何をしにきた
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
張りつめていた空気が、一瞬で凍りついた。
ロウガの琥珀色の瞳が、普段では考えられないほど大きく見開かれる。
その視線の先には、いつの間にかフィデリアの背後へ立つ、一人の巨躯があった。
誰一人、その接近に気付けなかった。
「……ディアボロス……」
ロウガが低く名を漏らす。
その名を聞いた男は、静かに視線だけを向けた。
「無事に麗王レイラと合流できたようだな」
感情をほとんど乗せない重厚な声。
しかし、その一言だけで、この場の空気が支配される。
「……何? あんた?」
緊張感など意にも介さず、アウレリアが率直に尋ねる。
男はゆっくりと答えた。
「ディアボロス。魔王国では、覇王で通っている」
その名乗りを聞いた瞬間、レオニスの背筋に冷たいものが走る。
(覇王だって!?)
魔王国を席巻する存在。
ロウガ、レイラに続く、三人目の魔王。
しかも、その中でも統一を掲げる覇王が、何の前触れもなく目の前へ現れた。
「……何をしにきた、ディアボロス」
ロウガの声音は低い。
だが敵意よりも、警戒が勝っていた。
ディアボロスは肩をわずかに揺らす。
「……魔王国で、俺が移動するのに許可が必要か、ロウガ」
返答になっていない。
それでも覇王は平然としていた。
そして白い瞳を、勇者一行へ向ける。
「俺が用事があるのは、お前ではない」
ゆっくりと掌が持ち上がる。
向けられた先は、アウレリアたちだった。
「皆!」
危険を察したアウレリアが叫ぶ。
その瞬間、魔力をまとった掌圧が放たれた。
轟音。
空気そのものが押し潰される。
グラーディスは即座に聖盾を掲げる。
鈍い衝撃が盾全体へ走った。
イシュリアンは聖杖を掲げ、魔力障壁を展開する。
透明な壁が激しく軋み、火花のような魔力が散った。
そしてレオニスへ向かう一撃を、アウレリアが割って入る。
聖剣が銀光を描き、掌圧を真正面から断ち砕いた。
衝撃波が四方へ吹き抜ける。
「…やるではないか」
ディアボロスは感心したように呟いた。
だが、その視線は最初からアウレリアには向いていない。
「しかし、お前たちなどどうでもよい」
次の瞬間だった。
ディアボロスの指先が、フィデリアの額へ静かに触れる。
フィデリアの身体から力が抜け、次の瞬間、糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
ディアボロスは倒れ込むより早く、その華奢な身体を傷つかないように抱き留めた。
「っ!」
同時に鋼がぶつかるような音が鳴る。
アウレリアの聖剣が一直線に閃く。
それを、ディアボロスは武器すら持たず、片腕だけで受け止めていた。
剣圧で大地がひび割れる。
それでも覇王の腕は微動だにしない。
「……邪魔をするな」
「……フィデリアを解放しろ!」
「断る」
短い応酬。
それだけで二人の気配が膨れ上がる。
まるで空間そのものが軋むような圧力だった。
(何が起こっているんだ!?)
レオニスには理解が追いつかない。
覇王から殺気は感じられない。
怒りもない。
敵意すら希薄だった。
それなのに、この場にいる誰よりも恐ろしく見える。
覇王ディアボロスという存在は、その場に立っているだけで戦場そのものだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「リアン、レオニス、私の後ろへ!」
グラーディスが一歩前へ踏み出し、聖盾を構える。
「フィデリア様を解放しなさい!」
イシュリアンも一歩前へ出る。
聖杖を覇王ディアボロスへ向け、その先端に光が集束していく。
「――聖撃砲!」
轟音とともに、眩い光の奔流が一直線に放たれた。
貫通力を極限まで高めた聖杖の能力。
並の魔物なら、直撃した瞬間に消し飛ぶ一撃だった。
しかし。
ディアボロスは片手だけをゆっくりと持ち上げる。
掌底が光を受け止める。
轟音と共に衝撃が弾け、聖撃砲はあらぬ方向へ弾き飛ばされ、爆風だけが周囲へ吹き荒れた。
「……なんたる反応の速さ」
イシュリアンが思わず舌打ちする。
フィデリアを巻き込まぬよう威力は抑えていた。
それでも、高速度で放った魔法を見切られ、受け流された事実は変わらない。
覇王ディアボロス。
その防御能力、あるいは防御本能は、常識を超えていた。
イシュリアンは続けざまに魔法を構築しようとする。
だが、その手は止まる。
ディアボロスは意図的にフィデリアを身体の前へ抱え込み、盾のような位置へ移していた。
撃てば、フィデリアを巻き込む。
それはアウレリアも同じだった。
聖剣は何度も閃く。
しかし、その剣筋は普段より明らかに鈍い。
