簡単なことだ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
掃き清められた長い廊下を、フィデリアは静かに歩いていた。
磨き上げられた床には淡く光が映り込み、壁には重厚な額縁に収められた肖像画が等間隔に飾られている。
精巧な彫刻が施された調度品も並び、この離宮が主の威厳を示すためだけでなく、大切な客を迎える場として整えられていることが窺えた。
グラーディスやイシュリアンがここにいれば、肖像画に描かれた人物の種族や時代に違和感を覚えたかもしれない。
だが、フィデリアは一枚一枚に目を留めようとはしなかった。
今、知るべきことは別にある。
「こちらでお待ちください」
先を歩いていたアインが、一際大きな両開きの扉の前で足を止めた。
扉の左右には、二人の使用人が微動だにせず立っている。
その姿を見た瞬間、フィデリアはわずかに目を細めた。
(……同じ顔?)
髪の色や髪型こそ違う。
しかし、顔立ちは驚くほど酷似していた。
違いがあるとすれば、口元のほくろや瞳の色合い程度でしかない。
その視線に気づいたアインが、静かに口を開く。
「私たちはホムンクルスにございます」
「この離宮を管理し、守護するために造られた者たちです」
まるで質問されることを見越していたような答えだった。
フィデリアは小さく頷く。
(……役目のためだけに存在する)
(……私も、同じですね)
裁定者として召喚され、儀式を遂行するためだけに在る自分。
その在り方は、彼女たちとどこか重なって見えた。
だからこそ、一つだけ疑問が生まれる。
(……ですが、なぜ彼女たちは――)
そこまで考えたところで、フィデリアは静かに首を横へ振った。
今は意味のない思考だった。
裁定者として不要な迷いは切り捨てる。
「では、お入りくださいませ、お客様」
アインの合図とともに、左右の使用人が一斉に頭を下げる。
重厚な扉が、音もなくゆっくりと開かれた。
フィデリアは恐れることなく、その先へ足を踏み入れる。
広大な室内だった。
本来であれば、謁見の間として用いられるのであろう造り。
高い天井。
左右に並ぶ柱。
赤い絨毯が真っ直ぐ奥まで続いている。
しかし、今この広間にいるのは、ただ一人だけだった。
「来たか」
低く響く声。
広間の中央には、一人の巨躯の男が立っていた。
覇王ディアボロスは、酒の入ったグラスを片手に、静かにフィデリアを待っていた。
「ようこそ、とは言えんのだろうよ、“姫巫女”」
「今更ながらだが、非礼を詫びよう」
そう告げると、ディアボロスは言葉だけではなく、実際に頭を下げた。
その姿を見ても、フィデリアの心は大きく揺れなかった。
だが、一つだけ。
どうしても聞き流せない言葉があった。
(……なぜ、魔王国の魔王が、その呼び名を)
「姫巫女」。
それは王国の人々が裁定者を、自分たちに都合よく語るために生み出した呼称だった。
本来、この魔王国に存在するはずのない言葉である。
だからこそ。
魔王が頭を下げたことよりも、その一語の方が、はるかにフィデリアの心を揺さぶっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「好みの飲み物はあるかね? アインに言えば用意してくれる」
静まり返った広間に、覇王ディアボロスの低い声が響く。
その指が軽く鳴らされると、控えていたアインが銀のトレイを押して歩み寄ってきた。
色鮮やかな果実水。
香り高い茶。
そして琥珀色の酒。
来客を迎えるに相応しい品々が整然と並べられている。
「無論、毒や薬は入っていない。疑うのであれば、アインに試飲をさせよう」
ディアボロスがそう言ってグラスを持ち上げると、別の侍女が静かに酒を注ぐ。
一連の所作には淀みがない。
まるで本当に賓客を迎えているかのようだった。
「いえ、遠慮しておきます」
フィデリアは穏やかに首を横へ振る。
「そうか。必要になれば求めればいい」
断られたことを気にした様子もなく、ディアボロスは酒を口へ運んだ。
沈黙が広間を包む。
その静寂を破ったのは、フィデリアだった。
「……なぜ、私を攫ったのですか?」
それこそが、ここへ来て最初に確かめるべきことだった。
フィデリアにとって、目の前の魔王とは初対面である。
しかし、ディアボロスは明らかに自分を知っていた。
そして、その呼び名だけが引っ掛かっていた。
「……申し訳ありませんが、私は『姫巫女』ではありません」
