静かに「常世樹斬」を持ち上げる。
ゆっくりと。
あまりにもゆっくりと。
その動きは、離れて見守るレオニスの目にも追えるほどだった。
――まだ間に合う。
そう錯覚するほどの所作。
だが、その次の瞬間。
剣が消えた。
一閃。
そして、轟音だけが遅れて世界を揺らした。
レオニスの目には、一度だけ剣が振られたようにしか映らない。
しかし実際には違う。
十の斬撃。
それらが寸分の狂いもなく、一つの軌跡へと重なっていた。
甲高い金属音が幾重にも重なり、大気が悲鳴を上げる。
衝撃だけで地面が裂け、無数の亀裂が戦場を駆け抜けた。
次の瞬間。
アウレリアの白銀の鎧に十本もの斬線が刻まれる。
そして時間差で。
胸元と脇腹から、鮮やかな鮮血が宙へ舞った。
魔力で敵を押し潰す暴威ではない。
巨大な力で蹂躙する覇道でもない。
魔王でありながら、ひたすら剣という技を磨き続けた果てに辿り着いた一太刀。
積み重ねた幾年か分からないという歳月、そのすべてが凝縮された剣技だった。
そこには、覇王ディアボロスという存在の風格があった。
アウレリアは数歩下がりながら体勢を立て直す。
傷口から血が滴る。
それでも、その瞳に宿る光は失われない。
むしろ、さらに強く輝いていた。
「……さっきの石より、遥かに速い」
「防ぎ損ねた」
口元を指で拭う。
赤い血を見つめると、小さく笑った。
「まぁ、致命傷じゃないけどね……」
聖剣を握る手に、迷いはない。
再び剣先を覇王へ向ける。
今、戦っているのは距離ではない。
互いの剣が支配する絶対領域。
一歩踏み込めば、生死が決まる世界だった。
それでもアウレリアの口元には、恐怖ではなく笑みが浮かんでいた。
強敵と巡り会えた者だけが浮かべる笑み。
ディアボロスもまた、その表情を見て静かに笑う。
「見事だな」
低く響く声が戦場へ落ちる。
「これほどの冴えは、この魔王国でも、そうはいない」
覇王は理解した。
勇者の才を。
勇者の器を。
そして、その価値を。
「……そして、惜しいとも考える」
アウレリアは眉をわずかに上げる。
「……惜しい?」
ディアボロスは白い瞳で真っ直ぐ勇者を見据えた。
王として。
武人として。
一切の偽りなく言葉を紡ぐ。
「……勇者よ」
「俺の部下にならないか?」
それは嘲りでも、降伏勧告でもない。
魔王から勇者へ贈られた、最大級の賛辞だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦場には、不思議な静けさが戻っていた。
互いに剣を下ろさぬまま、勇者と覇王は言葉を交わす。
勇者の物語では、幾度となく語られてきた光景。
魔王が勇者を配下へ誘うという場面だった。
ディアボロスは常世樹斬を肩に担ぎ、静かに口を開く。
「……そして、事が終われば、魔王国を貴様がどう変えてもかまわん。」
「力がすべての魔王国だ。お前ほどの力があれば、従う者も多くいるだろう。」
その声音に迷いはない。
冗談でも挑発でもなかった。
魔王国の統一を掲げる覇王が、自ら築くはずの国を委ねてもよいと言っている。
それほどまでに、アウレリアという勇者を認めていた。
レオニスは思わず息を呑む。
(……正気、なんだろうな)
だからこそ驚いた。
実際にその場へ立つと、どんな感情を抱けばいいのか分からない。
少なくとも、ディアボロスから悪意は一切感じられなかった。
勇者を利用しようという打算も見えない。
純粋に、その力と器を認めている。
だからこそ、共に歩めと言っているのだ。
アウレリアは眉をひそめた。
「あんた、聖剣と勇者が許せないとか言ってなかった?」
「ああ。確かにそう言った」
ディアボロスは即座に肯定する。
「魔王国で聖剣が流した血は膨大だ。その恨みもまた深い」
一拍置き、白い瞳が真っ直ぐ勇者を射抜く。
「だが、お前の力は、その聖剣が流した血に値する何かを成せると期待させる」
「たとえば、魔王国に残る勇者の悪しき伝説を、すべて塗り替えることすらな」
その言葉を聞き、レオニスは否定できなかった。
アウレリアという少女には、不思議な力がある。
理屈ではない。
身分も。
種族も。
過去の因縁すら越えて、人を動かしてしまう。
そんな絵空事のような未来を、本気で信じさせる何かがあった。
ディアボロスは剣を下ろし、穏やかな声で続ける。
「……どうだ」
「俺に仕えてみないか」
命令ではない。
命乞いでもない。
一人の王が、一人の英雄へ差し出した誠実な誘いだった。
レオニスはアウレリアへ視線を向ける。
覇王ディアボロスは、恐ろしく優れた王だ。
敵である勇者さえ、先入観を捨てて評価できる度量。
誰より前に立ち、自ら剣を振るう覚悟。
そして、それに見合う圧倒的な武。
もし強さだけを求める戦士なら、この王へ忠誠を誓っても不思議ではない。
その誘いは、あまりにも魅力的だった。
(……でも)
レオニスには、一つだけ確信できることがある。
覇王ほどの人物でも、きっと理解できないもの。
それが、アウレリアという少女の生き方だった。
アウレリアは小さく肩をすくめ、困ったように笑う。
「……ちょっと、出来ない相談だなぁ」
その一言で。
アウレリアは、覇王からの誘いを静かに断った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