刃の軌道上には、常にフィデリアの姿がある。
斬れば助ける相手まで傷つけてしまう。
本来なら絶大な威力を誇る聖剣が、今は足枷となっていた。
一方のディアボロスも、片腕でフィデリアを抱えたまま戦っている。
本来の実力を発揮できる状態ではない。
それでもなお、押されているのはアウレリアだった。
「……くそがっ」
ロウガが歯を食いしばり、一歩踏み出だそうとする。
その腕を、レイラが静かに掴んだ。
「レイラ!」
「まだ駄目です、ロウガ」
強い口調ではない。
「覇王と彼らの争いに干渉してはいけません」
それでも、決して譲らない声音だった。
ロウガは鋭く睨み返す。
レイラも視線を逸らさない。
しばらく無言が続き、やがてロウガは奥歯を強く噛み締めた。
王である前に、一人の男としては今すぐ飛び込みたかった。
拳が震えている。
それでも動けない。
レイラが止めた理由を、誰より理解しているからだ。
現在、人狼族と覇王軍は同盟関係にある。
ここでロウガがディアボロスへ刃を向ければ、それは同盟の破棄を意味する。
その先に待つのは、人狼族と覇王軍との全面戦争。
戦力差は明白だった。
人狼族は滅びる。
アウレリアは、ロウガにとって妹のように大切な存在だ。
だが、一族すべての命を彼女のために天秤に掛けることはできない。
王である以上、その選択だけは許されなかった。
(何を考えている、ディアボロス……)
ロウガは白銀の覇王を見据える。
(そのヒト族に、一体何がある)
長い付き合いだからこそ分かる。
ディアボロスは、意味もなく他者を攫う男ではない。
だからこそ、フィデリアを求める理由、その目的だけが、この場で唯一読めなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ディアボロスは静かに息を吐いた。
「……想像以上に手強い。素手では対抗できないと認めよう」
その低い声に、余裕は失われていない。
ただ、相手を正当に評価した武人の響きだけがあった。
ディアボロスが片手を前へ差し出す。
次の瞬間、その空間が水面のように揺らぎ、小さな裂け目が生まれた。
そこから現れたのは、一振りの柄。
「……こちらも遠慮なく武器を使わせてもらう」
ゆっくりと柄を握り、引き抜く。
空間の裂け目から姿を現した武器を見て、レオニスは思わず息を呑んだ。
「……何だ、あれは!?」
剣でも槍でもない。
巨大な漆黒の鞭。
だが、革でできた武器とは似ても似つかない。
太い金属の節が幾重にも連なり、生物の脊椎のようにうねっている。
まるで、巨大な鉄の蛇が一本、そのまま武器となったような異形だった。
「我が『天裂鞭』の力に耐えられるか、勇者」
ディアボロスは軽く腕を振る。
その動作はあまりにも小さい。
しかし放たれた一撃は、小さくなどなかった。
漆黒の大蛇が地を這うように暴れ狂い、土が砕け、大地を引き裂きながら勇者一行へ襲いかかる。
最初に受け止めたのはグラーディスだった。
聖盾を正面に掲げ、真正面から迎え撃つ。
轟音。
「……何たる威力だ。鞭とは思えん……まるで鉄槌だ」
衝撃だけで両足が地面へ沈み込む。
踏み締めた踵が土を割り、砂煙が舞い上がった。
しかし、それで終わらなかった。
天裂鞭は一本ではない。
否。
一本の鞭が無数の軌跡へと分かれ、空そのものを漆黒に染め上げた。
四方八方から襲い来る一撃。
逃げ場は存在しない。
「天城の大盾!」
グラーディスが聖盾の力を解放する。
巨大な光の結界が仲間全員を包み込み、その上へ暴風雨のような鞭撃が降り注ぐ。
一撃ごとに大地が揺れた。
盾が軋み、結界が震える。
それでもグラーディスは一歩も退かなかった。
「面倒な!」
同時に、アウレリアへも無数の鞭が迫る。
「聖剣乱舞!」
銀閃が幾筋にも走る。
聖剣の軌跡が壁となり、漆黒の鞭と激しく火花を散らした。
金属同士が激突する甲高い音が連続し、周囲へ衝撃波が広がる。
だが、その迎撃こそが致命的だった。
仲間を守るため、アウレリアは一瞬だけディアボロスとの間合いを離してしまう。
その一瞬。
覇王は見逃さなかった。
「な!?」
誰もが目を見開いた。
フィデリアを抱えたディアボロスの姿が、陽炎のように揺らぐ。
空間そのものが歪み、その巨体が輪郭から薄れていく。
「……転移魔法!? そんなものまで!」
イシュリアンが叫ぶ。
理解した時には、すべてが遅かった。
空間の歪みは静かに閉じる。
そこに残ったのは抉られた大地と、重苦しい静寂だけだった。
勇者一行は、フィデリアを奪われるという目的を許し、覇王ディアボロスの完全勝利を見届けることしかできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