王国が勝手に名付けた呼称。
裁定者である自分を正しく表す名ではない。
その訂正だけはしておかなければならなかった。
「いや、間違いではない」
だが、ディアボロスは即座に否定した。
「かつて勇者を名乗る者が、『姫巫女』と呼んでいた存在がいた」
「その赤き衣。そして勇者の聖剣と共に在る姿」
「それが何者であろうと、俺にとっては『姫巫女』だ。忘れたことは一度もない」
その言葉に、フィデリアの表情が初めて揺らいだ。
過去に、自分と酷似した裁定者が存在した。
それだけでも十分な衝撃だった。
しかし、ディアボロスは淡々と言葉を続ける。
「勇者は魔王国を混乱へ陥れた」
「そして俺は、魔王国を守るために戦った」
遠くを見つめる白い瞳には、歳月を越えてなお消えない記憶が宿っていた。
戦いがあり。
その戦いを語るディアボロスは、今もここに生きている。
その事実が示す結末は、一つしかない。
「……まさか、選定者を……」
「そうだ」
ディアボロスは静かに頷く。
「奴らの行為は、許し難いものだったからな」
勇者を討った。
その一言は、フィデリアの胸に重く沈んだ。
それは”勇者の儀”が失敗したという意味に他ならない。
そして次に口にした言葉は、それ以上の衝撃だった。
「……神鋼」
その名を聞いた瞬間、フィデリアの瞳が大きく見開かれる。
裁定者が召喚し、選定者へ授ける武具の根源。
聖剣を生み出すための神なる金属。
「俺は、それで聖剣を超える力を作り出す」
ディアボロスは静かに、しかし揺るぎない確信をもって言い切る。
「そして、樹王から魔王国を解放する」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「かつて、俺は樹王に挑み、見事に敗れた」
ディアボロスは静かにグラスを傾け、その中で揺れる琥珀色の酒を見つめた。
「奴の力は常識を超えている。並みの力では倒せない……」
その声音には悔しさも怒りもない。
ただ、年月を超えてなお変わらぬ事実を語る重みだけがあった。
「時が流れ、勇者と樹王の争いを目撃した」
「その時、俺は聖剣という力を目の当たりにした」
「あの人に、破壊の力を与える神の力を」
ディアボロスはゆっくりと言葉を紡ぐ。
勇者は樹王へ挑み、聖剣を振るった。
だが、勝利には届かなかった。
樹王はなお健在であり、勇者はその戦いで命を落とした。
それでも、ディアボロスの胸に刻まれたものがあった。
神鋼から生まれた聖剣。
あの武器だけは、確かに樹王へ届き得る可能性を秘めていた。
ならば、自分がその素材を手にし、自らの鍛冶の技で最強の武器へ鍛え上げれば。
樹王すら討ち滅ぼせるのではないか。
その結論に至ってから、ディアボロスは焦らなかった。
ただ機会だけを待ち続けた。
再び勇者が現れる時を。
そして同時に、理想の武器を造り出すため、鍛冶師として己を磨き続けた。
やがて再び勇者は現れた。
聖剣を携え、魔王国へ。
ディアボロスは激突の末、勇者を討ち果たした。
しかし、その瞬間だった。
聖剣は光となって消え去った。
姫巫女もまた、この世界から姿を消した。
予想もしなかった結末だった。
さらに長い年月が流れ、再び勇者は現れる。
今度のディアボロスは同じ過ちを繰り返さなかった。
勇者を殺さず、生かしたまま問い続けた。
そして知った。
『勇者の儀』という存在を。
姫巫女が神鋼を召喚し、それを勇者へ授けることで、聖剣が誕生することを。
「今までのことを考えると、聖剣と勇者、そして姫巫女は、一蓮托生のように、すべてを共有する存在なのではないか」
「俺は、そう推測する」
低い声が静かに響く。
その推論は、長い年月を費やした末に辿り着いた結論だった。
ディアボロスはついに聖剣そのものを手に入れた。
だが、神鋼は一切加工できなかった。
そして勇者が命数を使い果たした時、聖剣もまた存在ごと消滅した。
「……なぜ、そこまで……」
思わず漏れたフィデリアの問いは、驚きよりも理解できないという響きを帯びていた。
目の前の魔王を突き動かす執念。
恐らく数百年という歳月を費やしてなお揺るがない理由。
その答えに、ディアボロスは迷いなく口を開く。
「簡単なことだ」
白い瞳が真っ直ぐフィデリアを見据えた。
「俺が樹王を倒し、魔王国を解放するために造られた――人造魔王だからだ」
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