よろしくやってね
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
肺の奥まで冷え切った息を、ロウガはゆっくりと吐き出した。
胸に突き刺さったままの細身の剣を握る。
「……っ」
鈍い痛みに顔をしかめながらも、一気に引き抜いた。
鮮血が噴き出す。
だが次の瞬間、傷口の周囲から白い霜が広がり、流れ出た血ごと凍りつく。
自ら熱を奪い、強引に止血する。
(血管は避けた。これなら……しばらくは持つ)
短く息を整えると、膨れ上がっていた肉体が静かに縮み始めた。
銀白の鬣は元の髪へ戻り、鋭い牙も獣の脚も消えていく。
凍結牙。
人と獣の境界を越え、はじめて使える切り札は、使うだけで術者自身の命を削る諸刃の力だった。
制御を誤れば、自分まで凍りつく。
だからこそ、滅多に使わない。
それでも今回は、使わなければ生き残れなかった。
「……まったく、洒落にならん戦いだったな」
視線を前へ向ける。
そこには、氷像となった二体が静かに立っていた。
死王ノクス。
そしてレヴェナント。
凍結した表面は白く曇り、まるで時間そのものが止まった彫像のようだった。
「こいつらは……何者なんだ」
獣人でもない。
亜人でもない。
少なくとも、今の魔王国に存在するどの種族にも当てはまらない。
そんな異形を従える冥王。
しかも、その存在は民衆から信仰まで集めている。
力だけではない。
思想までも広がっている。
「……軽く見ていい相手じゃないな」
低く呟き、踵を返す。
「一度戻って、覇王の奴と合流した方がよさそうだ」
氷漬けの二体を始末する方法は、今はない。
無理に砕いても意味がある保証はない。
ならば、このまま放置するしかない。
「“凍結牙”で止めた以上、そう簡単には動けまい」
そう言い聞かせるように呟く。
だが、自身の体も限界だった。
裂傷は全身に刻まれ、止血した胸の奥も焼けるように痛む。
「……ずいぶん、酷くやられたなぁ」
苦笑が漏れる。
その時だった。
ぴくり、と狼耳が震えた。
何かが来る。
それも、とてつもない速度で。
空気を裂き、大地を蹴り、一直線にこちらへ迫ってくる。
「……まずい、もう来た……」
尋常ではない力。
それだけでなく、その後方からさらに別の気配が追ってきている。
二つの強者。
しかも、どちらも迷いなくこの場所を目指していた。
「……さらに来る、だと?」
ロウガは苦く笑う。
「厄日だ、ちくしょう」
重い体に力を込め、ゆっくり立ち上がる。
戦える状態ではない。
それでも倒れるわけにはいかなかった。
そして、森を揺らす勢いで一つの影が着地する。
地面が震え、木々がざわめく。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
腰まで届く赤紫の長髪が風に舞う。
黒と紅を基調とした装束。
目元を覆う漆黒のバイザー。
その全身から噴き上がる怒気と殺気は、大気すら震わせるほど濃密だった。
「私の、ロウガを傷つける奴は、許せません!」
透き通る声とは裏腹に、その言葉には凄絶な怒りが宿っていた。
「万死に値すると思いなさい!」
麗王レイラ。
牙王の前に現れたのは、誰よりも彼の身を案じる、一人の魔王だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……レ、レイラ……」
牙王ロウガが、珍しく頬を引きつらせた。
どれほど強大な敵を前にしても動じない男が、今だけは別だった。
(近づいていることは分かっていたが……)
レイラは何も答えない。
静かに歩み寄り、その視線をロウガへ向ける。
肩口の裂傷。
腕に走る深い切り傷。
そして、胸元に残る、鋭い刃で貫かれたような傷跡。
一つひとつを確認するたび、その周囲の空気が冷たく張り詰めていく。
やがて、端整な顔立ちは鬼神のような形相へと変わった。
「……生まれたことを後悔するくらい、何回も刻んでから……処刑してやる……」
低く漏れた声には、底知れない怒りが宿っていた。
「お、落ち着け、レイラ。もう終わっている」
さすがのロウガも一歩だけ後ずさる。
怒り狂ったレイラを相手にするくらいなら、両手両足を縛られたまま百人を相手に戦う方が気は楽だ。
本気で、そう思っていた。
「敵はもう無力化した。俺が勝った……」
「だから、気を鎮めてくれ。頼む」
ぴくり、とレイラの狼耳が揺れる。
「……ロウガの、お願い……」
小さく呟く。
「……それは、叶えてあげないと……」
その瞬間だった。
周囲を覆っていた凄まじい怒気と殺気が、嘘のように霧散していく。
木々を震わせていた圧力まで消え去り、森には静寂が戻った。
「……ふぅ」
ロウガは心の底から安堵の息を漏らす。
死王との死闘に勝利した時以上に、肩の力が抜けていた。
――だが、安心したのは早すぎた。
「……ロウガ!」
レイラが勢いよく飛び込み、そのままロウガへ抱きつく。
「ぐっ……!」
傷だらけの身体に衝撃が走る。
「ま、待て、レイラ!まだ、この近くに――」
制止の言葉は最後まで届かなかった。
「ロウガ……ロウガ……」
何度も名前を呼びながら、存在を確かめるように抱き締める。
さらに頬の傷へそっと顔を寄せると、優しく舌先で血を拭い取った。
「ああ……こんなに傷ついて……痛かったでしょう」
「いや、そのくらいは……」
安堵で理性の糸が切れたレイラの表情が変化する。
「ああ、ロウガの味……香り……」
恍惚とした声だった。
抱き締める腕にも、少しずつ力が入っていく。
「待て、ちょっと……いや、だいぶ方向が危ない……」
長い付き合いだからこそ分かる。
これはもう、普段の冷静な麗王ではない。
心配が行き過ぎて、どこか別の方向へ暴走し始めている。
その時だった。
森の奥から、もう一つの気配が近づく。
先ほどから感じていた、もう一人の追跡者。
木々の間から姿を現したその人物を見て、ロウガは目を丸くした。
「……ア、アウレリア?」
視線の先では、レイラがロウガにしがみついたまま離れない。
そして、その光景を目の当たりにしたアウレリアは。
頬をみるみる真っ赤に染め、その場で固まっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ア、アウレリア、なのか?」
ロウガは目を見開いた。
そこに立っていたのは、共に旅をしたヒト族の少女だった。
屈託なく笑い、どんな土地にも飛び込んでいく好奇心。
剣の腕も一流。
種族の違いなど気にも留めず、魔王である自分にも真っ直ぐ接してきた珍しい存在だった。
だからこそ。
これから訪れる戦乱へ巻き込みたくはなかった。
短い間とはいえ、実の妹のように思っていた少女だからこそ、別れを選んだのである。
本来なら。
時を越えた偶然の再会として、喜び合う場面だった。
だが、現実はあまりにも最悪だった。
今の光景だけを見れば、誰だって同じ結論にたどり着く。
ロウガは美女に抱きつかれ。
頬を舐められ。
互いに密着したまま離れない。
しかも昼間の屋外。
言い訳の余地が、まるでない。
沈黙が落ちた。
風さえ止まり、世界から音が消えたようだった。
やがてアウレリアは、ゆっくりとロウガへ視線を向ける。
その目は雄弁だった。
――乙女の前で、いきなり何を見せてるわけ?
一方のロウガも必死に視線で訴える。
――違う! 完全な誤解だ! そういう状況じゃない!
しかし、その必死さは届かない。
アウレリアは何も言わず、くるりと踵を返した。
「レイラさん。何もしてないけど、ロウガを捕まえるのに協力したから、後で協力してよね」
「二時間ほど、どっかにいってるから安心して」
妙に落ち着いた声だった。
対するレイラも、抱きついたまま即答する。
「不足です。三時間を要求します」
「二時間」
「三時間です」
一歩も譲らない。
その自然な応酬を見て、ロウガは別の意味で固まった。
(……知り合い、なのか?)
戦場で初めて会った者同士の空気ではない。
「待て、アウレリア! レイラとどこで知り合った!」
ロウガが思わず叫ぶ。
アウレリアは肩越しにひらひらと手を振った。
「後で教える。ロウガ、ちゃんとそこで待ってて。あたし、仲間連れてくるから」
「あ、おい!」
返事を待つことなく、少女は来た道へ駆け出す。
軽い足音だけが遠ざかっていった。
「もっとちゃんと説明しろ、アウレリア! 何がどうなってるのか、まるでわからん!」
必死の叫びが森へ響く。
すると遠くから、楽しそうな声だけが返ってきた。
「それも後で教えるー! レイラさんとよろしくやってね!」
「だから、その『よろしく』が何を意味してるんだ!」
叫びは虚しく空へ消える。
その間にもレイラは幸せそうにロウガへ頬を寄せたまま離れない。
戦場では決して見せない牙王の困り切った表情だけが、その場に取り残されていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




